第15話



「フェリスさんに声をかけてもらって本当によかった。私、これから、フェリスさんの援助を受けて、あの人を継いで解体屋をやっていこうと思うの。だから、前解体屋の最後のお客さんだったあなたには、私の仕事の第一号になってもらうね!」


 少女の声にも言葉にも、正気は一つもなかった。

 殴られた衝撃で床に転がった私を、オリビアという少女はさらに、殴る。蹴る。その暴力の中に、この世にはすでにいない男への果てしない恋慕、それ以外の感情がないのには心底ゾッとした。殴る力ははじめは弱かったが、私に与えられるダメージが弱いと判断すると、次第に強さを増していった。小雨から土砂降りへと、雨足が徐々に強まるのと同じように。逃げようにも、薬か何かを打たれたのか、全身の力が入らない。私は綿の代わりに肉を詰められた人形のように、衝撃を加えられるたびに、硬い床を飛んだり跳ねたりした。


 お腹が、痛い。


 体内で内臓が捻られて変な方向を向いている感じがする。身体の中の何かが異変に気づいてパニックを起こし、痛みという信号をしきりに送ってくる。とにかく痛い。泣きたい。死に、たい。

「あ……ぅ。ひっ……ゔ……」

 それでも、なぜか私は目の前のこの惨劇の元凶となっている少女ではなく、何かこことは別の次元の物に、しきりに目を奪われていた。目も霞むし、頭も激しく打っている。おそらくは幻覚だろう。いやもしかしたら、これが走馬灯というものなのかもしれない。

 声が聞こえる。

 黄泉の果てから届くような、極楽の庭から届くような、暖かく優しい声。

 

「誰も邪魔したり、せかしたりしないから。ゆっくり食べたらいいよ。美味しい? リアちゃん」


 ああ、あれは。

 思い出したのは、昔の思い出だった。

 私はあの日ひどく空腹で、今にも倒れてしまいそうだった。


 ひもじくて、身体は全身怠くて、でも何も食べられなかった。家に帰るのが嫌だった。体が拒否していた。私のためと毎日行われる躾が、もはや異常の域に達していることは、もうずっと前から気付いていた。でも、どんなに追い詰められて助けを求めるべきだと思っても、家族を売ることはどうしてかできなかった。それにあの家で出される食事は、美味しくなくて、冷たくて、食べるほどにつらさが増す。私にはそれに耐えるだけの体力が残っていなかった。その時はもう。

 マラソン大会の日だった。仮病で休むこともできなくて、保護者参観もあり、ゆっくり走ることも許されなかった。走り終わった直後の私より無様なものなど、きっとこの世にないだろう。息は上がり、過呼吸のようになり、汗まみれで、顔は醜く歪んで直らない。自分が酷く気持ち悪い化け物に思えて仕方なかった。実際、そうだったろうが。

 消えたかった。

 死にたくてたまらなかった。だから力を振り絞って家出をした。誰もいないところへ行きたかった。世界の果て、死者の王国、どこだっていい。私はただもう、どこかで足を休めたかった。自分を愛さない誰かと一緒にいることに、冷たい目に見つめられ続けることに、疲れ果てていた。

 そんな時、私は、ある同級生に家に呼んでもらった。


 私に友達と呼べる人間なんていなかったけれど、その子がおおらかで優しい子である、ということは知っていた。私の尋常でないやつれ方を見かねたのだろう、彼女は「ご飯食べていって」と言って、夕食を振舞ってくれた。


 私はその時生まれてはじめて、食べ物を美味しいと思った。


 いつもテレビの中の人が言っている「美味しい」とはこういうことだったんだと、ようやく腑に落ちた。上等な食事というわけではなかったけれど、ごく普通のご飯だったけれど、食べ物が優しく身体に染み渡っていく気がした。文字通り、血となり肉となる、その感じがわかった。気付いたら私は大粒の涙を流していた。ああ、美味しいと人は泣くんだなと、そして、きっとこれが多くの人には当たり前の幸福なのだなと、私はそのとき身をもって学んだのだった。

