アケルナル

やもりれん

第1話 夢

 つい先ほどまで見ていた光景が、いきなりがらりと変わって、彼の頭は一瞬混乱した。


 板張りの天井。そこに揺らぐ光の網目ーー庭の小さな池の水面が、静かな午後を映していた。


「……夢か……」


 彼は整理するように声に出すと、深く息を吐いた。痺れたような脳が、暗い欠片を手繰り寄せようとする。


 恐ろしく渦巻く黒い雲と、鉛色の波が何もかもを飲み込もうとしていた。何本もの腕が突き出ては消え、直後視界は、押し寄せる泡の球形の中に埋もれた。


 引き込まれていく感覚ーー彼はその恐怖から逃れようと、光の網目の方に意識を集中させた。良かった、夢で良かった。冷たい汗が背中を伝うのが感じられる。とにかく、夢で良かった。




「ちょっと、どんだけ呑気なん。長々と昼寝して、夢の話してる受験生なんてあんたくらいやわ」


 母は素麺が絡み付いたザルをばんばんと叩いて、呆れたように彼を見た。表情といい、髪型といい、昔ながらのオカンだ。


「しっかりしてや。私立行かせるお金なんかあらへんもん」


「……ちょっと話しただけやんか」


どん、と置かれた器山盛りの素麺に、雑に箸を突っ込みながら、彼は溜め息をついた。




「呑気やのー。ほんま」


「アホヤ、お前もか」


 実の入り掛けた稲が風を伝える通学路を、ふたり、自転車を押しつつ帰りがけ、彼は友達の言葉に嘆いて言った。


「夢は選ばれへんやんか。見とうて見たんちゃうし、呑気もくそも、遊びの夢ならまだしも、むちゃくちゃ怖かった、ちゅう話しただけやん」


「お前が昼寝して怖い夢見てる間にな、進学塾でバリバリやっとる奴がおる、っちゅうこっちゃ」


母親と似たような台詞をはきながら、アホヤーー本名を青谷というがーーの眼は面白そうに笑っていた。


「ーーまあ、それはそうやな」


彼が素直に頷くと、青谷は子供の頃から変わらない笑顔を見せた。


 青谷とは幼稚園に入る前からの友達だから、家族の次に長い付き合いだ。最初会った時は、細くて小さかった青谷だが、いつの間にか同じ位にまで育った。当たり前のように、部活動も同じ野球部で、二人仲良く交代要員のまま先月引退した。ついでに、本人たちには不本意なのだが、伸びかけの坊主頭のツンツン具合までお揃いだ。


「一緒の高校、行けたらええなと思ってんやぞ」


「お前こそ落ちんなや」


「ーーで、なに? パニック映画でも見て、寝てしもたとか? 」


「いや、何も見てない」


「昔に見た何かの映像とかに影響されとんちゃうか? 」


「かもしれんけど、むちゃくちゃリアルやった。ホンマに息できへんで、苦しかったんや」


「お前、昔っから想像力豊かすぎんねん。ーーほら、耳取れる夢の話とか」


青谷の悪戯っぽい眼に、彼は口をへの字に曲げた。


 それはまだ小学生だった頃、彼等の学級では、毎日帰りの会の時間に、順番で一人ずつ短いスピーチをさせられていた。お題は何でも良かったとはいえ、毎月のように回ってくるため、やがて皆、話のネタがつき、話す方も聞く方もつまらないひとときになってきた。彼も同じだった。ある日自分の番となり、苦し紛れに前の夜に見た奇妙な夢の話をしたのだ。ーーふざけて自分の耳を引っ張ったら、すっぽんくるりと取れてしまったのだが、自分は不思議と冷静に、それを元の位置に糊で貼り付けたというーー皆、珍しく興味津々で話を聞いてくれたのはいいのだが、卒業の時に、ちょっと好きだった女子にもらったプロフ帳に、『夢の話がすごく気持ち悪かったです』と書かれてしまった。


「まだ言うか」


「何でや。あれめっちゃウケとったが」


「俺には黒歴史や。俺、あの日から卒業するまでずぅっと気持ち悪い奴やと思われててんぞ」


「いやいや、夢が気持ち悪いんであって、若桜航平という人間がオカシイとゆーてる訳では」


彼はーー航平は、何のフォローにもなってないし、と呟いて、自転車のベルを立て続けに弾いた。


「ーーそれに、それとこれとは違うんや。耳のやつは確かに、ただの馬鹿馬鹿しい夢や。あれは夢の中でも夢やと解るくらい、デタラメやった。痛くもないし、アホみたいに冷静やし、だいち糊で引っ付くもんやないし。でも昨日のは、五感全てで現実を感じてたんや。ーーあれが夢やったら、今アホヤと話しながら歩いてることかて、夢かもしれんと思うくらいにリアルやった」


 気が付けば、互いの家の方角が、背中合わせになる所まで来ていた。青谷は自転車に跨がりながら、思い出したようにポケットから飴を取り出し、一つを航平に渡した。


「まあ、俺も、変な夢やったらたまに見るし。あんまり覚えてないけどな。気になるんやったら、夢占いでもしたろか? 」


ふたり同時に包んでいるセロハンを剥く。少し溶けて、べたついている。


「やめてくれや。俺も知らん俺の心を、曝さんといたって。ーーこの飴、いつから持ってたんや」


その時、何故か青谷は、飴を食べようとした半開きの口のまま、動きを止めた。


「ーーあ」


「何? 」


「ーーいや、何か今のシーン、覚えがあるとーー」


「ああ、そういうのたまにあるな。しょうもないシーンほどそうやな」


航平は口の中の飴を転がして頷いた。


「確かになー。なんやー。航平が伝染ったんか思たわ」


青谷は残念そうに言うと、ベタベタしたセロハンをそのままポケットに押し込んだ。


「伝染るって何や」


「俺は前から、お前はもしかしたら、能力者ちゃうか、と密かに期待しててん。 ーーかっこええやん? 」


「アホか。何の役にもたってへん、ゆうねん。ーーせめてなあ、テストの答えとか見えたらええのになあ」


「それええなあ。俺にも教えてや」


 じゃな、と互いに背を向けて、ゆっくりとペダルを踏み出せば、沈殿していた空気が、撹拌されて溶けていった。特別にいい日だった訳でもなく、とりたてて悪いことがあったわけでもなく、ただ穏やかなこの一日の、暮れて行く風景に包まれて、このままこの時間に止まっていられたら、どれ程平和な人生だろうと感じていた。

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