孔雀

 悪徳とは美のためのスパイスである。


 オム・ファタールと銘打たれた蓮の形の香水壜を持った男の傍らには孔雀。妙なる尾羽が、彼の磨いた象牙の色した肌理こまやかな頬をなでる。艶めくターコイズの目玉模様が、するすると得たいの知れぬ妖のように、エキゾチックなかんばせに影を落として流れた。

「ミハウ!」

 壜を卓に置くと、はっとするような通る声で彼は呼ばわった。孔雀がばさりと羽ばたき、苛立たしげに椅子が蹴立てられる。倒れた南国風のそれを危うく支え、騒ぎ立て始めた孔雀を抑える男たちは、深くため息をついた。この現場にいると、スタッフマークのついたシャツを着ていても、まるで旧世紀の召しつかいのような気持ちになる。

 赤毛を垂らし、極東のモダンな着物をガウンのように羽織った男が、若者を迎えるため腕を広げる。さらりとした生地合いの袖がずり落ち、その白い肘までが露になった。石膏像を愛撫するように、若者の瑞々しく張った皮膚がその表面をなぞり、指先が袂の内側へ潜り込む。艶やかな頬を赤毛にこすり、ぶすくれた表情で「香りが飛んだし、もう疲れた」と呟いた。

「いい子だから、レイシー。魔法のもうひと吹きで、またお前の美しいかんばせを見せてはくれまいか、おれのために」

「二人きりになったら見せる」

「悪い子だな。……いいや、おれが悪い大人なのかな」お前を独占する権利を不当に奪っているのだから、と言う唇に、孔雀の羽を咥えた真っ赤な唇が押しあてられた。

「俺が、俺の意志でお前にやったものだ。勘違いするなよ」

 たっぷり十数秒、羽をねぶった舌を出して悪戯した不良少年のように囁き、レイシーは、毛皮を翻してまたスポットライトの熱い白のなかへ歩み去っていった。

「ミハウ、とは」

「知らないのか、お前」

「猛獣使い、ミスター・イェのことさ。どうしてか、あの獅子はそう呼ぶんだ」

「ミスター・イェは猛獣使い──魔法使いだというが、なるほど道理で」

「……九尾の狐だって手懐けられるだろう」

 囁き声は鳥の羽ばたきで揺らされた葉群の音に似て、やがては光と輝きに気圧されて静寂が訪れる。もう一度、と誰かが声をあげたときには、既に光の中央に、完成形が現れていた。

 それを、赤毛の男は腕を組み、暗がりから見つめていた。

 しばらく黙って撮影のようすを眺めていたかと思えば、不意に彼は手品のように、掌の上になにかをとりだし、その面積だけで器用になにかを組み上げていく。

 今、スポットライトとフラッシュのなかで輝く硝子の蓮ではない、まだ使われたことのない紅水晶の壜。たったひとりのための香り。

 賽子の形に、砂金で彩られた黒い匣のなかに壜が隠れていく。最後に、蛇のように赤毛の男の乾いた指先から匣に絡みつき、ひとりでに結ばれたように見えたリボンには、Hong Kong Loverという、蓮のブランドマークが、品のいい薄緑で刺繍されていた。その細やかな糸に爪を立て、小鳥の羽をむしるように乱す。

 ──このおれが、九尾の狐を手懐けられるだと。

 ──嗤わせる。

 絡む視線が光のうちで弾ける。男をとらえる紅琥珀を輪切りにした王者の瞳に、映るのはおのれの微笑、そしてその乾いた唇から覗くのは、白く尖った──

 ──獣はどちらだ。

 一際まばゆく、白い花火が爆ぜた。

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