サロメ

だのに、あたしは、このあたしはお前を見てしまつたのだよ、ヨカナーン、さうして、あたしはお前を恋してしまつたのだ。あゝ! あんなにも恋ひこがれてゐたのに。今だつて恋ひこがれてゐる、ヨカナーン。恋してゐるのはお前だけ……あたしはお前の美しさを飲みほしたい。お前の躰に飢ゑている。酒も木の実も、このあたしの欲情を満たしてはくれぬ。どうしたらいゝのだい、ヨカナーン、今となつては? 洪水も大海の水も、このあたしの情熱を癒してはくれぬのだもの。

─「サロメ」オスカー・ワイルド




 ヴィクトリア・ピークに建つ、西洋風の屋敷。欧州の傲慢と陶酔が渦巻く、現代の楼閣だ。

 夜景を見下ろす、大きな紅の飾り格子つきの丸窓。シノワズリィな意匠の不可思議な絢爛さとは裏腹に、屋敷の周囲は、亜熱帯の木々がざわめく音ばかりが静寂を際立たせている。

 レイシー・ワンは、丸窓のある部屋に置いた植民地風の籐椅子に腰かけ、インド更紗のクッションに物憂げに身を預けていた。

 暗い赤と壁面に、大理石の床。翡翠のおおがめには白い花煙草のような飾りが差され、閉めきった窓の内側では鴉片と麝香の匂いが循環し、清朝末期のような気配をとどめている。しかしこれは、西洋人の心のなかにしかない中国だ。

薇龍ウェイロン

 レイシーが低く呼ぶと、「はい」と、白い髪に紫のチュニックを着た女が部屋へ入ってきた。女は、いっぱいにピンポンマムを植えた鉢を持っていた。

 レイシーはその鉢に煙草を放り入れると、まだ火のついたそれは瞬く間に丸い花を焦がした。水気の多い花びらが放つ臭気に眉をひそめるが、口元は皮肉げに微笑している。

「お前、悪趣味だな」

「おや、ただの灰皿のほうがよろしかったですか」

 花鉢を抱えてそう言った女は、東洋の顔をしていながら、その髪は睫毛に至るまで霜のように白く、肌は血を透かした淡い練り絹の色をしていた。切れ上がった一重瞼の下で、葡萄色の瞳が意味深長に笑みを含んでいる。

「今夜は出ろ。客が来る」

「はい。戻るのは明日の午でよろしいですか」

「好きにしろ」

 薇龍は白い髪を揺らしながら一礼する。アルビノの香港人という以外、彼女の素性ははっきりしない。雇った理由はただひとつ、獣の皮を鞣せるからだ。

 手早く焦げた花殻をつまんで捨て、彼女は出ていこうとする。その背にレイシーは声をかけた。

「薇龍。を連れてこい」

 女は足を止め、振り返った。「おや。決闘は今夜ですか」

「なんだ、不満か?」

「いえ。ですが、せっかくならばわたくしも観戦したかったのです」

 レイシーはくつくつと笑い、「今度は白と黒を飼ってやる」

「それはそれは。……」

 薇龍は部屋を出ていき、すぐに戻ってきた。彼女は車輪の軋みが音楽的な、木製のワゴンを押しており、それに載せられて運ばれてきたものは、ペルシア風の紗がかけられた大きな丸い物体だった。

 レイシーは布越しにそれを撫でる。氷のかたまりのような冷たい感触がして、水の跳ねる音が微かに聴こえた。

「では、よい夜を」

 それきり、余計な礼儀はなしに薇龍は去った。

 レイシーはしばらく紗の蔓草模様を眺めていたが、やがて立ち上がり、廊下に出て奥の部屋へ向かった。黒い扉を猫が通るほどに開けたそこに入ると、床の一部が四角く切り取られ、蓋になっている。それが今は持ち上げられており、暗い隙間からは床下に続く階段が見えた。

 その四角い孔に片足だけ踏み込み、レイシーは腰を屈める。床下の倉庫では、人影が慣れた手つきで、ライフルを掃除していた。レイシーはその男に声をかける。

夕星ユーシン。鹿の酒を。それから出ろ」

 短い言葉だけで次第を悟ったらしい男は、ライフルを手早く組み立て直し、黒雲のような髪を揺らして奥の貯蔵庫へ向かった。漆黒の肌が蝋燭の火を反射して美しく輝き、その特異なかんばせを照らす。薇龍とは対照の、すべてを飲み込む黒だ。

 もとの部屋へ戻ると、締めきった窓の枠が、風でがたがたと揺れていた。先ほどまでの、木々が内緒話をするような気配が、研がれて剣呑になっていく予感がする。いつもこうだ、とレイシーは満足して腰を下ろした。そうして、傍らの、石を削ったテーブルを撫でる。多湿な気候のせいか、指はしっとりと冷たい表面に吸い付いた。死んで、正しく処置をされた肉体に触れると、鼻梁や額、鎖骨は石に似る。その感触に、レイシーはこの上ない満足を覚える。…無論、生きた獣から噴き出す血の熱さも愛しているが。

