The Alice, or the Wolf
香港の山に出る霧は有名だ。湿った夏の宵、淡く白い海に沈んだなかに、灯りがともっている。深海に揺れる沈没船のシャンデリアのように、その灯りはぼんやりと揺らぎ、泡のように瞬いている。…
そんな霧に囚われた、とあるホテルの一室。
壁は白く、床はラピスラズリ色。木彫りの幾何学的な細工が施された四角い麻雀卓を、四人の男女が囲んで、談笑している。それぞれが上質なセンスで着飾り、欧州の空気を身にまとっている。
そのなかで、ダークブロンドを撫で付けた洒落ものらしい男がふと、口を開いた。
「女か虎か、という話がある」
向かい合った女が「まあ、どんなお話」と扇をもって笑って見せる。
「R.ストックトンのリドルストーリーだろう」
敢えてつまらなそうに、女の左隣の男が言う。
「さすが、アドラー氏は博識だ。そう、これは有名な謎で、結末がない短編…というよりは、読者に結末をゆだねる短編だな」
「面白そうね。どんなお話? 題名だと、なんだかおかしな取り合わせだけれど」
「何、話は単純。あるところにある国があり、王女とある男が恋に落ちた。しかし国王はその身分違いの恋に怒り、男を民の面前に引き出して、こう言った──お前の前にふたつの扉がある。片方の扉の向こうには虎がいて、開けたとたんにお前を食い殺すだろう。しかし、もう片方の扉の向こうには国一番の美女がいる。そちらを選んだなら、お前は即座に罪を許され、その美女と結婚できる。
もちろん、その裁きの場には王女もいた。男は助けを求めて、王女に視線を向けた。王女は彼に、一方の扉を示した。……」
「そこでおしまい?」
「そう。王女が示した扉は、はたして女か虎か…という話だ。君ならどうする、ミス
ミス梁、と呼び掛けられた女は、黒く潤んだ眼を伏せて少し思案するふりをした。
「そうね。……虎よ」
「おっと。どうしてかな」
「単純な話じゃないの。愛した男をむざむざ他の女に渡すなんて、誰がするものですか。それに…」女は芭蕉の葉を模した扇の隙間から、艶然と微笑んだ。「助けを求めるような意気地無しは厭」
男は笑いだした。皮肉なことを言っていた左隣の男すら笑みを浮かべている。
「男の視点ではまた変わるのではないだろうかね。なあ、ミスター・ワン。君ならどうする」
卓を囲んでいた最後の一人が、ゆっくりと顔をあげた。
まだ年若く、琥珀色の瞳をした美男だった。エクリュのシャツに蛇革のタイを締め、肩には黒貂の毛皮を羽織っている。
「レイシーの答えは決まっているわよ」
ミス梁はレイシーの顔を見ながらそう言った。赤みの強い琥珀でその女の笑みを受け止めながら、無造作に答えた。
「虎」
女がほら、と言うように目配せし、男ふたりは肩をすくめたり、顎に手を当てる。しかしすぐに続けて、レイシーはにやりと笑った。
「そのあと、その虎を喰う」
一瞬、場が静まり返る。まばたきののち、真珠の首飾りの紐が切れて、硬い床に散らばったようなばらばらの笑いが起きた。
「さすが。……まさしく王の答だ」
「恋人を喰った虎の味は、さすがのミスター・ワンも未だ知らぬだろうが」
「いやいや、彼ならいつか知るだろうよ」
男二人は手を叩き、若き暴君を賛美した。扇を口に当てた女は、素敵ね、と色を含んで目配せする。自らが殺した獣の毛皮を着たレイシーは、いっそ無垢なほどに莞爾と笑った。
「確かに、いつか喰ってみてもいいな。……でも、俺は虎より、狼が好きなんだ」
夜風にあたりたい、と感傷的な言い訳はあまりに上の空だったが、他の三人は駆け引き的なお喋りに実に熱心に興じていて、麻雀などどうでもよいようで、レイシーを引き留めなかった。
氷を飾った室内ではちょうどよかった毛皮は、湿った夜のなかでは少し執拗に首筋にまとわりついた。熱帯の植物を思い出す。水気をたっぷり吸った、足首に絡む蔓草だ。
階下からは微かにジャズが響き、シャンパンの泡のように歓談の響きが耳に届く。今晩ホテルで開かれているパーティーはどんな口実があったものか、レイシーはもう覚えていない。早いうちに、社交界という蜘蛛の巣から、欧州にいた頃から見知った顔ぶれと抜け出してきた。しかしそれも厭きてしまい、ふらりと夜の腕に、静寂を求めて身を委ねたかったのだ。
