第4話 虹の河

 ピクトグラム人間は、落書きのような顔のまましばらく固まっていた。何の感情も読み取れないその目を、じーっと見つめていると、何だか哀れにも思えてきた。もうちょっと、何とかこう、せめてもう少し、できなかったものか。


「……あ、これ? この格好? 」


彼は、関節のない腕を広げて見せた。航平は返事に困った時の癖で、鼻の横を指先で掻きながら、ゆっくりその場に腰を下ろした。よく考えてみれば、彼のこの姿も、自分の夢の産物なのだから、少なくとも嘲笑って良い立場ではないと思った。


「まあ、説明すると長いから」


「いや、なんか、すんません……」


「で、どうだった? 船長とニコラは助かった? 」


 たちまち、あの恐怖がよみがえった。光溢れる世界の中にあって、記憶を宿す自分の内側だけが、冷たい暗闇だった。


「……あの、説明してほしいんですけど。船長って、マッカ船長ですか? 何故あなたが……いや、その前に……ええと」


 航平の困惑した様子に、ピクトグラムは参ったな、というように頭を掻くと、その場にすとんと座った。妙な厚みのせいか、動きがいちいちぎこちない。


「まあ、そうだよね。何にも覚えてないのに、いきなりだもんね。……オレが焦りすぎた」


 (あれ、テキトーっぽいけど、意外と話の分かる奴かもしれん。)


「オレはオマエを利用しなきゃならないから、知っておいてもらわないと、余計面倒くさいことになるよね。よし、説明してやる」


 (前言撤回。こいつは悪意はないかもしれんけど、根っからの自己中か面倒くさがりや。)


「その代わり、長くなるよ」


「それはいいんですけど……まず知りたいのは、ここは俺の夢の中っちゅうことで、ええんですよね? と、それと、あなたは誰で、俺を何に利用するつもりなんですか? 」


話が始まらないうちに、とりあえずはっきりさせたいことを訊いた。例えば、今、目が覚めたとして、何一つ分からないままだったら、またモヤモヤと気になってしまう。


「まずはそこか。……そこが一番、厚い壁だと思うんだけどね……正直、それ、理解できたら、もうあとはスーっと入ってくるんだよね」


 航平はどちらかというと気が長い方だ。それでも、この状況でこののらりくらりとした口調は、イラっとせずにいられなかった。


「聞いてみんと、分からへんし。分かると思えば分かるんちゃうんか」


「まあ、そうだよね。じゃあ言うけど、まず、ここはオマエの頭の中が生んだ空間じゃないよ。別に、オマエがここは夢の中だって信じたいなら、かまわないんだけどね。ただし、どれだけ『あっち』に帰りたくても、夢から覚めるみたいに簡単にはいかない。……分かる? 」


 ピクトグラムによると、航平がいた世界は『時間の流れの中』にあり、ここは『時間の流れの外』にある。早くも理解の範疇を超えて、ぽかんとするばかりの航平に、彼は目の前の河を指し示した。


「あれが、時間の流れだよ。見た感じは普通に水の流れなんだけど、手を入れても濡れないから、風の流れのようでもある。覗いてみるがいい」


 航平はゆるゆると立ち上がり、川辺まで近付くと、その水面を覗き込んだ。光の反射で、銀色に見えた波は、確かに透き通った水そのもので、ただ、恐ろしく深い。じっと見つめていると、意識が吸いとられそうな不思議な感覚になり、ぐらりと身体が傾いた。思わずきつく目を瞑り、再び開けた瞬間だった。流れの中に、見知らぬ町の幻が浮かんだ気がした。(……え? )目を凝らせば消え、目をそらせば再び現れ、それはまるで、渓流に身を翻す小さな魚のようだった。昼下がりの町並み、笑い合う人々、交差していく自転車、満足げな犬……


 その時、小さな虹色の泡がいくつか、ぷくぷくと上がってきた。それは流れに弄ばれ、螺旋となり、それでも消えることなく水面を目指してきた。そして、そのまま、波間から空中に浮かび上がり、何かに導かれるように、一定の方向に漂って行く。よく見れば、それは川面のあちこちで、ひっきりなしに立ち昇っていて、淡い七色の霧のように見えた。


 美しく、静かで、何故か胸を締め付けるような懐かしさを感じる、あまりにも不思議な風景だった。航平は震えながら、顔を覆った。ここは、確かに、『異なる世界』らしい。夢の中だという可能性はまだ捨てきれないけれど、『簡単には帰れない』という言葉が、現実味を帯びて迫ってくる。


「……こんなことって……」


「納得するまで見ていてもいいよ。オレだって理解するまで何十回と見たよ。それからこうして行動に移そうって思えるようになるまで、かなりかかった。変だよね。時間のない世界なのに、頭の中だけはしっかり時間が流れてるみたいで」


ピクトグラムはいつの間にか側に座っていた。意外なほど、その気配と声が温かく感じられて、今だけは何も考えずに、こうしていようと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る