第5話 孤独な影

 どのくらいそうしていただろう。ピクトグラムは気長に待ってくれているようだった。気持ちが落ち着いてくると、先程の台詞が気になってきた。『オレも何十回と見た』ということは、彼も航平と同じように、ある日突然ここに来て、困惑した経験があるのだろうか。


「……あの……」


 顔をあげてみると、ピクトグラムは体育座りの姿勢で、目を開けたまま、ゆらゆらしていた。


「親切や思たら、寝てたんかい」


「……はっ」


「まだよくわからんけど、説明の続き、いいですか? 」


「ああ、そうだよね。えーと……」


 彼によると、この空間全体についてはまだよくわからないが、今二人がいる場所は、この河の中洲のような地らしい。流れに沿うような楕円の形をしていて、かなりの広さがあるが、起伏が全く無い。足元の草のような植物以外、生物の痕跡もない。島の反対側の河は、更に広いようで、流れの向こうは霞に消えて見えないが、こちら側の上流の方には、うっすらと対岸が見える場所があるのだという。


「河から浮かんでくる、粒々のヤツ、見たでしょ? あれ、みんなあっちの岸に流れていくんだよね」


「なんか、霧みたいな、虹の色した……あれは何なんですか? 」


「あれはね、時間を使いきった命みたいなんだよね……」


 時間を使いきった……つまり、死を迎えた、魂……? 航平は思わず身震いした。今の今まで、呑気にキレイだなーなどと思っていたが、不謹慎だった。


「だからあっちの岸は、たぶん天国っていう場所なんだよ。……何であれが命だって思ったかっていうとね……」


 彼はそこで言葉を切り、少しの間考え込んでいたが、小さく首を振ると、呟くように言った。


「……説明しにくいけど、判っちゃったんだ……でもそれは後回しにしていいかな? まずはオレについて、説明させてよ」


 僅かに、彼から悲し気な空気が漂ってきたので、航平は黙って頷いた。




 彼は航平と同じ、あの流れの中で、普通に生きていた。経緯は定かではないが、物心ついたときには船に乗っていた。大きな交易船で、同じ年頃の少年と一緒に、雑役をしながら世界の海を渡った。本当の親は顔も知らないが、屈強な船員たちはみんな、二人の少年を可愛がってくれたし、誰よりも大きな背中の船長は、仕事には厳しかったが温かい人だったので、寂しさや不満を感じた覚えはない。


 読み書きも、船のあらゆる知識も、みんな船の上で学んだ。18になる頃には、彼は機関士として、もう一人は交易に欠かせない通訳として、一人前に成長していた。二人の未来は、蒼天の航路だった。あの日までは。


 嵐が来る、という予想はついていた。当然その備えは万全にしたし、これまでも数えきれないくらい大嵐には遭ってきたが、いつも無事にやり過ごせていたので、誰一人不安を感じていなかった。その日に限って、何が違ったのか、今でも解らない。彼はその時、自室で仮眠をとっていた。いつもと違う、といえば、その眠りが異常に深かったらしいことだ。もしかしたらどこかの時点で気を失ったのかもしれない。船底に大きな衝撃が走り、船長が雷のような声で脱出を命じ、大波が船に覆い被さって、沈没が始まった頃、やっと彼の意識が戻った。


 そこからは、航平が体験した通りだった。ただ、続きがあった。海に投げ出された彼は、沈没に巻き込まれ、海底に引きずり込まれたのだ。


 目が覚めたときには、ここにいた。死んだのだと思った。何も分からず、途方にくれた。時間の感覚が掴めなかったが、相当長いこと、ただ、ここにいた。それから、同じようにここに来た誰かがいるかもしれないと、探し回った。


「話に聞いてた天国と、ここはあまりにも違った。天使どころか、誰もいない。オレは何か、知らないうちに悪いことをして、天国に行けなかったのかな、って本気で思ったよ」


 その不安は、よく分かった。自分には、彼が居てくれて、幸運だった。


「……ずっと独りだったんですか? 」


「いや、ずっとじゃないよ。……かなり長いこと一人だったけどね」


 孤独と不安は、人の心を蝕む。いっそ、感情ごと消えてしまっていたら、どれ程良かったか。そして彼は、ある時、河に飛び込んだ。溺れようと、流されようと、とにかくここではない何処かに行きたかった。そしてはじめて、この河に流れているものを知る。水や風のような圧力はほとんど感じなかった。ただ、体のあちこちを、無数の幻がすり抜けていく。あまりに多くのイメージが脳を過って、船酔いをしたような気分になった。程なく、自分が飛び込んだときに出来た小さな渦が、上の方から伸びてきて、彼を捕らえた。水中に踊る落ち葉のように、無抵抗に回転していたが、やがてほどけるようにそれがおさまると、周囲の景色が変わっていた。


「どこかの市場だった。沢山の人がいて、物凄くうるさくて、目が焼けるかと思うくらい、鮮やかな服を着ていて。オレはあまり賑やかなのは好きじゃないけど、その時は嬉しかったよね。どうやってそこに行ったのかって謎が、ぜんぜん気にならなかったくらい。浮かれてたからかな、何日間か気がつかなかった」


彼は太陽に手をかざすように、片腕を白い虚空に差し伸べた。


「オレの姿は誰にも見えてなかったんだ」

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