 地下の貯蔵庫からあがってくる気配がする。ややあって、扉がノックされた。

 インクに浸したような闇夜の若者は、無言で酒壜をテーブルに起き、それから音もなく歩き去った。



 かの客は、闇から溶け出す妖のように、忽然とたち現れる。実際にはきちんと扉から入ってくるのにも関わらず、レイシーはそんな印象を抱いている──呼び鈴がなる前に、庭の木々がひどくざわめくのは、彼の闇の翼にかき混ぜられているからだと。

 夜来花、というそれが本当の名のはずはない。西洋から帰化した赤毛の調香師、という胡散臭いような、それゆえに真実なのだろうか、と人を惑わせる彼は、レイシーと奇妙な縁で結ばれていた。

 否、縁、などと美しいものを想起させる繋がりではない。それは闇に浮かぶ稲妻のようで、前世で犯した罪のような、呪いとも呼べるものかもしれない。

 夜と名のる男は、やはり、そのたぐいまれな容貌をどろりと紡ぎだすように部屋へ入ってきた。まるでそれ以前の薄暗がりのなかでは別の形をとっていたかのように、人の形をしていながらもどこか奇妙な印象を与える。彼は、部屋の真ん中でひときわ存在感を放つ、ペルシア風の紋様を面白そうに一瞥した。

 レイシーは、己の向かいにあるソファに腰かけるように促した。夜がそこに腰を下ろしたのを見てから、立ち上がるとテーブルの上の酒壜の首をつかんだ。

「鹿の酒?」

 白い紙を四角く切っただけのラベルに、乱雑な筆致で記された文字を読み取り、夜は目を細めた。

「鹿の血を混ぜてある」

 コルクを抜き、ふたつのグラスに注ぎながらレイシーは言った。「生き血だ」

「毎度、鹿を狩るのか? それを飲むために?」

「貴重だろう。恩に着ろ」

 暗い葡萄色に底を満たされたグラスを持ち上げ、レイシーはにやりと笑った。月明かりに翳された濁りが、魚影のように赤く揺らいだ。

「鹿狩りとはね。昔、欧州にいた頃に、ピレネーで何人がやっているのを見たが、久しく聞いてないな。……まあ、今は貴族という存在すら去ってしまったからな」

「世紀末だぞ。青い血なんて、とっくに流れて地面に吸い尽くされたに決まってる。……お前はやたらに歳を食っているようだけど、どのくらい昔からいるんだ? 英国国教会が成立する前か、後か?」

「さあ。そんな些末なことは覚えていないよ」

「ふうん。少なくとも、大っぴらに狐を狩れる時代ではあったんだろうな」

 レイシーは英字の新聞をテーブルの上に投げ出し、酒を一息に煽った。そこにはブラッド・スポーツと呼ばれるものに反対する動物愛護団体のデモが、大々的に取り上げられていた。

「……そろそろ仔狐狩りカブ・ハンティングの季節だ」

 狩る側ハンターである彼は、皮肉げに唇をつりあげながらグラスを置く。血のような酒が一滴、透明な曲面を伝った。

「俺は闘魚や闘鶏は好まなくてね。狐狩りは楽しみなんだ」

「目的は毛皮か?」

「狐なんて、腐るほど剥いだよ。…俺は、獲物を犬に殺させたりしない。追い込んで、自分で仕留めるのさ」

 赤毛の男は眉をあげ、紙面に視線を走らせた。遊戯としての狩りの残酷さを糾弾する者たちの声の他に、ひっそりと、反対意見も一応は載せられている。

「狩られる狐は喜んでいる、とは、よく聞く言い訳だが」

「ふん。馬鹿馬鹿しいね。これだから斜陽階級の奴らは」レイシーは声をあげて笑った。いつになく上機嫌の彼の目が、残虐そうに細められる。

「死にたくないと逃げ回るやつを嬲り殺すのがいいんだろ」

「……なるほど」

 男は笑い、その拍子に歯が見える。尖った犬歯の縁を見るたび、逃しはしない、とレイシーは思う。それは本能的な燻りで、彼がどれ程自分に従順な態度を示しても──それこそ、恋人のように──なお、、と身の内で何かが吼えるのだ。これを渇望と呼ぶべきなのか、レイシーには判断がつかなかった。

 いっそ、殺してしまおうか、と何度でも思う。自分の肌に香油を垂らす彼を、調香したボトルを指輪のように差し出す彼を。今も、彼は自分の手をとり、蜂蜜のような液体を爪の先から塗り込んでいく。その手つきのしなやかさは蛇の舌に似ていた。

 かつて片眼を抉った相手にこうも身を捧ぐ理由を──自分自身の気持ちと同じように──レイシーは理解することができなかった。自分が突き立てた眼窩の傷を、癒えぬように自ら抉るその狂信者に似た炎は、レイシーの握った銃口を受け入れるのではないか、と。

