白い、白い日
宇宙の青で瞼に触れようと、
テーブルのライラックが君の方へ身を伸ばした、
そして青に触れられた瞼は
穏やかで、腕は温もっていた。
──「初めの頃の逢瀬」(アルセーニイ・タルコフスキー詩集「白い、白い日」より)
中古のミシンの音は煩いくせに針の動きはめちゃくちゃで、おまけに振動で床に埃がたつから、腹いせに窓から投げ落とした。暗闇に消えて、そこそこでかい音を立ててばらばらになっただろうそれは、物乞いが部品をかき集めてまたどこかで売られるだろう。
裁縫なんてしたことがない。ぼろきれを繕って寒さをしのいだことはある──きれいなものを刺繍したことがない。線は引けるけど絵は描けない、似たようなものだ。でも、ボクがやるしかない。誰にも頼めない、天使を見たことがない人には。
裁縫箱のなかには、針と糸の他にもいろんなものが入っていて、ボクは一応それらすべてを捨てずにおいた。花嫁のベールに刺繍をするのに、いつ何が必要になるかなんてわからなかったから。指ぬきってコレ何に使うんだろうね?…
隣の部屋から物音がする、広東語でなにか怒鳴ってるみたいだけど知らないフリ。大方さっきのミシンを投げ落としたことへの文句じゃないかな、わからないけど。もしくは酒瓶を部屋の前に置きすぎて邪魔だ、みたいなアレかな。一月くらい前に越してきたところだけど、そろそろ限界だ。イラッときた勢いで誰か適当に殺しちゃう前に引っ越さないと。
あと何回引っ越したら、キミといっしょにいられるようになるんだろう。
拳銃じゃキミの頭は奪えない。だから最近、軍用ナイフを手に入れた。骨ごと豚の首を断つ練習から始めたけど、それなりに筋はいいと自負しているよ。迎えにいく夜もきっと近い。
そのときまでに、このベールを完成させるんだ。
白にかぎりなく近い青、月に透かすと紫にも見えるような不思議なライラック・ブルーの糸で、花を刺繍している。どれもこれも、魔都を駆けずり回って手に入れた。殺した相手から奪ったものじゃないよ、だってそんなものは
結婚したら、家にすむ。汚い
ときどき、買い出しに町へ出なくちゃいけないこともあるだろう。町にかつてのボクたちのような子どもがいたら、その家に連れてこよう。そして、読み書きを教えなくちゃ。ごはんと、服と、不自由ないようにさせてあげて、取り戻そうね。証明するんだ、ボクたちだけで幸福になれると。盗まなくても生きていけるんだと。
それはそうと、パンは毎日買うものなのかな。よくわからないけど、買えるといいね、みんなのぶんを。それと、バターを塗りたい。ジャムも塗ってみたい。ボク、ジャムって塗ったことないな。キミも? そう、なら、紅茶にもいれてみようよ。ロシアンティーってみんな言うけど、ボクたちロシア生まれの奴が飲んだことないなんて皮肉だよね。
きれいな銀のサモワールを、蚤の市かどこかで買おう。それを使って、お茶をいれよう。何年か住んでなじんだら、庭にもう少し樹を植えない? アプリコットやさくらんぼの樹。それで、果物の
ボクたちは年を取り、子どもたちは増えていくだろう、ミモザの花がこぼれるように。汚い大人たちがいくら彼らを見捨てたところで、ボクたちがすくいあげるんだ。それができる。彼らは家中にあふれ、おにごっこをして、人形遊びをする。床はつめたいだろうから、絨毯を敷くべきだ。バレエ教室やスケート教室に通う子もいるかもしれないね。絵や音楽をする子もいるかもしれない。ピアノを買わなくちゃ。ギターや、カンバスや、イーゼル。ま、ちゃんと見たことはないんだけどさ……。どこに行ったら買えるのかな。
でも、蚤の市でマンドリンが売られているのは見たよ。古ぼけたやつだけど、弦はしっかりしてた。
ボクはあれを買うよ。みんなが揃うクリスマスの夜に、マンドリンを弾く。そして歌をうたう、みんなで。
家族の団欒ってこういうものじゃないかな?
