紅孔雀と灰色狼

 ホテルの大階段には、瓜ほどもある大きな房飾りのついた傘が、幾つも広げて飾られていた。それを避けながら、かろやかにレイシーは駆けおりる。ロビーの客はこちらを見上げ、口を開けた。その声が追いつく前に、ひらりと黒貂の尾を閃かせ、開かれた扉からレイシーは中庭へ躍り出た。芝生を踏む足は蛇の革に包まれ音もなく、あたりに走らせる紅琥珀の瞳は夜をめぐるサーチライトよりなお鮮やかだ。

 中庭には、子どもくらいの大きさがある福の字が書かれた提灯が飾られている。その夢のような紅の光が揺れるなか、忙しく立ち回る給仕たちの影が、紫や朱色や、金緑に輝く芝生の上で、魚影のように流れていた。

 レイシーは足早に歩きながら、談笑する客らの動かない影を辿った。隙間から伸びるひとつを追って、提灯の林に分けいると、柱の影に誰かがいるのがわかった。輪郭は華奢で、レイシーはそっと足音を殺して近づいた。

 柱の影、建物に寄り添うようにひとりで立っていたのは、まだ若いホテルスタッフのようだった。黒地に暗い赤のパイピングのついたベストに、銀糸を織り込んだシックな灰色の長衫は、ホテルの給仕のものだ。その背丈は普通の東洋人らしく小柄で、紫の腰紐で、少し長い上衣の丈を調節していた。しかし目立つのはその給仕の髪で、狼のような灰色の巻き毛をまとめもせず、魔女の繰り糸のように溢れさせるままにしている。燃え始めの火事は、こんな不吉な煙をだす、とレイシーは思った。

 一応、銀の盆を持ってはいるものの、その給仕は壁にもたれて足すら組んでいた。量の多い髪に隠されがちのかんばせは、レイシーからは身長の違いでよく見えない。しかし、その小さな輪郭と肌の色はわかった。混血だ、とすぐにわかった。黄色人種における肌の白さではないが、白人の肌ともまた少し違う。影が淡い紫をつくる、象牙のように不透明な白だった。

 その混血の給仕の口元で、微かな陰影が蠢いていた。何かを喋っているのか、それとも……レイシーは少し、その顔が見える程度に歩み寄った。

 唇の端から、赤紫色のものが見える。口紅でも血でもない、と思ってよく見れば、それはピーナッツの皮だった。レイシーは目を細める。職務中につまみ食いをするスタッフなど、レイシーが泊まったことのあるホテルではあり得なかった。所詮魔都か、と毛皮を直して、咳払いをすると、向こうはこちらに気づいたようで、もたれていた壁から体を離した。

 べろりと暗い紅の舌がピーナッツの皮を嘗めとり、ぬらりと関節がないような腕の動きで、給仕は盆を差し出した。そのときやっとはっきり見えた顔は、ぎょろりと大きな目をした、爬虫類のような印象が強かった。

 レイシーは、盆の上に並んだ釣り鐘型のグラスをひとつ手に取り、中身を月に透かす。普通のシャンパンのようで、グラスのなかで輝きながら夜にのぼっていく小さな泡は音符のようだった。

 レイシーは躊躇いなく、その中身を芝生にぶちまけた。金のしずくが弧を画き、二人の靴先を濡らした。

「なるほど」

 灰色の毛並みの下から、男とも女ともつかぬ、奇妙にしわがれた声がした。目にもとまらぬ速さで、給仕は身をひねってベストの中に右手を差し入れ──

「逆だ」

 その手首をとらえてひねりあげながら、レイシーは冷ややかに言った。拳銃を握った手をつかまれ、強引に向きを変えられた銃口に唇を歪めて、給仕──給仕の格好をした何者かは低く唸った。

「なんだ、同業者かい」

「グラスの一杯一杯に銀を沈めるのは効率が悪いだろ。吸血鬼を炙り出したきゃ、聖水を垂らすことだな」

 レイシーが示したグラスの底には、銀砂が一粒、流れ星の忘れもののように付着していた。彼はそのグラスを宙に放る。矢のように、すみれ色の瞳がそれを追った。

「あいにくだけど、お前や俺が求めてる相手はもういないよ。スター・フェリーを脅かしにいったらしい」

「なんだ、骨折り損だったなァ。せっかくこの服を用意したのに。しかしスター・フェリーね、ヴィクトリア・ハーバーまではだいぶ遠いよ。飛んでいったのかい」

「たぶんな」

 レイシーがふざけたように、掌をぱっと開いて離すと、相手は舌打ちしながらも大人しく拳銃をベストの内側へ入れた。ちらりと見えたベストの下にはホルスターが装着してあって、黒と銀の二丁の拳銃が納められていた。その胸郭の小さなこと、そしてホルスターに押された胸元の皺の寄り方に、不意にレイシーは悟る。

 ──女か。

 少年と見紛う体躯や、ぎょろりと眼ばかり大きな顔立ちはほんの小娘のようだが、東洋人の血が、この生き物の正体を迷宮に仕立てあげていた。もしかしたら、音に聞く宦官というものの末裔かもしれない。