 しかし、それは不可能だった。この夜の男は、撃てば最後、きっと跡形もなく消え去ってしまう。夜明けの夢のように。そのことは、彼の眼球が教えてくれる。

 ……彼は吸血鬼なのだ。それも、純血の、とびきり貴重なはずの。

 剥製室に飾った数々の獲物を思い返し、レイシーは肘掛けをいら立たしげに叩く。角の王笏、鬣の勲章、頭蓋骨の王冠、毛皮のマント。玉座への道行にかしずく者たちは皆この手で仕留めた獣の剥製たち。

 支配者は己だ。

 レイシーは、けしてそのコレクションには加えることができない目前の、赤い毛並みとたぐい稀なかんばせの造作を、とくと眺めた。眺めれば眺めるほど、目の奥から焼き焦がされるような思いが溢れ、胸中の不穏なざわつきとねじれて脳を刺す。

 眼だけでは足りぬ。

 魂を寄越せ、と。

「どうした。飢えた眼をして」

 火の匂いがする、と彼はレイシーの掌をさすりながら囁いた。つめたい肌がこすれあうだけで、どうしてかじわりと蜜のような熱が広がる。これも香油の効果か、と冗談めかして問えば、真顔で「媚薬の成分が入っているからな」と夜は答えた。

「嘘だろ?」

「イランイランの精油が少し含まれてる。リラックスするようにだな」

「……ふん」

 初夜の寝台にまくという花の名に、微かな揶揄いを口の端にのぼらせ、レイシーは夜の手つきから目を逸らした。窓の外は湿った夜風が、庭をぐるぐる回っている。いつの間にか、異国の香草や奇妙な花があちこちに乱れ繁るようになったその多重奏で、大抵の音は紛れるだろう。指の間に滑り込んでくる白い指の、そのとろりとした蜜も。

「逃げる獲物を仕留めるのは楽しいか、レイシー」

 ふとこぼされた言葉に、レイシーは視線を戻した。少し思案げに目を伏せてから、視線をはずしたまま、そっけなく言った。

「……昔、黒い狐を狩った。アジアの、畸形の狐だった」

 狐、の意味することを理解した口振りで、男も返す。「たまたま見つけた獲物なのか?」

「いや。家で飼っていた。父母のお気に入りだったし、俺も子供の頃からの付き合いだったが、どうしてもなってね。あれはよかったよ。獣らしく命乞いもせず、撃たれても這いずって逃げた。わりと長くもったよ。一晩くらいかな。最後には、可愛がっていたはずの俺を人でなしと罵った。あれはいい眼をしてた。殺される瞬間まで、憎悪で命を燃やしてた。……」

 そこまで喋ってから、不意にレイシーは口をつぐんだ。表情は消え、夜の様子を窺うように、紅っぽい不思議な色合いの眼を鋭く動かした。

 夜は黙ったまま、香油を片付けた。手を拭きながらソファに戻る。腰を下ろすとゆっくり眼を閉じ、足を組んだ。その一挙一動に、見えない鬼火のような気配がまとわりついているように、レイシーには思えるのだ。それは秘密という靄かもしれないし、純血の放つ妖気かもしれなかった。

 このヴェールを剥いでやりたい、と強く思う。たとえ一枚を剥いでも、謎が幾層にも重なっていることはわかっている、しかし、そう、名前すら知らないなど、そんなことが許されるはずがない。

 支配するのは己だ。生まれたときから、魂が王座を欲していた。

 レイシーは不意に立ち上がると、刺繍の妖しくきらめく紗の裾に手をかけ、一息に床に引きずり落とした。

 それは割った果実を模した、巨大な水槽であった。紅と白の、まるで牡丹の花のように豪奢で典雅な鰭を広げた、桃源郷のいきもののような魚が、二輪と数えたくなる風情でゆったりと游いでいた。二匹の間には不透明な仕切りが存在し、互いに姿は見えないようになっている。

「さっきも言ったが、俺は闘魚の類いは好まない。だが、賭けとなれば話は別だ」

 男は違和感の正体に気づいたのか、薄暗い笑みを深くした。水槽のなかは怖いくらいに澄んでいる。水草も、藻も、小石も、何もない。美しい魚が生きていくために必要なものが。

「何を賭ける?」

 面白そうに笑んだ男に、レイシーは低く囁いた。

「名前を」

 声に呼応し、紅と白の魚が、ゆらんと回る。仕切りでお互いの姿は見えずとも、その動きは鏡のように対称だ。揺らぐ水越しに、レイシーは、謎めいた男の笑みに切り込む。

「名前があるだろう」

「夜来花だと、」

「本当の名だ」

 夜と呼ばれる男は口をつぐんだ。それから、夜明けに似た色の、薄いその唇が弧を描く。

「こちらが勝てば?」

「お前が勝ったら…そうだな」

 レイシーは立ち上がり、徐に己の蛇革のベルトを引き抜いた。悠然と腰かけたまま見守る男の手を、飾りのついた肘掛けに結びつける。

 そして、彼の耳元で囁いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る