しかし、扇形のバルコニーの死角には、先客が佇んでいた。
星の光をあつめたような輪郭は、レイシーにとってはある意味で、邂逅を嬉しく思う人物のものだった。
黒いベルベットのリボンで留められた、驚くほど長いストロベリー・ブロンド。薔薇を溶かした金は夜の青みに紫がかって見えた。春風をはらんだフラミンゴの羽のようだ、とレイシーは思う。かつて南欧で狩った一羽は、今も彼の部屋に剥製となって飾られている。
長身を包む薄いシルク地の旗袍は水色で、黒のサッシュベルトは中東風の凝った誂え、透ける白いレースの袖は、左が空っぽで、人魚の鰭のように夜風にたよりなく揺れていた。
「ミスター・コイブランタ」
白樺の湖畔を意味するらしい、北欧の名前で呼びかける。振り返ったかんばせは白く、瞳は夜のなかだというのに、レイシーの紅琥珀とは対照的な、燃える銅のようにあざやかな緑をしていた。
「ニーハオ、ミスター・ワン」
北京語の挨拶は歌の一節のように響き、レイシーは片手をあげ、英語で返す。
「レイシーでいい。……話すのは十年ぶりだけど、覚えてるか?」
隻腕の男は一瞬、肉食獣のように目を細めた。花のような睫毛が上下すると、鳥の羽ばたきによく似て見えた。
「……物覚えのいいこと。当然覚えていますよ、わたしはね」
「じゃあ、煩雑なことは言いっこなしだ。アリス、まさかこの国で会うなんて」
「歳上への口のきき方がなってないのは変わりませんね。小生意気な。……まったく、昨夜も、今夜も、よく過去が逢いに来るものです」
内容とは裏腹に、アリスは薄く微笑んでいる。夜だというのに、その右腕には百合のように小さなパラソルを持っていて、指先だけでそれをくるくる回していた。踊り子のようなパラソルは、しゃらしゃらと貝殻のこすれる音を立てた。宝石と貝で作られた飾り傘だ。月光が隙間からきららかに洩れていた。
「入らないの。卓、空いてるけど」
ガラスの扉を指差しながらレイシーが言うと、彼はふいとそっぽを向いた。
「あの部屋、好きじゃないんです」
ちょうど、笑い声と雀牌がかき混ぜられる音がして、レイシーも無言で肩をすくめた。
「じゃあ下は? ジャズが聞ける」
「あそこはもっと厭。坊主や尼僧がいるでしょう」
ふふ、と思わずレイシーは笑みをこぼした。黒貂がふわふわ風になびいて、その頬を撫でる。仕立てたばかりの勲章の毛並みからは、気に入りのコロンと、それから知らない花のような何かが香った。
「……あなたこそ、どうして外へ? 夜景など見飽きたのでは」
アリスが薄く微笑むと、尖った犬歯がちらりと見えた。良い育ちらしく白く美しい歯をしているが、存外並びは優等生でないようだ。かすかな訛りのある英語で歌うように喋るたび、尖った白がやけに目についた。レイシーは答えず、彼の傍らの柵に肘をついた。霧に包まれたその向こうに、ぽつぽつと確かに華やかな灯りが見える。欧州でも見た光景だ、霧の朝に浮かぶ教会の塔や最先端の高層建築。あの摩天楼の冠の下には、闇に沈んだ貧民街が広がっている。蓮の花が咲くその下は、濁った泥であるように。
レイシーはタイをゆるめ、ふと隣を見た。鳥の羽のような、空っぽの袖。白いレースが水色の絹と黒いリボン、薔薇色がかった金髪を粉雪のように飾っている。
「アリスみたいだな」
「む。発音が違います、わたしの名前はA-R-I-S…」
「合ってる。ディズニーの方。色が似てる」
服を指差しながら言うと、アリスは一瞬怪訝そうな顔をしたあと、間延びした口調で「ああ、動く絵の」と言った。
「動く絵、って。今どき爺でも言わないだろ」
「合ってるでしょ。
「そんなこと言うのは十九世紀生まれの老いぼれか、…千歳の吸血鬼くらいだよ」
アリスは片眉をあげて、珍しく舌を鳴らした。ぎらり、と犬歯が月に光る。先程より、尖端が鋭い気がする。
「おまえ、趣味は狩りだと言いましたね。……」
「正確には珍しい生き物を狩ることだ。……隻腕の吸血鬼は、まあ珍しい部類に入るかな」
