蝋燭
ミハウ・マイネリーテがやってくる夜には、壁に映る影が獣のかたちをしてはいないかと、蝋燭を灯す習慣がついている。毎度、その疑念が確信に変わることはないのだが、いつかあの赤毛の狼の姿を垣間見ることがあるのではないかと、期待のような何かをやめられない。
聞いていたより早い晩に彼がやってきたときも、蝋燭は潤沢に用意され、寝室のキャンドルホルダーに備えられたそれらに、黒い指と白い指が火を灯して去った。
寝室の壁にはさまざまなかたちをした影が、ワルプルギスの夜のように揺られている。その正体は、丸形の飾り棚の水晶や象牙や翡翠の動物たちと、異国風の香水壜。持ち主にしてはかわいらしい、庭園だ。しかし、その隣には黒々した銃身が掛けられている。
いつになく上機嫌の来客は、常より
(俺の知らないところで、こんなに愉しそうにしているものか)
(気に食わない)
(俺の)
(俺の狼)
(俺の目から隠れることなど許さない)
(わが獲物であれ)
紅い酒と香水が、じっとりと脳を泥にしていく。亜熱帯に馴染む、情熱と狂気がとろかした退廃が、ふたりの体の境目を曖昧にしていくのが耐えきれず、レイシーはミハウから離れた。
その背に掛けられた声に、動きが止まった。
「レイシー、おまえを愛したおれを、おまえは殺すか」
彼の眼球が変じた灰を、つまんだ指がほどけた。
スローモーションで落ちていく見えた銀の砂は、蝋燭の光に月のように輝き、床にたどりつく前に消えた。
灰と同じように、ミハウの声は幻のように消え、静寂がふたりの間で緊張している。
耳にこびりついた傷のような言葉には答えず、指でサイドテーブルの上をなぞった。この男の肉体の、代わりになるもの。
香油でなめされた皮膚は、転がった新鮮な
窓に映る六本の指。蝋燭を掴んだその掌に陰影が揺らめく。
─呪われろ。
黒い喪のヴェールの向こうで、六枚花弁の過去が囁く。レイシーは、かつて聴いた声の亡霊に、はっきりと顔を歪めた。
─………お前に本当に人を愛することはできまい。
舌打ちをして、虫を追うように手を払う。ミハウは何事かと、軽く窓の外を視たが、その視線は闇をやわらかくかき回すだけだ。見えていないのか、とレイシーは思う。真に人ならざるものの目に映らないというのなら、いったいこれは?
─お前が生きているかぎり、誰を愛そうと、それが愛だと知ることはない。愛するものを前にして、心に生まれる火、お前はそれを欲望だと思い、獲物を前にした興奮と同じだと思っている。そうして自ら愛する相手を殺す。そして喪う。お前が抱えるのは無限の飢えだ。
そう、火、火、火だ。剥製の握る蝋燭が、じりじりと焦げる音を立てる。赤い蝋が溶け落ち、六本の指の隙間から卓面へ落ちて、粘っこい花の形になった。ちょうど、固まりかけた血のように。
ミハウの、体温の低い、白いかんばせがこちらを見ている。その眼差しに何を見たらいいのかわからない。他人の目は鏡だから、己を失いそうな今、覗きこんでもそこは闇なのだ。そう、あの、湖畔で彼と出会った夜と同じ。
目前の男から目を逸らせないレイシーを嘲笑うように、蝋燭の燃える匂いが強くなる。蜜だ、これもきっと彼が選んだ。赤い蜜。狼の毛並みのように、極上の……。
炎が大きく揺れるのが、影でわかる。渇いた口のなかで舌が震える。
─自らの火で焼き尽くした焦土で、血の匂いのする逃げ水を追って、それが何なのか解らないまま死ね。底の無い絶望と渇きに苛まれながら死ね。
肩が瘧のように震え、レイシーは勢いよく窓硝子を殴打した。
「殺せるものなら、とうに殺してる!」
彼を知る誰が聞いても到底信じられなかったであろう言葉。レイシーはミハウに向き直り、鼻先が触れあうほどの距離で激しくまくしたてた。
「お前は想像したのか? 俺を愛するなんて言ったお前を殺して、あとに残る灰の山を抱く俺を? 憎たらしい曙光のなか、その灰すら跡形なく銀砂となって消えていくさまをただ見ているしかない俺を、お前は、そんな──そんな顔をして──望むのか?」
瞼を震わせ、レイシーがひどく焦がれる姿で近づくミハウを突き飛ばし、よろめきながら飾り棚に倒れかかる。そのまま長い腕を伸ばして、花を引きちぎるように闇雲に、細々した調度をでたらめに床に落としていった。飾られていた庭園が、嵐によってなぎ倒される。ホワイト・ロビンの剥製が落ちて、卵が割れた。香水壜の宮殿も跡形なく、絨毯の上に激しい音と共に硝子が飛び散り、魔法の霧のように芳香がたちのぼった。ふらつきながら、レイシーは破片のなかに手をつく。
「殺してやりたい。お前をこの手で殺してやりたい!」
「レイシー」
「庭の黒百合も、窓辺のマグノリアも、寝台の麝香も、朝食室の薄荷も、お前が誂えたくせに、どうしてだ。この爪も、髪も、お前の方こそ俺をコレクションにしつつある。それなら、それなら俺を──俺を──お前の──…」
言葉を失い、掌を噛んだ。血が手首を伝って流れるのを見たミハウの腕が、流れるようにレイシーの腰に絡みつき、熱を孕んだ体を引き寄せる。レイシーの音なく震えた唇は、優しい腕と、彼自身のプライドに塞がれ、彼は血が滲むほど噛みしめた。言葉は死んだ。自分が殺した。
「レイシー」
昏い瞳が瞬き、頬に手が添えられる。なぜだろう、なぜ、名前を呼ばれるだけでこれほどまでに安らぎ、また乱されるのだろう。
「今さら。今さらなのか? 俺に、飢えて死ねと?」
襟をつかみ、もろともに倒れる気持ちで引き寄せた。衝動のままに彼の尖ったおとがいをとらえ、骸を抱え込む獣のように身を硬くした。
どんな気持ちで、おれを食うかと問うたのか。死んだ体を食うのなら、生きたまま食えばよいなどと。レイシーがなぜ、彼の灰を飲んでいるのか、少しも理解していないのか? これほどに並んだ剥製を前にしても、なお?
吸血鬼と人だからか、と思う。喰うものに、喰われる気持ちはわからない。いつだって一方通行だ。
いや、とレイシーはかぶりを振る。なぜなら、自分にだって解らないのだ。
皮一枚隔ててミハウの呼吸を感じるたびに、相反する感情で体内をめちゃくちゃにされる。六本の指が、内臓と心を引き裂いて握り潰すのだ。そうして溢れるのは、自己満足の血潮の欲望でしかない。
ころしてやりたい、と呟いた声は濡れていた。
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