Frankenstein

 人の命はなるほど重い。ジナイーダ・チャンは、五人の命と引き換えに拳銃を、十人の命と引き換えに偽の身分を、十五人の命と引き換えに、自由を手にいれた。

 生まれははるか北、赤い血と青い氷のよく映える、白ばかりが冴えた悪夢のような国の片隅で、生まれついてなにもかもを失いながら、犬のように生き延びた。孤児院では干からびた蜥蜴のようにのけ者にされ、あかぎれだらけの手でひとり水を汲みながら、ジナイーダは少しずつ成長していく己の躰に、確かに違和感を覚えていた。そして、生えきらぬ牙が疼く心地も。

 体も心もすべてが未完成、空虚ばかりの氷の人形が血を浴びて、初めて獣となりえたのが十代の初めだった。初めて殺したのは、ジナイーダの処女を奪った男だった。

 その晩、ジナイーダは己が「男」だと知った。

 それからは雪崩のように、町から町へ渡り歩いて人を殺すようになった。闇と最も近しい冬至に生まれたという孤児院の職員の話を信じるならばそれが運命だったのであろう、やがては銀の銃弾を持ち歩き、人ならざるものまで仕留めるようになった。

 この国を出ようと決心したのは、偽の身分を殺人で購うことができると知ったときからである。

 初めは、大陸の港湾都市に潜み、黒社会のよどみで、人を殺していた。やがて、少しずつ人ならざる者を屠る実績も積み上げていくにつれて、意外なところから依頼が舞い込むようになった。教会、薬屋、…マフィア。

 三十人目の殺しで、銀の銃を手に入れた。魔除けの印が彫り込まれた、しっくりとつめたい手になじむ武器だった。



「この男を狩り出してほしい」

 殺した数が五十に届こうかという頃、ジナイーダはあるマフィアに呼ばれた。見せられたのは、花のかんばせの少女の写真一葉。そして、銀板写真のようにぼやけた、白黒のモンタージュ。黒髪を長く垂らした、線の細い亡霊のような若い男。

「娘を殺した男だ」

 喪服を着たマフィアの首領は、悲しみと怒りで面変わりしたかんばせで低く告げた。

「娘を絞め殺して、僵尸にして、連れ去った。殺すな。生かして、追いたてろ。私のところへ必ず連れてこい。私が、この手で、…」

 男は自分の両手を組み、爪が食い込んで血が出るほど強く握りしめていた。ジナイーダは、初めての殺し以外の依頼に、黒と銀の二挺拳銃を指先で回しながら「了解」とだけ返した。

 猟犬は、飼い主の言うことを聞かないと処分される。つけられた首輪に牙を剥くほど愚かではない。

 それに、魔都と名高い海の向こうへ旅立つのは、ある意味でジナイーダの夢であった。

 人の命で購った偽の身分で入国手続きを終え、踏んだ港のコンクリートの感触を今も覚えている。今まで殺した人間たちの骨と、化け物たちの灰を圧し固めたような大地は、ほのかな潮と鉄の匂いがしみついていた。それでも、いつも砂っぽく、黄色く濁った魔都の空気が、ジナイーダには慕わしく思われたのだった。

 灰色の毛並みをたなびかせ、爬虫類のようなすみれ色の瞳を持つジナイーダ・チャンは、女のようで、少年のようで、どこかキメラじみて不気味だった。男物のファッション一式に身を包んだジナイーダは、渡された少女の写真を、スーツの胸ポケットに差し込んだ。この黒いスーツは映画監督、アメジストのネクタイピンは反体制の詩人の命と引き換えだった。胸元の八端十字架は神父の死体から盗ってきたものだったろうか。ジナイーダは、人の命の「価値」をよく知っている。