「小賢しい!」
明確に舌打ちすると、アリスは不意に貝殻の傘を放り捨てた。がしゃん、と耳障りな音がして破片が飛び散った。それを、いら立った黒い靴先が踏みしだいて磨り潰す。
「どいつもこいつも、まったく人間ときたら! 西も東もないじゃありませんか。狭っ苦しくて、厭になってしまいます」
レイシーは笑ってその姿を見ていた。さあ、幻想の蛾の擬態が解ける。美しい化けの皮が剥がれ、溢れる色彩はまたとない興奮を呼び起こす。
「怒るなよ、ミスター・コイブランタ。北欧の名士の愛人を殺したとなっちゃ、俺もただじゃすまない。幸い、この都市は最高にイカれててお前より珍しい生き物がいるんだ。十何年も見かけが変わらない男なんて、せっかく東洋まできてコレクションに加えるほどじゃない」
「白々しい。コイブランタ、あの男が欧州でやたらとわたしを見せびらかしたものだから、おまえのような小賢しい輩に気づかれるのです。誰が悪趣味な
アリスの声がだんだんと尖っていき、不吉に風が渦巻いた。薔薇色の髪が炎のように夜景に舞い上がり、瞳の緑が火花を散らして、レイシーのしなやかな体躯を照らすように瞳孔が揺れた。
そのとき、ガラスの向こうから声がかかった。
「ミスター・ワン。よろしいですか」
レイシーが振り向くと、ガラスの向こうには、長い白銀の髪を丁寧に編んだ灰色の燕尾服の男が立っていた。思わず眼が離せなくなるような美男で、リヤドロの陶器人形のような肌は、夜のもとで見るとどきりとするほど白い。…もっとも、彼のかんばせを陽光の下で見たことがある人間を、レイシーは知らないが。アルテュール、といったか。アリスが常に伴っている、忠実な従者だ。
「ああ」
きていい、という仕草をすると、彼はガラスの扉を押しあけて、音もなくバルコニーへ出てきた。アリスは不機嫌を引きずってか、返事は聞こえない。
「……ほら、白兎がきたぞ」
振り返りながら言うと、そこには何もいなかった。鉄細工の柵の向こうは、夜と霧、そして魔都の鬼火だけが揺れていた。
「アリス様がご迷惑をお掛けしたようで」
銀髪の男は優雅に膝をつき、砕けた傘を拾い上げた。破片を花摘のようにつまみあげ、ハンカチでくるむ。そのうなじの白さに、レイシーは唇を湿らせた。
「……お前の主人はどうやら、このパーティーがお気に召さなかったらしい。ここから飛び降りたか、さもなくば蝙蝠になって帰ったみたいだ」
「多分、気が済んだら戻ってきますよ。スター・フェリーの客でも脅かしにいってるんじゃありませんか」
平然と答えるアルテュールの表情は、人形のように読めない。やはりそうなのだ、とレイシーは確信を得る。十年前、欧州ですれ違ったこの主従は、写真のように変わらない。
レイシーは視線を外して、恐らく彼らが去っていくだろう闇を見下ろした。ふと、波うつ夜霧の向こうに、きらりと白く輝く薔薇をみた気がした。
「……とは言え、わたくしもあるじを放っておくわけにもいきませんので。失礼いたします」
はっと視線を戻したときには、やはり、銀髪の男の姿は忽然と消え失せていた。あの月のように意識に残る、左目の輝きの一片も残っていなかった。
レイシーは、甲板のようなバルコニーから身を乗り出した。黒貂の毛皮が翼のように風にたなびいて頬を叩く。霧の海のどこかに、わずかな影でも見えやしないかと目を凝らしたが、何もわからなかった。
「……次からはライフルを持ってこようかな」
頬杖をついて独りごちる。紅の琥珀に似た瞳を瞼に隠し、上等な毛並みに顔をうずめた。狩りの高揚の記憶、死の芳香。霧を含んだそれはいっそう強く薫り、レイシーの脳を刺激した。心臓が脈打ち、全身の血管に快楽を送り込む。
魔都の霧は、西洋の夢みた東洋と、流れ込む無数の欲望を練り込み、異邦人を眩惑するのだ。明滅する憧れ、遠い記憶、飢えるがごとく愛する狼の幻。
どこまでもレイシーを魅惑する香にはひとすじ、血の匂いが混ざっていた。
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