ねェ、覚えてるだろ。あの寒くて湿った、路地裏をさ。みんなで野良犬みたいに寄りあつまって暖めあった夜のこと。結局、場所なんてどこでもいいんだ。屋根があっても、ボクは干からびた蜥蜴の死骸みたいに疎まれたし、あの雪の降る路地裏の子たちは、ボクを暖めてくれた。
醜いボクは、あのとき、生まれて初めて美しいものを見たんだ。
たくさんの子どもたちがキミを慕い、キミはその子たちを愛してた。キミの瞳はライラックの花で、頬の赤さは火みたいだった。
折檻されて殺されたっていいから、あそこに居たかった。
居ればよかった。
居ればよかったんだ、天使のそばに。そうすれば、あそこで死んだとしても、美しいものがこの世にあると信じたままでいられた。
人間でいられたのに。
地獄に堕ちたのはボク自身が望んだことだ。でも…でも……天使がもういないことなんて知らされたくなかった。不幸や死の気配を知りたくなくて、濃厚な血の匂いをうつしたくなくて、二度と逢わないように地下へもぐったのに、その天使が追いかけてきたんだ。首だけになって。
魔の都での逢瀬は、いつも血の舞踏会だ。醜いボクの性にはあってる、けれど、なんでキミがここにいるんだ。いや、もういないんだ。ここにいるのはキミの首だけ。その美しいかんばせだけ。
誰がキミの首を切り落とした? そんなに美しいままで、化け物にするために。キミが一言答えてくれればボクはそいつを殺しに行くよ。
互いに凶器をもった逢瀬は冬の雷電のように短く、夜のネオンに刹那照らし出されるキミの頭は蒼白く、瞳は沼地の鬼火だ。嵐の夜、足を掴む亡者の吐息だ。キミでないキミは男と女の声で云う、自分は舞う者だと。
本当の名前を知りたかった。
誰も知らない、この思いを。ボクは灰色狼、地獄の知恵もつ怪物。人の嗤い声によく似た音で、この大舞台で吠える。誰も狼の言葉はわからない。だから幾らでも叫べるのさ。
ご覧よ、今夜も月がきれいだ。
あの日のキミのほかに美しいものがあるとすれば、それは月だろうね。あれだけは地獄の底からでも見えるだろう。どんなに深い絶望すらも夢みることを奪えないように。
だからボクは月を見るたび考える。愛のこと、家のこと、子どもたちのこと、幸福のこと。
憎しみと悪徳の黒い水のなか、輝く青い月。逢瀬は幸福とかぎりない悲しみをもたらす。
それじゃあ、また。今は彼方に去りし、わが美しき想い出。
逢瀬の一瞬一瞬を
僕らは祝福した、まるで神の顕現のように、
世界にただ二人きりで。君は
鳥の羽よりも大胆で軽やかだった、
階段を、まるでめまいのように、
一段飛ばしで駆けおり、そして導いてくれたのだ、
濡れたライラックの茂みを抜け、自らの領地への、
鏡のガラスの向こう側の。
夜が来て、僕には慈悲が
与えられた、祭壇の扉が
開かれ、暗闇の中で裸身が
輝き、ゆっくりと傾いてきた、
目覚めながら僕は「神に祝福を!」と
口にしながらもわかっていた、その祝福が
大胆不敵なものであることを。君は眠っていた、
宇宙の青で瞼に触れようと、
テーブルのライラックが君の方へ身を伸ばした、
そして青に触れられた瞼は
穏やかで、腕は温もっていた。
水晶の中では川が脈打ち、
山々が煙り、海がほのかに光っていた、
君は水晶の球体を
手のひらに載せ、玉座で眠っていた、
そして──ああ、神よ!──君は僕のものだった。
君が目覚めると、ありふれた人間の言葉の辞書は
すっかり見違えるようになり、
言葉は響き渡る力で喉いっぱいまで
満たされた、そして「君」という語は
新たな意味を開示し、いまや「王」を意味するのだった。
世界のすべてが変容したのだ、
ありきたりの物たち──洗面器や水差し──さえもが、
僕たちの間に、まるで見張り番のように
層になった固い水が立っていた時に。
僕たちはどこへともなく連れ去られた。
僕らの前には、まるで幻のように
奇跡によって建てられた町々が広がり、薄荷の葉は自ら僕たちの足元に身を横たえ、
鳥たちも僕らと共に進み、
魚たちは川を上ってゆき、
そして空が眼前に開けたのだ……
だがその時、運命が僕らのあとを追っていた、
剃刀を手にした狂人のように。
──「初めの頃の逢瀬」(アルセーニイ・タルコフスキー詩集「白い、白い日」より)
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