第3話 白い世界

 航平たちの住む町は、遠浅の海のすぐ側にある。ひなびた漁港に水揚げされるのは、ほとんどが小振りのイカで、季節になると、開いて串を刺したものが、乾いた風に当てられている光景が見られる。濃厚な海の香りの中、小さな旗のように翻る様は、自然の恵みへの感謝の祈りのようだった。


 しかし、そんな懐かしさはともかく、まさか自分がそのイカの気持ちになるとは思ってもみなかった。


 今、航平は大の字に何かに貼り付けられて、宙吊りになっていた。相変わらず訳が解らなかったが、彼としてはもうこれは絶対に夢だと決めていたので、さほど驚かなかった。ただ、いい加減起きたいと願っていた。


 首も動かせないので、可能な範囲で辺りの様子を伺う。ただ白々とした、何もない場所だった。


「おぅ、成功成功」


 何処からか、いかにも呑気そうな声が響いてきた。まだ若いと思われる、男の声だった。


「ちょ、これ何なん……ですか? ここは一体何処やねん……です? 」


落ち着いていると思っていたが、言葉を発してみると、やはり狼狽えているらしい。敬語がとにかく下手くそな、青谷みたいで笑えてきた。


「待ってー。とりあえず降ろすから」


靄がかかっているのか、足元辺りから聞こえてくるのに、主の姿は見えない。


 キィキィと金属が軋む音が、しばらくの間していた。言葉通りだとすると、降ろしてくれているらしいが、こう視界が悪いと、よく分からない。


 と、突然、貼り付けられた何かごと、ガッと引っ張られ、仰向けに倒された。背中に衝撃を感じたが、思ったより痛くはなかった。軟らかい地面かもしれない。


「はーい。降ろしたよね」


 どうにも、調子の狂う声だ。


「……いや、あの、貼り付けられてるんやけど……」


「あー。だいじょぶ。もう動けるよね」


 そう言われても、どこにどう力を入れれば動けるのかが分からない。(そうか、これが噂に聞く金縛りっちゅうやつなんやな。確か、小指とか、末端の方から徐々に動かしていけばええとか……)


「……動けませんけども」


「えー。ちゃんと動けるって思ってる? 動きたい、じゃなくて、動けるけどどうした? って感じに思ってよね」


どうも、なんというか、軽いノリだ。まぁ、夢なんてそんなものかもしれない。


仕方なく、普通に動けるつもりになってみる。


「あ」


「そうそう。何でもそうだよね。動けないって思ってるから動けない。当たり前だよね」


 何故か偉そうに言われて、少しムッとした。そもそも状況から考えて、こんなものにーー改めて見たら、それはどうやら透明のプラスチックっぽい板だったのだがーー貼り付けたのは、この人だろう。断りもなく、いい迷惑だ。


 さらに不思議なのは、地上に下ろされて辺りの靄が薄くなったのか、次第に周囲の様子が見えてきたというのに、近くにいるはずのその人が見えないのだった。ああ、「何でもそうだよ」か。と気付いて、できるだけ意識せずにフイ、と視線を動かしてみた。


 さっと、風でも吹いたかのようだった。乳白色の曇りが突然消え、クリアな世界が広がった。辺りは一層白々として、しかしそれはあまりにも光が溢れているせいだった。足元は淡い色の草のようなもので覆われ、少し離れたところにはゆったりと川が流れていた。かなり大きな河のようで、対岸は光に溶けて見えない。次に目に入ったのは、この景色の中にそぐわない、一抱え程の太さの灰色の柱。下の方には、大きなハンドルがついている。おそらくこれは、自分を吊っていた何かの一部だろう。そして。


「で、どうだった? 」


横にいたのは、不自然な厚みがあるピクトグラムの人間だった。顔だけは描き足されていたが。


「うわああ! 」


航平は思い切り叫ぶと、飛び退いた。不気味きわまりない。


「え、何」


「ひじょ……非常口のヤツ! 」

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