 すみれ色の双眸は、魂の軽重をはかることはない。ただそこに在る、物質としての人を見る。

 ジナイーダは自分が銃を向けた屍に向かって、ときどき親しげに語りかける。

「やあ、人間。ボクはジナイーダ。知恵ある怪物、シベリアの灰色狼さ。冬至に生まれ、憎しみと悪徳に浸かって生きてきた。この世の醜いものすべてはボクの家族なんだ。…そうだろうって顔をしてるね。死んでるけど。うん、この眼はね、蜥蜴の眼なんだ。残念だけど、宝石や春を見るためのものじゃない。生き延びるには役立つけどね。醜い獣、ボクに相応しい眼だ。……

 けれど、そんなボクだって、この世で美しいものを、ひとつだけ見たことがあるのさ。……」



 魔都には、夜になると、紫の靄がかった不吉な風がやってくる。銀の月光と血煙がよく似合う、からくり仕掛けの大舞台だ。黄砂を蹴る足は生者のものか死者のものか、はたまた鏡に映らぬ怪態のものか。

 建築材の積まれた町の片隅で、ジナイーダは銀の弾丸を込めながら、頬についた血を長くくねる舌で嘗めた。

「……夢を見ているのかな」

 踏み出した靴先は夥しい血と灰。物陰から、姿は見えねど猫の声がする。暗雲に似た啼き声はぐわんぐわんと反響し、灰色の毛並みの闖入者を追い出そうとうねる。

 古い塔の土台のように組み上げられた鉄骨の上に、人影が立っている。そよぐ花の袖、鳥のように揃えられた足先、風にたなびくは髪か紗か。月夜にぴったりの、正体のわからない美しい影が、無冠の王のようにまっすぐ佇んでいる。

 視線はその人影に捧げたまま、一歩、二歩と踏み出し、ジナイーダは……思いがけぬ花に出会った旅人のように、腕を広げた。

「やっぱりキミは天使だったんだ。そうでなければ生け贄だね。そんなに美しいのは、どちらかだよ」

 くるりと左手の先で、銀の銃が回った。

「あるいは悪魔かな」

「あいにくだが」

 重なる男女の声が、羽のように夜空から落ちてくる。ジナイーダはわずかに目をみはった。夢のような二重奏が、ついぞ受けたことのない神の祝福のように響く。

「この頭はただの《部品》だ。俺は舞者モーゼ。この《頭》の名は知らん。ただのモノに成り果てた」

 月光の凝ったようなプラチナ・ブロンドの前髪の隙間から、見たこともないほど美しい瞳が睥倪していた。翼のように黒い髪がたなびき、水の底のようにその姿全体が揺らいでみえた。

 ……否。かつて、ジナイーダはこの瞳を見たことがある。

「It was on a dreary night of November...」

 吹き荒ぶ木枯らしに似た声は、細い喉にひっかかって消えた。眉ひとつ動かさぬ僵尸のかんばせは彫像そのもののようで、ライラックの花のような優しさは、跡形もなく溶けて消えたのだ、とジナイーダは、両腕をゆっくりと持ち上げ、固定した。細い腕の先で、黒と銀の銃口がぎらりと光る。教会の鐘と似通った音を出す喉に、それが向けられる。

「人生なんてそんなものさ。スネグーラチカは焚き火の上で消えてしまう。美しいものは、すぐに滅びる」

 舞う者、と名のった死体は、銃口を向けられ、なおも風に揺れる雛罌粟のように佇んでいる。頑なに閉じられた唇は、確かに氷の色をしていた。

 世にも美しい鬼と、醜い怪物が対峙する。どちらもキメラだが、生と死がふたりを隔てていた。

「お互い、どうしようもないほど変わってしまったね」

 ゆらり、と青く燃える鬼火の瞳に、ジナイーダは苦笑して、引き金に指をかけた。

「お願いだよ、わが美しき想い出ヴァスパミナーニエ。ボクの花嫁になってくれ」



 おれは答えが欲しいのだ。何の絆も愛情も得られないというのなら、憎しみと悪徳を手にするより仕方ない。

 ─「フランケンシュタイン」メアリー・シェリー著

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