Orpheus

タオ

 齧りかけの果実が落ちる。白い果肉は土瀝青アスファルトで潰れ、甘い汁がふたりの靴を汚した。びゅおう、と風が吹き、生者の真似事をする死者を嘲笑うようにふたりの長い黒髪を舐めた。

「髪が伸びたの、桃哥」

 舒舒は、タオの首に回した腕で、背中に垂れ落ちた墨の流れに指を浸した。子供が戯れるようにその黒髪をすいて、唄うように囁いた。

「それならむすぶといい。長く、編んで垂らすのも。絹の色帯リボンを編み込んで、花冠のようにすると、とても奇麗」

 大きな花束を抱くように、タオの肩口に頬を押しあてた。黒い髪が混じりあい、夜風に青く揺れる。垂れ柳のようだった。灰紫の唇に髪がふれ、死人の乾いた舌がその表面を撫でた。

わたしルイの髪を結うのが好き。巧くできないけれど、睿は嬉しいと云って呉れるから。睿がじぶんで結っているのを視るのも好き」

 耳元で囁きながら、舒舒はタオの髪の流れに棹さすごとく指を立て、あやとりのように黒い糸で花を画く。ぎしり、と指の関節がきしんだ。タオの手がそっと、その腕に触れて、おろさせる。舒舒は黙って、十本の指をタオの黒髪から抜き取ると、その腰に戯れのように腕を回した。月明かりの青のなか、大きなぬいぐるみに頬ずりする子供にも、慕わしい兄に甘える妹にも見えた。

「ねえ、タオ。あなたは誰かを抱きしめられることはある?」

 タオは優しさの人形ひとがたとなって、舒舒にされるがまま、わずかに悲しそうに薄く笑うだけにとどめた。「そんなに無いよ。…僵尸になってからは」

 微笑の形をした瞼の下の翳りに、娘は死の楔の苦痛を見る。こんなに優しい心をしてるのに、肉体が死んでいるから、夜ばかりが彼を抱くのだ。舒舒はなにも言わずに眼を閉じて微笑みを返す。他人の苦しみに視線が触れないよう、眼を閉じる。そうすれば、無邪気な子どもでいることが許される。

 舒舒は、タオの体に、倒木のようにじっとりともたれかかった。樹に蔓草の這うように、掌が優しい彼の背を撫でる。

「時々、こうしているとね、睿のことを大きな花のように錯覚するの。大きな白い花をこの腕に抱いてしまったと。わたしは僵尸で、獣だから、手折ってしまえと、心臓の冷たい血が囁くの」

 告白は、潰れた果実より甘く響いた。腐敗した屍が熱を孕むように、魂が欠けているはずの娘のなかから、鬼火のように恋の炎が耀いた。

「……生きていたって、そういうことはあるよ。きっとね」

 幻の炎に照らされ、タオのかんばせは白い。黒い髪との対比は夜と月のように鮮やかで、吹いた腐敗臭を含む風がその白黒をかき混ぜた。檻のなかの猛獣の毛並みだ。彼の手が、どうしてか舒舒の喉元に触れようとして、…ふっと下に落ちた。

 その手に視線を向けたあと、舒舒はタオの髪を掬ってくちづけるふりだけした。その指の隙間から落ちていくまばらな髪が、月光に銀にきらめくのを、愛しいものを見る目で追いかける。

「大切な人に結って貰うといい。この世で最も幸福なことだから」







「貴方に教えてもらいたいことが」

 古びた点滴のボトルのなかで、得体の知れない液体が少しずつ落ちていくのを見つめながら、睿は呟いた。声はひどくかすれ、唇は死人のような灰桃色だったが、蜥蜴はそちらを振り向いた。

「僵尸の作り方です」

「赶屍術か。そんなの今更だろ」嫁を僵尸にしてるくせに、と肩を竦めたが、睿の奇妙にうつろな眼を見て、少し眉をひそめ、補充分を調合していた乳鉢を一旦置いたまま、睿の脇に歩み寄った。

