夜に捧ぐ
木立の上には
夜がほしい、
大理石のテーブルには
くだものがほしい、
血がたぎるためには
闇がほしい、
真赤な心には
純粋がほしい、
白いページには
日ざしがほしい、
沈黙の底には
愛がほしい。
―シュペルヴィエル 安藤元雄訳「いのちの残り」
マグノリアが揺れている。
体がだるかった。ガウンの内側で、手足がどろりと溶けて垂れていくように感じられた。視界に映る己の手は、窓から射し込む日差しに白くなっていた。
昨夜、吸血された。
首筋のガーゼを固定するテープの、むず痒い感覚だけが鋭敏だ。ここから、あの男が侵入した。皮膚の内側を浸食された。
体を重ねたときよりも、すべてを明け渡したような気がした。征服する快楽より、傷つける興奮より、ずっと深いところが爛れたように熱を孕む。腐敗した果実のように。
窓辺では、
身を起こすのが億劫で、寝台の上でゆっくりと俯せになった。視界の端に、花で半ば遮られた庭の緑が飛び込んでくる。怠惰な昼の風のなかで、ざわざわと動くものがある。
繁りゆく亜熱帯の植物を透かしてもわかる黒い巻き毛。召し使いの
わからない、思い出せない、というのは初めてだった。正確には、はっきり思い出せないことに苛立ち、真相を追い求めないということが。
「お早うございます」
低い声がして、レイシーは寝返りをうった。部屋の扉の向こうから、もうひとりの召し使いたる
返事をしなかったが、彼女は平然と扉を開けて、室内へ入ってきた。手には銀の盆をもち、一顆のブラッド・オレンジと、やたらに熱いブラックコーヒーを載せている。ノックをしろ、と苦言を呈したが、薇龍は肩を竦め、「薄く開いておりましたから」と言ってのけた。
彼女はレイシーにへりくだらない。死を恐れていないのか、どうでもいいのか、とにかく、白粉を塗った役者よりもなお白いかんばせにはいつも、人に化けた妖のような薄ら寒い笑みを浮かべている。
昨晩、客のため追い出した彼女と夕星がどこへ行くのかは知らないが、戻ってきているということは午が近いか、越えているに違いなかった。
「午後一時です」
心を読んだように時刻を答える薇龍に、レイシーは眉をひそめる。笑みを不気味に深くした女の歯は、鮫のように小さくて尖っていた。……ミハウの牙を思いだし、レイシーは枕に頬をおしあてる。
欲しがられるのはつまらないと思っていた。怯え、逃げる獲物を捕らえていたぶるのが愉しいのだと、自分の手からすり抜ける勲章の鬣を、宝石の鱗を追うのが享楽だと、信じて疑っていなかった。
それがどうだろう。
己の手の内にあるのに留めておけない死んだ眼球に、あるべき場所にあるくせに自分を求めない眼球に、自分は何を感じた?
ひどくしてやらなくては、気がすまない。
レイシーは、首筋がぞわりと火照り、指先が冷えるのを味わって奥歯を噛み締めた。これが屈辱か、と思う頭に、にわかに速くなる心臓から送られた熱が溶けた蜂蜜のように浸潤する。
狂わされている、と思った。
この己が。生まれながらの狩人、千の剥製の王、そんな自分が? 獲物であるはずの、あの狼に。
彼はシーツの襞をなぞって、かつての欠片を探した。あの傲慢な獣は? 原罪を冠にできる男は? 武器を失った気分だ。あの狼を仕留めるために、もっと大きな、強いものを。強い、何を?
「
顔をあげると、薇龍がとんとん、と自分の首筋を指で叩いて見せる。ガーゼと同じ箇所だ。レイシーはその紅琥珀の眼で、不躾な召しつかいを睨みつけた。にぃ、と、薄い唇が弧を描く。
「夕星には訊かないように言っておきますね」
「いい。あいつはお前みたいに失礼じゃない」
「わたくし、とてもよいことだと思いますよ。噛めば噛むほど肉は柔らかくなるでしょう」
何がいいたい、と低く唸ったレイシーの声は、とりわけよく獣に似ていた。薇龍は荒野の骨のようにからから笑いながら、ブラッド・オレンジを半分に切った。新鮮な肉じみたその切り口から、ぽとりと赤い果汁が滴った。
「雷夏様。女はね、自分に向けられる欲望に恋をするんです。闇に生きていると、とりわけ、欲望の火が眩くみえる」
「……薇龍。俺はお前がそんなお喋りだと思って雇ったわけじゃない」
「それじゃ認識を改めてください。つまりね。雷夏様。
ほしい、と思うことが恋なら、ほしがられたい、と思うこともまた恋ですよ」
レイシーは、銀の盆の上からオレンジをはたき落とした。床に落ちたそれに、果物ナイフを突き立てる。
「おお、わたくしが刺されるかと思いました」
「……出ていけ」
レイシーはナイフを引き抜き、床に投げ捨てた。薇龍はそれを拾い、白い布で拭う。潰れた半分のオレンジは、動物の心臓のように見えた。それを素手で拾い上げ、素早く床を片付けると、薇龍はこれまでの不躾さが嘘のように音もなく立ち去った。扉が閉まるとき、彼女の銀髪が、得たいの知れぬ生き物の尾のようになびいた。
レイシーは、小舟のような寝台に体を埋めたまま、しばらく動かなかった。マグノリアの香りに包まれるシーツの海に沈みかけた首筋は、怒りか、それとも別の感情にか──甘い果肉に似た真朱に染まっていた。わずかに血の滲むガーゼが、呼吸と拍動にあわせ、産毛のように震える。
「………何が、恋だ。獣のくせして」
ぽつり、と白い波のなかで囁いたとき、どろ、と、銀の盆の上、真っ赤な果実から、真っ赤な液体が流れ出した。
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