「生まれは?」

「ソビエト。…じゃなくて、今はロシアだね。ま、どっちでもいいか。名前はジナイーダ、まあ適当に呼んでくれ。呼ぶ気があればね」

「ふうん。なるほど、吸血鬼ハンターか」

「いや、吸血鬼専門というわけじゃない。というより、実のところ、吸血鬼狩りは少しお休み中なのさ。ほら、猟犬がよそ見をしたらお仕置きされちゃうだろ」

「へえ、首輪つきか」

 ハンターが特定の主人に雇われることは自然だ。むしろ、レイシーのように、自らの道楽のためだけに人でないものを狩ろうとする者の方が少数である。

「そう。つまり、ボクの今やってる吸血鬼探しはつまみ食いというか、まあ本腰入れてないんだよ、いたら撃つくらいはするけどさ。でもそれって人間でも一緒だよ、殺していい奴がいたらボクは誰でも殺す。殺すのが好きなんだ。まあ、一番はお金が貰えるからだけど。お金になるように殺そうと思うとさ、縛りがキツいんだよ。自殺っぽくしろとか、楽しくない。キミはどう?」

「殺すのが好きでも純粋に楽しめないとは、世知辛いことだな。俺は金には困ってないから」

「はァ、うらやましいこったね。嫌いだよ、キミみたいなヤツは。どうせ弾を買う金にも困らないんだろう、こっちは毎日使った弾の数をけちくさくメモしてるんだよ、惨めだと思わないか? どうせならボクだって一度、雨あられと弾丸を撃ち尽くしてみたいね」

 立て板に水というように、巻き舌の発音が強い英語でまくしたてたジナイーダは、不意にスイッチが切れたように口をつぐんだ。早口で口数の多い姿は攻撃的な小動物のようにも見える。黙り込むと、途端に取り巻いていた武装の空気がしぼみ、華奢な体つきが浮き彫りになった。

「……そうだ。ボクとしたことが、これを訊かなきゃ意味がない」

 芝居がかった独り言を呟きながら、ホルスターの隙間から手品のように一葉の写真を取り出した。

 古い写真だ。長い黒髪の少女が写っている。意思の強そうな、はっきりとした黒い瞳と、艶やかな肌のかんばせは美しいが、笑顔は子供のように可愛らしい。真紅のさくらんぼ、咲き初めた牡丹の花は、きっとこんな表情を思わせる。

「この娘に覚えはないかな?」

 ぎょろりとしたすみれ色の瞳が、油断なくレイシーの反応のすべてを窺っていた。

 レイシーは穴が開くほどその写真を眺め、少女の姿を見たときから脳の奥でぱちぱち瞬く火花の正体を見極めようとしていた。

 似ている。自分が、このアジアの国に興味を持つきっかけとなった女に。

 あの女の顔は、最もよく覚えている。十五年前、十二歳のレイシーが、マフィアの父親に手渡されたナイフでばらばらに解体した東洋の娘。敵対する組織への報復だと云われた。女は美しく、未婚と聞いていたのに、子を孕んでいた。上海にいるであろう父親のもとへ、母子の肉塊は送り返した。

 似ている。だが、違う。

「………いや。ない」

 しばらく考え込んだ末に断言したレイシーに、ジナイーダは片方の目をぎょろりと剥いて顔を近づけた。「それが本当だとして、考え込んだ理由を聞かせてくれよ」

「似た女を知ってる。でも、目が違う。形が似てない、口元と鼻はそっくりだ。血縁かもな」

「目か。目ねェ。まあ、そんなこともあるよね。ちなみにそれ、キミが殺した相手だったりする?」

「この女、死んでないか」

 無視して問うレイシーに、ジナイーダは目を瞬かせた。笑みを刷いた唇が興味深そうに歪む。

「…十八歳らしいよ、死んだのは。この写真は十六、七かな。お察しの通り、十五年前に死んで、その後わけあって──実にこの奇妙な国らしい理由で──探されている。つまりは──」

「僵尸」

 ジナイーダの顔から笑みが消えた。瞠目した表情は面のようで、丸い眼球には金の光が映り、生き物のぬるりとした輝きを一瞬踊らせる、その後に細められる片目。胡乱げな瞳孔が縦に伸びた気がした。

「知ってるのか。そのとおり、生きた屍、僵尸さ。……やっぱり、心当たり、ある?」

 風が吹き抜け、悪魔の翼のように黒い毛皮がひるがえった。長い睫毛の下の紅琥珀は、一度だけ瞬きをして、それからまっすぐにすみれ色を見返した。

「……いや。無いよ」

 レイシーは、背筋の凍るような微笑を浮かべて返した。それは幾百の命を刈った慈悲なき悪魔が、地面に捨てた花殻の数など覚えていないと言い放つ温度に似ていた。

「………そうか。手間をかけたね」

 ジナイーダは写真をしまい、盆を投げ捨てた。靴を脱ぎ、ベストも脱ぎ捨てながら、ジナイーダはホテルを囲む生け垣の方へ歩き去る。灰色の長衫の裾を払い、レイシーの方を振り返った。

「この服はもらっていくよ、動きやすくていい。持ち主はそこらへんに転がってるから、風邪引く前に起こしてやってくれ」

「俺に言うなよ。支配人か誰かに言え」

 ジナイーダは答えずに、生け垣の刈り込まれた枝に足をかけた。華奢な体躯は小鳥ほどの軽さしかないのか、その体は容易く枝葉の柔らかな垣根を越え、向こう側にひらりと飛び降りる。

 レイシーが手を振りながらちらっと葉の隙間から覗くと、隔絶された雲上の楼閣のように、あたりは濃い霧に包まれている。

「それじゃあな、ロシアの猟犬。死の舞踏を楽しめよ」

 最後に一度振り返った灰色狼は、にたりと笑って口を開きながら、その霧のなかへ身を踊らせた。その声は霧に溶けてあたりを包み、レイシーの耳に残響としていつまでも渦巻いていた。

「覚えておきなよ。ここは魔都香港、東西も生死も、何もかもが入り乱れる混沌の舞台。朝には紅顔、夕には白骨、夜には鬼火の饗宴だ……キミもいつか死と相対することになるだろう。…それじゃ、再見」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る