「……血が足りないのか」

「なんでもいいですけど…」

「お前、適当に答えるなよ。ぼうっとするな、起きろ。せっかく治療したのに失血死されたら困る。金も払ってないのに」

「外套の内側にトルコ石と翡翠が入ってるので、今はそれで。……」

「それ、術に使うんじゃないのか。……まあお前がいいなら、遠慮はしねえ」

 言われた通り、蜥蜴が裏に紅の布を張った外套を探ると、懐に文鎮ほどの大きさの原石が入っていた。質を検分する蜥蜴の背中に、睿は小さな声で投げかける。

「貴方もご存知かもしれませんけど。私、あまり社交的でなくて、最近やっと、同業者の方とお話ししたりするようになったんです」

「ああ、よぉく知ってるぜ。お前の大事な花嫁が、頼れるのは俺だけだって言ってたからな」

 蜥蜴の言葉に、少し痛みを堪えるような顔をして、睿は続けた。

「それで、ある道士の方と、その僵尸とお話ししたんです。僵尸は彼女の実子で、見かけは十歳くらいの子なんですけども。死んでからどのくらい経っているのかは知りませんが、ずっと、大人びているんです。舒舒よりも」

 きっと、彼のなかで、死んでも時は流れているから、と、睿は囁いた。

 死の上に降り積もる幾つもの夜が、虚無を抱えた小さな屍を翁さびさせる。空になった貝殻の内側に堆積するのは、未来のない絶望だ。

「個体差って奴だろう。幾ら知性や自我が残っていても、結局は死体だし、化物だ」

 敢えて蜥蜴は突き放した言い方をした。道士は僵尸を使役する立場にある。つまり僵尸は彼らの所有物で、時にその意思を強制的に奪って獣のように扱うこともあった。

「人を襲うのは僵尸の性。それは重々解っているんです。けれど、彼女は獣です。生前のことは憶えていない。人の区別はつかず、文字は読めない。舒舒が死んだのは二十歳です。どれだけの夜を過ごしても、舒舒は、ただの死人にすらなれないのです。彼女を人にするために、幾百もの吸血鬼を喰わせて、灰を飲ませてきた。それで取り返せたのは、彼女の声。声だけです。十五年かけて、私が彼女に返してあげられたのは、私を呼ぶための声だけ。彼女が飢えて我を失い、私の血を嘗め、生きたままの動物を貪る姿を見るたび、つらくなるのです。

 舒舒は、舒舒は、炎をつめたいかんばせに隠した女でした。社交界の絹の花として、嘘で塗り固めた運命を受け入れる理性を、影として生きて死ぬ覚悟を持った、私の、ただひとりの同胞、私のすべてだった。私の光。私の炎。私の女。

 今や、舒舒は、真っ赤な血の人形です」

 語尾が震えたとき、ぽとんと落ちた最後の一滴が管に吸われ、ボトルが空になった。蜥蜴は静脈から管を引き抜き、布を押し当てる。白いガーゼが赤黒く染まった。触れるとわかる、睿の体が小さく震えていることが。

「貴方の僵尸。ねえ、貴方が拵えたんでしょう、彼は。どうやったんですか。あんなに、完璧な、生きていたときそのままの屍を」

「動くな。血が止まらないだろうが」

「私は完璧な手順で赶屍つれもどしたはずなのに。どうして舒舒は、舒舒は、私の、私の妻は、生きていた証を失ってしまったんですか」

 蜥蜴はガーゼ越しに滲んできた血の熱さを感じながら、慎重に言った。「赶屍術は難しい。…傷ひとつですべてがだめになることもある」

「傷なんてありません」

 睿は多少平静を失っているように見えた。落ち着きなく身動みじろぐ腕を、圧迫する素振りで巧みに押さえ込むと、やっと体から力を抜いた。

 以前、生死の境をさまようほどの大怪我をした睿を、舒舒が初めて蜥蜴のもとへ連れてきた。高価な薬と引き換えに、舒舒は蜥蜴の前で花嫁衣裳を脱いだ。強要はしていない、彼女の意思だった。

