第2話 マッカ船長

 いきなり何かに捕まれて、放り投げられたようだった。全身を強く打ち付けて、航平は目を覚ました。痛いと感じる間もなく、再びでたらめな方向に放り出される。本やら瓶やら、ありとあらゆるものが周りに飛び交う。咄嗟に側に飛んできた枕を掴み、頭を隠した。何が何やら解らない。けれどこのままここにいるのは危険だ、と思った。次に転がされた先に、ドアらしきものにぶつかったので、必死でノブを掴んだ。内蔵が引っ掻き回されたような、凄まじい吐き気に襲われる。混乱した頭が、絶望を感じとるより先に、体は生きる可能性を求めてもがく。航平は空回りするばかりのノブにすがりながら、言葉にならない叫びを上げ続けた。


 声が枯れ、意識が朦朧としてきた時、突然力強い腕に掴まれ、ドアの外に引っ張り出された。


「おい! しっかりしろ! 」


太い声が聞こえた。両肩をしっかり支えられて、そこから伝わってくる熱に、強張った神経が徐々に緩んでいく感覚があった。


「おい! 」


 航平は応えようと唇を動かすのだが、麻酔を打たれたときのように、思うようにならなかった。ただ、とりあえずは助かったのだと解った。


 気が付けば、先ほどまでの激しい揺さぶりが収まっているようだ。


「探したぜ。とにかく急ぐぞ」


 声の主は、軽々と航平を担ぐと、斜めに傾いた廊下を駆け上った。彼の大きな背中で跳ねながら、廊下は実は壁だったらしいことに気付いた。つまりこの建物は、ほとんど横倒しのようになってしまっていたのだ。


「ここ……何処……」


やっと、言葉が出た。


「ああ? 何だ、頭でも打ったのか? 」


相当な勢いで走っているが、彼の声は低く穏やかで、航平は思わず子供のようにしがみついた。


「俺の船だ」


「ふね⁉ 」


「大丈夫かい? 何ヵ月も一緒に海を渡ってきたじゃねえか」


 頭の中の何処を探しても、そんな記憶はない。船なんて、遊覧船位しか乗ったことはない。


「参ったな……でもな、このまま中にいても、万が一にも助からねえ。とにかく海に飛び込んで、何でもいい、遠くへ離れろ。運がよけりゃ、生き延びられる」


 男は身軽に横っ飛びをすると、今度は垂直に何かを登り始めた。吹き下ろしてくる風に気付いた航平は、痛む首を無理矢理ひねって、上を見た。


 吸い込まれそうな闇が、枠だけになった戸口の向こうにあった。狂ったように唸る風が、この船の逃れられない運命を突きつけてきた。


 戸口の脇の、ちょっとした凹凸に体を隠すようにして、航平を肩から下ろした。初めて、男を真正面から見る。ほとんど光はなかったが、もさもさとした髪と、鼻から下を覆う髭が見えた。それから、大きな二つの眼。まるで青い小さな火花を宿しているかのように、ちかちかと光って見えた。確かに、初めて会う男だった。けれど、よく知っているようにも思えた。


「俺を、探してくれたんですか? 」


「お前の相棒が、探してたんだ。海に落ちたか、まだ船内に取り残されているか。あいつは先に行かせた。俺が必ず助けるって約束した。さあ、時間がねえ、そこから一気に飛び出して、そのまま飛び込め」


 航平は指差されるまま戸口を見た。体の中の何かが、硬く固まってくるのを感じた。これが恐怖というものだろうか。


「何してる! 沈みはじめてんだ! 遅れたら巻き込まれるだけだ! 」


 まるで立て付けの悪い引き戸をぎしぎしと開けるときのように、無理矢理両腕を伸ばし、戸口の枠に掴まった。この底知れない闇と、逆巻く嵐の中に飛び込まなければならないのか。


「行け‼ 」


航平はぎゅっと目をつぶった。悪夢だとしか言いようがない……と、ふと思い出したことがある。似た光景を、見た覚えがある。そうだ、あれは。


「これは夢や」


(なんだ、そういうことか。夢なら、死なん。)急に全身に血液が廻りだした。(良かった。早いところ目覚めてしまえば、解決や。目覚めろや俺。)


「この馬鹿‼ 」


背後から怒声が響き、次の瞬間、人間のものとは思えない力で船から引き剥がされ、そのまま放り投げられた。


「生きるんだレフ! 」


海も空も、獰猛な獣の唸り声に似た音で渦巻いていた。嵐に弄ばれながら、航平の体は海へと落ちていった。聞こえるはずのない声だったのに、はっきりと伝わってきた言葉に、思わず叫び返していた。


「船長! マッカ船長ーーーー!! 」




 (どうして、覚めんのや。これはあの恐ろしい夢の続き……いや、時系列的に少し前のシーンか……とにかく夢のはずなんや。本当の俺は、狭くても体にしっくり馴染むベッドで、平和に眠っているんや。早く、誰か起こしてくれや。母さん、何でこんなときに限って、尻を蹴飛ばしてこないんや。アホヤ、今なら一音も合ってないリンダリンダを力一杯歌っても、誉めたるわ。だから。)




 もはや意識を保っているのも難しかった。飲み込まれる寸前に、幻を見た。記憶にはないはずの、マッカ船長の笑顔だった。

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