第4話
気がついたら、私は、路地裏のような場所にいた。
「え?」
私は驚いてあたりを見回した。知らない場所だった。その時、いきなり周囲を年上の男女に囲まれてしまった。
「ねえ、ここ、私たちの場所なの。悪いけど、どっかよそに行ってくれない?」
髪にメッシュの入った女の人に肩を掴まれ、恐怖でとっさにその手を振りほどいた。心臓がばくばく鳴るのが耳元で聞こえた。一体ここはどこなのだろう。辺りは日が落ちきっていて真っ暗な上に、私はジャケットも着ていなくて、体はとても冷たくなっている。
「あ、あの、すいません、ここはどこ……」
泣き出したくなるのを必死にこらえながら尋ねたが、私に手を跳ね除けられた女の人は、怪訝そうな顔でこちらをじろじろと眺めて、仲間とひそひそ話をするばかりだった。
「うわこいつ……いっちゃってるよ」
「かわいそう。こんなに若いのに」
「ほんと。人生これからって歳なのにな。ほっとこうぜ、時間が勿体ない」
そう言うと、ギターやベースを持った彼らは、すぐ近くでセッションを始めてしまった。携帯も手元にない私は、なすすべもなく、壁に背もたれて膝を抱えた。顔を深くうずめ、できるだけ気配を殺しながらずっと、ガヤガヤと歌い立てる声と楽器の音を聞いていると、やがて、聞いたことのある声がした。
「貴様ら、見た感じ音楽をやっているらしいが。何か賞を取ったことがあるのか?」
少しだけ顔を上げると、やはり見覚えのある、全身ブランド服の美しい女性が立っていた。でも私はなぜかその場から立てなかった。体に全然力が入らなかったのだ。
「お客さんかと思えば、冷やかし?」
演奏をやめて、さっきのメッシュの女の人が不敵に笑った。
「今時、随分と古い価値観の人がいたものね。賞を取ることだけが、芸術の目的じゃないでしょ?」
それを聞くと、ミランダは喉をクッと鳴らして笑い返した。
「あまり笑わせるな小娘。そんなセリフは、一度でも賞を取って、権威に認められてから言うべきだろうが。誰の心も救えないような音楽に、一体なんの意味がある?」
「人なら感動させてるよ。お偉い審査員様じゃないけど、私たちの歌を聴いて『感動した』『好きだ』って言ってくれる人ならたくさんいるわ」
そう言われても、ミランダは微塵も動じなかった。腰に手を当て、世間話をするような調子でまた言う。
「ところで、トロフィーを手に持ったことはあるか? 銀でも銅でもない、金色のやつだ。あれは意外と重いぞ」
「ないけど。でもそんなのなくたって、お金や才能に恵まれていなくたって、今の私は私をわかってくれる人に恵まれて、十分幸せなの」
「黙れ。一小節も満足に奏でられないクズ野郎の幸せなど、この私が知ったことか。今すぐ失せろ。でなければお前を、5歳の時にもらったトロフィーで殴り殺してやる」
バンドマン達はおもむろに楽器を下ろし、私にそうしたのと同じように、ミランダを取り囲んだ。ニヤニヤと不快な笑みを顔に貼り付け、その中のリーダーらしい一人が、ミランダに中指を立てながら迫った。
「わざわざフランス語訛りの英語で、耳の痛くなるご忠告をどうも。でもここはイギリスで、ここは私たちの予約していた演奏場所よ。失せるべきなのはどっちなのか、おわかり?」
ミランダはふむ、と何かがわかったような神妙な表情で頷くと、バッグから鈍器のようなものを取り出したが早いが、女の横っ面を、当然の権利のように殴りつけた。
「それ、いつも持ち歩いてるの?」
歯が折れた! 警察呼ぶからな! などと言いながらそれぞれ一発ずつ見舞われたバンドメンバーたちが全員、やり返しもせずに逃げていったあと、私は壁際に座り込んだまま、何を言っていいかわからずとりあえずそう聞いてみた。振り返ったミランダは「悪いか?」とうそぶき、バッグから布を取り出してトロフィーを念入りに拭きながら、あっけらかんと答えた。
「これは撲さ……ではなく護身用に、実にちょうどいい重さとサイズをしているからな。文字通り、権力で殴ってやれるというわけだ。というかお前もお前だよ、市ノ瀬リア。どうしてこんなところをうろついてる? あの小生意気な優男が、血相を変えて慌ててたぞ」
「さあ……」
困った事態ではあるが、しかしこれも、別に珍しいことではなかった。言葉に困って夜空を見上げると、今日は雲がなく、いくつか星も見えた。こんな状況でも、綺麗なものは綺麗だった。
「気がついたら、ここにいたの」
「そうか。不便だな二重人格者は。双子の二重奏のようにはいかないわけか」
「楽器は、苦手なので。リコーダーも鍵盤ハーモニカも、試験はなんとかパスできたけど、どうしても好きになれなくて」
「よほどオーケストラ団員でもない限り、そんなしょぼい楽器が上手くてもどうしようもない」
ミラが私の手を掴んで、ぐいと引っ張った。彼女のなすがままに立ち上がった私は、少しふらついて、彼女に軽くぶつかってしまった。怒られるかなと思って急いで離れたけれど、ミランダは「早く帰るぞ」と言うだけで、殴ったり蹴ったりしてくることはなかった。
ミランダについて歩いていくうちに、夜のロンドンは不気味だなということに気づいた。普段はユウに止められていることもあって、夜に出歩いたりすることはなかった。もちろん許可されていたとしても、特に行きたい場所があるわけでもないし、今はとにかくただ、ゆっくり絵を習っていたい気分だったのだ。
「人はどうして壊すんだと思う?」
寝静まるロンドンの片隅で、壁やシャッターにスプレー缶で落書きをしている人たちのそばをするりと通り抜けながら、ミランダは突然私にそう聞いた。みんな落書きに夢中で、私たちに構う人は誰もいなかった。いきなりの脈絡のない問いに当惑したものの、聞かれたからにはと思い、私は少し真面目に考えてから言った。
「さあ……わからない。人間は、みんな不完全だから、とかですか?」
「いや。たぶん、人は、」
何かを考えながら歩いていたミランダは、ふと足を止め、空を見上げた。ようやく彼女に追いついた私も一緒になって顔を上げたが、特段、変わったところはない。飛行機のライトと思しき点滅が、のろのろと星の間を横切っているだけだ。一体どうしたのだろうと彼女を見やったが、彼女は夜空の一点だけを見つめたまま、震える声でこう呟いた。
「人は、きっと、悲しいから壊すんだ」
「……」
私は少し迷ったあと、ミランダの綺麗な手に触れ、そっと握った。手のひらや手の甲はひどく冷たく、けれど指先だけは、天使のそれのように柔らかい。
「そういう、ものなの?」
私は見ないようにした。彼女が、私の握っていない方の手で拭っているものや、私の見ていない瞳の色は、きっと知らなくていいことだと思った。
「ああ。きっとそうだ」
しばらく、ミランダはじっと空を見上げたままだった。その様があまりにも真剣なので、私は黙るほかなく、けれど、さすがに肌寒くてたまらなくなってきたし、言いたいこともあった。私は思い切って声をかけた。
「ねえミランダさん?」
「なんだ?」
「もうシノを殴っちゃ、だめですよ」
そう言うと、ようやく彼女は空を見上げるのをやめ、俯き加減で「わかってるさ」と、小さく小さく呟いた。私は友達の役に立てた嬉しさで、気づけば笑っていた。握った手が、少しだけ暖かさを取り戻したような気がした。
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