──わたしは睿の花嫁人形。

──睿はわたしを何より大切にするの。う死んでいるのに。

──睿、酷い傷でしょう。

──わたしに傷ひとつ無い理由よ。

 蜥蜴の耳元で囁いた舒舒の、底のない真っ黒な瞳を、覚えている。涯てのない夜のように、落ちていくのなら銀河に溺れてしまうような、純粋な瞳だった。

 傷ひとつ無い。

 そう、獣のようにしわがれた声で囁いた彼女の首に残った青紫の痣。誰の眼にもとまりにくい、縊頸痕に似た死の証。

 触れた皮膚の下で、確かなことはわからずとも、舌骨は折れて恐らくそれが神経を傷つけていた。それがあの声の理由だ。あの娘は、首を絞められて死んだ。だから、長らく声を失っていたのだ。呼吸を止めたのと同じ時から。

 蜥蜴は診察器具を片付けながら、ひとつ息を吸った。

「……なあ。試しに訊くが。

 お前の花嫁は、本当にあんな声だったのか」

 蜥蜴は何でもないことのようにそう訊いた。

 鬼が出るか蛇が出るか、本当は賭けだとわかっていた。禁忌パンドラの匣を開くような、化物の柩を暴くような、そんな問い。目前の白髪の道士の、覗いてはならない深淵に触れるつもりだった。

「ええ」

 間をおいて、答えた彼の声は、おぞましいほどに平然としていた。蜥蜴は顔をあげる。地獄の門だと思って伸ばした指が、暗闇で得たいの知れぬものを撫でたように。

 睿は、地の底まで見透せるような仄昏い灰色の瞳で、まっすぐに蜥蜴を見つめていた。

。出逢ったときから、ずっと」

 蜥蜴は答えなかった。鋭くも端正な面差しは彫刻のように動かなかった。

 休め、と言う代わりに鴉片玉に似せた麻酔成分を含む薬を手渡す。黒いかさついた球体を、おもちゃを渡された子どものように、手の中で転がした。実はまだ止まっていなかった血が、ぽとりと白い肌を伝って床に落ちた。その血痕に視線を落としながら、蜥蜴は煙草に火をつけて烟と一緒に吐き出した。

「眠っておけ。血は休息によって、幸せは夢によってしか与えられない。特に、アンタの場合はな」

 睿は、しばらくその球体を両手で持っていたが、そのうちに長身を折り曲げて、金属製の台に横たわった。どこか心細げな、孤独な子どもに似た寝姿だった。麻酔のせいか、数分も経たずに呼吸が間遠になった。

 蜥蜴は、血が止まっているかを改めて確かめながら、彼の問いを思い返した。

「アンタはオルフェウスだ」

 人形師が完成品に名を授けるように、彼は断言した。

「愛しい人を喪い、九泉あのよにその身を浸したはいいが、たとえその手を引いて連れ出せたとしても、行きはよいよい帰りは怖い、冥府の暗闇のなか、少しでも不安に思い振り返ったら一貫の終わり、死人はあわれ永遠に黄泉の国へ。古今東西、よく聞く悲劇の筋立てだな」

 押さえてもまだとろとろと滲み出る血に、蜥蜴は息をついた。ゆるやかな死の希求、或いは彼の愛する屍にとっての蜜、赤い液体はあらゆる意味で象徴的に過ぎるが、蜥蜴にとってはただの体液であった。いつまでも止まらない血は、この男の死への愛情を示しているようで、髪と同じくらい白くなったかんばせは冥婚の花婿に相応しかった。

 彼の魂を縛りつけるように包帯をきつく巻いて、蜥蜴は呟く。

「アンタは一度でも振り返って、眩む前のその眼で確かめておくべきだったんだ。自分が手を引いてきたものが、本当に甦らせたい女だったのか」

 眠り続ける男の血が、蜥蜴の指の間から銀の台の上に落ちた。それは、花嫁の髪を飾る牡丹の花のような形をしていた。

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