 けれど私はその子の家に、もう二度と行くことはできなかった。


 情報をたどって同級生の家にいる私のところへとやってきた両親に、「帰りたくない」と一言、そう言うことはきっとできた。


 でもなぜかその単語は喉から先へ出ることはなくて、それはまるで、自分の体がすでに自分の意思ではどうにもならないようにされてしまっているようで、どうしようもなく不気味ではあったけれど、でもどちらにせよ、私は何も言えないまま、自分の家へと連れ戻されてしまった。

 帰ってからは、「一度起こってしまったことは、もう二度となかったことにはできないの」と、そんな趣旨のことを何度も何度も言われた。たった一度だけ、娘が余所様の家で食事をしたことが、彼らにとってはなぜか何よりもひどい失態だったらしい。一度失敗したら、それを取り戻すことは永遠にできないのだから、一生気をつけて生活しなさいと言われた。私は今だって十分に気をつけているのに、それならもう生きていたくないなと、当然のことながらそう思った。生きている限り、そんなに失敗を恐れなくてはならないのなら、いっそ死んで早く楽になりたかった。そんな辛い人生を生き抜く自信は微塵もなかったし、これからは私たちがあなたを支えるからねと両親に言われても、どうせダメだと思った。だって私はあなたたちのことが嫌いなのだから。心底いなくなればいいと思っているのだから。


 言われたことは全てしてきたのに、どうして愛してくれないのだろう。人として認めてくれないのだろう。


 話を終えて満足げな両親に、突然頬と唇にキスをされたとき、私はものすごく悔しくて悲しくて、あまりにも恥ずかしくて惨めで、そして、途方もないほどの無力感に震えた。何も出来なかった。どこからどう手をつけたら良いのかさえわからなかった。手も足も出ないという言葉が頭を何遍も回った。もうどうしようもない。どうしようもない。


 たぶんその頃からだ。私が諦めたのは。私の心が死んだのは。


 諦めたら楽になれた。もちろん現実は死ぬほど辛いままだったけれど、諦めると心の中で唱えれば、私の中の一部分がするりと切り離されて、鉛のように重い身体が動かせるまでには軽くなった。

 私は明らかにおかしかった。でもそんなこと誰が気にするのだろう。誰も気にしたりなんてしない。なら、私はそんなことを考えなくていい。何が正常で、何が異常なのかなんて、元気の有り余っている誰かが勝手に決めればいいことだ。私にはそんなこと、心の底からどうだっていい。勝手にすればいい。勝手に地球を回していればいい。そうして、世界の全てを知った気でいればいい。

 本当は、何も知ることなどできないのに。



「全部食い殺してやりたいって、そう思わないのかよ?」



 思うに決まっているよ、と私は痛みの中へ消えゆく意識で思う。問いかけてきた声が誰のものか、どうしてか思い出せなかったけれど、それは確かに知っている声で、だから思わず答えていた。

 私はあの時全部めちゃくちゃにしたかったよ。

 それができるものならそうしていた。悔しくて仕方なかった。でもそれと同時に私は、誰かの何かを壊す人間にはなりたくないと強く思っていて、だから私は、この世の全てを諦めた。そうしなければ、最後に残った細い糸を、自分で切ってしまうと思ったから。


 生きたまま棺に入れられて、鐘を鳴らしても、誰にも気付いてもらえない。


 私の人生はどうせ、初めからそうだった。



「ああ、いい音がする」

 誰かが耳をすまして、鐘の音を聞いている。

 聞こえるのと聞いたら、彼は静かに頷いた。

「とっても、綺麗だ」



 その瞬間、頭にとりわけ重い衝撃が走る。

 少女に拳を打たれた私は、壁に打ち付けられ、気を失う。

 


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