Тоска
「まさか、窓から来るとはな」
虎の皮を敷いた黒いソファに身を預けたレイシーは、開いた窓から吹き込む夜風に唇の端を皮肉げにつりあげた。室内に流れるレコードの音が宵の風に吹き散らされ、アリアが揺らいだ。
「表玄関にいた黒い男がショットガンを向けてきたからさ。話くらい通しておいてくれよ」
「来客があることは教えてある。お前がここまで上がってくるときに撃たれなかったろ」
「……なるほど」
ゆら、と窓枠に両足をかけたまま、《客》は不気味に笑った。ぎょろりとした眼の中央で、すみれ色の瞳が猛禽のように素早く室内を移り、ガウンを羽織ったレイシーの上に止まる。
「窓を閉めろよ。吸血鬼でもあるまいし、許可がなくても入れるだろ」
レイシーが苦言を呈すると、肩をすくめた客ことジナイーダは、ひらりと室内に這入ってきた。革靴をはいているのに足音はなく、スーツの擦れる音も風に紛れて、窓が閉まった音だけが聴こえた。夜行性の立ち居振舞いだ。
「約束のものさ」
言いながら投げられたものは、レイシーの膝の上に着地する。レイシーは視線だけでちらっとそれを見て、露骨に眉をひそめた。
こんなに粗雑な処理をされた書類はお目にかかったことがない。ただの麻紐でくくった紙束だ。ノートにすらなっていない、とレイシーは舌打ちしながらも、その紙を本に見立ててめくってみた。
予想通り、中身も手書きだ。魔都にいる吸血鬼の特徴が、インクの出がよくないペンで箇条書きにされていた。だが英語で書かれた内容は密で、文法は所々間違っているものの、ときには人相書きや滞在場所すら付されている者もいる。人間のふりをして仕事までしている吸血鬼も多いようだ。…あの片眼の狼のように。
後半を占める道士と僵尸の一覧も、なかなかに目を引く。血の繋がった母子、兄弟、……恋人。
レイシーは口笛を吹いた。首の血管が拡張し、自分が興奮したのがわかる。東洋の魔物、生ける屍。狂気と泥をまとったつめたい鬼。こんなに珍しいものは西洋にはない。海を越え、ここまで来た甲斐があった。
「ボクの知ってるかぎりではこのくらいだよ。どうだい、結構粒ぞろいだろ。昨晩までバーに張り込んでマフィアやハンターから集めた最新の情報だ、信じるかはキミ次第だけど、ここに来てまだ日が浅いんなら有用じゃないかい」
ボクはそいつらを追っかけてる余裕はないから、キミに譲るよ、とジナイーダは銀の銃を指先でくるりと回した。レイシーはぱたんとノートを閉じ、頷く。「まあ、合格だ。何がほしい」
「弾丸だよ、弾丸。あと酒。どうせ腐るほど余ってるんだろ、ボクに流してくれよ」
「黒い男に言って、欲しいだけ取っていけ。地下だ」
「マジかよ。言ってみたいねそんな台詞」
ジナイーダは、先ほど自分にショットガンを向けた黒い男を探してか、窓から外を覗いた。それとほぼ同時に、窓と反対側に位置する部屋のオーク材の扉が開く。
「
振り返ったジナイーダが見たのは、肌までもが赤みすら混じることのない真の黒をした男だった。外で肌が影のように見えたのは、闇夜だからだと思っていたジナイーダは、その漆黒に驚嘆の意を込めて手を叩いた。
「ワオ。すごいな、キミって黒豹なの? 足音もなくて、黒曜石みたいに艶やかだ!」
「メラニズムだよ。こいつについていけ。酒なんかは俺より詳しい。ウォッカでもスピリタスでも好きなようにしろ」
男は無言のまま、ジナイーダに背を向けて部屋を出ていく。黒い綿のような髪が揺れ、廊下の先へ消えた。ジナイーダは、夕星に続いて部屋を出ていこうとして、足を止めた。
「なんの歌?」
部屋に流れる音符の粒を示せるかのように、ジナイーダは指を立てた。
「トスカの《星は光りぬ》」
レコードの方が音が豊かだ、とは、父がよく言っていたことだ。レイシーはそれほど音楽に興味がなかったが、沈黙よりは慣れていた。
「Тоска…」
トスカ、というよりはタスカーといった雰囲気の発音ではあるが、ジナイーダは眉をあげて呟いた。
「違うと思うぞ」
「だろうね。チェーホフの短篇にどう尾ひれをつけたらオペラにできるのか考えちゃったよ」
「女の名前だよ。トスカは」
イタリアの話だ、と付け加えてから、レイシーはふとジナイーダの背に目を向けた。「お前のはロシア語か」
「うん」
「どういう意味だ」
何の気なしに訊いたが、ジナイーダは立ち止まったまま、灰色の髪を指に絡めた。既に黒い男の気配はなく、立ち尽くす華奢な体に、夜風と女の歌声が頼りなくまとわりついた。
「Тоска……苦悩、憂愁……ううん、ボクの語彙じゃ訳せないな。それに、説明もできない。これは、極めて不確かな言葉だよ……」
「チェーホフの《苦悩》は、魯迅の《祝福》とあわせて評されることが多いと聞きますけど、ミスターは読んだことがおありですか」
「どうしたよ。急にインテリじみたこと言い出しやがって」
「いえ、昨日読んだもので」
「最新号の見出しっていうことか」
「チェーホフの《苦悩》、これは原語ではТоскаというのですが、これはひとくちに苦悩と訳されるべき言語ではないそうです」
「へえ。まあ、翻訳でぴったりの言葉が見つかる方が逆に珍しいだろ。……アンタ、今日よく喋るな」
蜥蜴は痛み止めを入れた紙袋を開き、何かを追加した。彼は、ある種の苦痛を紛らわすために口数が多くなる人間がいることを知っており、そして目前の白髪の男がそうであることを見抜いていた。肉体の痛みならば沈黙で圧し殺せる、しかし不安定な精神の揺らぎは支えられない。
「絶望のトスカ、郷愁のトスカ、虚無のトスカ、愛のトスカ。満ち足りていた人を自殺に走らせ、恋する愚者を詩人に目覚めさせる。魂震える憧れでもあり、命削る苦悩でもある。そういう言葉なのだそうです」
問わず語りにつらつら述べたてる睿は、蜥蜴の顔すら見ていない。東洋人にしては不思議と淡い色の瞳は、濁った霧深い湖のようで、底は見透せない。
考えたくないことでもあるのだろうか、と思う。別にそれは今に始まった話でなく、常に巣食っているのだろう、とも。しかし、それがたった今、鎌首をもたげてきているのだ。冷静に蜥蜴はそう判断する、傷痕から噛みついた獣を当てるように。全身に増える傷と、それを覆うように増殖していく毒の花に似た刺青が、体の内側から溢れて滲み出てきた悪夢のようだった。
宿主が弱れば、隠れた病魔は牙を剥く。魂に巣食った傷も同じだ。雨が降ればひどく痛む。
睿の瞳を淡くけぶらせるのは、かつて見た過去だ。その紗が眼を曇らせ、やがて持ち主を死に至らしめるのを、蜥蜴はその醒めた目で何度も見てきた。
「これは北の地にのみ生まれる感情なのでしょうか。あの、つめたい銀の空を知るものに? 真紅を持たざる氷の獣に? 黒い炎を抱くものに?
だとしたら、トスカとはすべからく、癒えぬ傷をもたらすものに違いないでしょう」
囁く声は低く、雪解け水のように、暗い部屋にとろりと流れる。夜はもうすぐ明ける。彼の妻も、彼女を夜の街へ連れ出した蜥蜴の僵尸も、もうすぐ帰ってくるだろう。癒えぬ傷に寄り添うために。
薬を塗った痕に包帯を交差して巻きながら、せめて冷たくはない声音で答えてやった。
「つまり、運命ってことだな」
「……つまり、運命のつけた傷なのさ。Тоскаっていうのはね」
弾丸やら何やらの詰まった袋を抱えて地下から戻ってきたジナイーダは、未だ部屋に流れるトスカを聴いてそう言った。実にそっけない口調であり、レイシーも返事はしなかった。ジナイーダは特に気にとめず、持ってきた戦利品を、丁寧にジュラルミンケースに詰め直してはいるが、多少鼻の利く者ならすぐに中身に気がつくだろう。何本も抱えていた酒はすべてアルコール度数が八十を超えていた。
「報酬もらってから言うのもなんだけど、ボクでいいのかい。たぶん、もっと情報通のハンターや、専門の情報屋なんか幾らでもいると思うよ」
「そう思うならその弾薬返せ」
「もうボクのもんだよ」
ジナイーダはケースを抱えて唇を尖らせる。その腕の細さに、レイシーは薄く目を細めた。
「俺の趣味さ」
「あ?」
「動物愛護。変わった生き物が好きだと言ったろ」
保護しなきゃ絶滅しちまう、とレイシーは白い歯を見せて笑った。立ち上がり、彼の挙動から目を離さないジナイーダの脇をすり抜け、窓を開け放つ。レコードはもう止まっていた。
「絶滅したら、狩る楽しみがなくなるからな」
一拍おいて、自らを獣と称するジナイーダはにたりと満面の笑みを浮かべた。
「なるほど。……なるほどね。キミってそういうところあるよね。ンフフ、ボクはキミの獲物か。むざむざ殺される気は、無いが、ね……」
夜風にかき回されて、ジナイーダの笑い声は途切れ途切れになる。レイシーに促され、窓枠に両足をかけ、鳥のようにとまったジナイーダは、次の瞬間ふっと立ち上がり、十字架の形に両手を広げた。刹那、風と音が消える。ゆら、と煙のように、灰色のたてがみがなびいた。
「До встречи!」
靴音もない別れ。瞬きののち、開け放たれた窓の向こうには、しわがれた声だけが残っていた。
残響のまとわりつくその黒い四角に、レイシーはにやりと笑って手を振った。
「再見、灰色狼」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます