en plein soleil
一九四〇年の初夏だったと、アルテュールは記憶している。
その年のパリは蜜蜂の群れに突っ込んだかのように慌ただしく不穏だった。ナチスドイツがパリに侵攻してくるという流言が街をかけめぐり、人々は混乱に陥った。
噂を笑い飛ばすもの、諦めてパリにとどまるもの、荷物をもって家族で逃げるもの、まるで聖書のエクソダスだ。六月の嵐、鳴り響く不吉の鐘。林檎の花が揺れる夜の森で、吸血鬼たちはくすくすと笑ってそれを見ていた。
「アリス様、パリに留まられるというお話はどうなさいましたか」
「留まりますよ、もちろん。けれど、馴染みの男が南へ逃げるというので、その無様な姿を見てやろうというのです」
からからと笑う、少女のような名前の吸血鬼は、木洩れ日ならぬ木洩れ月を長い髪でとらえて、全身に淡い光をまとっているように見えた。
「馴染みの男と言われますと、銀行の頭取とかいう……」
「ええ、あの男です。すがりつく踊り子を捨てて、妻と南部の実家へ向かうのだと言いますよ。ふふ、見飽きたような展開ですが、やはり神がどちらに微笑むかを見たいではありませんか」
より月に近い色をしたひややかな美貌の従者は、黙ってその吸血鬼に従った。というより、何か言ったところで聞く性格ではないと知っていたので、無駄なことはしなかった。
夜半になっても、蟻の群れが蠢くような人の移動は止まらない。
人で溢れすぎた列車は止まり、馬車が卵をいれすぎた籠のように傾いている。人々は荷物を抱えて、追放され、荒野をいくように重たい足どりで、パリから遠ざかろうとしていた。
歩いていくうちに、そこここで集団ができて、やがてひとつの群れとしてまとまりだす。初めは子を持つ母たちが、次に妻に呼ばれた夫が…やがて疲れながらも言葉を交わす人数が増えはじめ、夜の森がざわめくように音がうねる。
「アリス様、歩くおつもりですか」
「他に選択肢が? 飛ぶとか?」
わざとらしく手のひらの上で白い翼を踊らせ、アリスは笑った。美貌がゆえに疎まれたことすらあるアルテュールにとって、目立つことがよいとはとても思えなかったが、結局はもともと在り方が違ういきものである。黙って、長く美しい銀髪を紺の上衣に隠してあとについた。
ベル・エポックの名残のような衣裳を蝶のようにひらひらさせて、疲れきった顔の人々のなかを歩くアリスは、貼り絵のように景色から浮いて見えた。汚れひとつない赤すぐり色のジャケット、夢みるようなレースの襟と袖、甘い桃の輝きをおびたプラチナ・ブロンドは天使の羽根のように風になびく。通りすぎるそれを、人々が唖然と見上げるさまを、半ば呆れてアルテュールは見守っていた──まったく、隠す気など一切ないのだ! 何度も見せられてきた悪癖だが、この吸血鬼は嫉妬や羨望、義憤の視線を向けられることが特に好きで、嗜虐趣味なのか被虐趣味なのかわからない。
たくさんの婦人が、なけなしの生地から工夫を凝らしてこさえた帽子をつけているのを見て、アリスはアルテュールに耳打ちした。
「わたし、人間のああいう虚飾性が好きなのですよ。とっても美学的ではありませんか?」
その長い髪を、本物の真珠と絹の白椿が飾っているのを見ながら、アルテュールは頷いた。当世の女の服など興味はないが、アリスが好むものは覚えておこうと思った。その方が面倒がない。
子供をつれた女が、その子に砂糖を大切にしゃぶらせている。誰かが、なにか高価な持ち物と引き換えに、道端の家からチーズをひとかけもらってくる。まるで自分が生きていた頃のようだ、パリはだいぶ肥えたと思ったが、とアルテュールは荷馬車の影で腕を組んだ。夜目がきく吸血鬼の眼には、あたりの様子が絵画のようにはっきりと見える。もちろん、そのなかで、鱗粉のごとき光を散らして気ままに歩いているアリスのことも。古布でつくった帽子をつけた若い女に、話しかけているようだった。女は、突然話しかけてきた男の出で立ちに驚き、目が離せないようだった。
鬼火のようだ、と思った。燃える銅のように不吉なグリーン・アイ。かつて死の象徴だった色が気まぐれにとらえる人間たちは、きっと長くは生きられない。
アルテュールはそっと、髪で隠した左目の瞼をなぞった。彼のたぐいまれなる瞳の色も魔を宿す。美とは罪に近い。人形じみたかんばせは、夏には少しあわない立て襟の上衣で隠している。
そのとき、ふとアルテュールは顔をあげた。暗い夜空から音がする。化け物になってから、人間よりも感覚は鋭くなった。音はまだ遠いが、確実な異変に視線を人混みに走らせると、同じ音を聴いたらしいアリスと目が合う。相も変わらず、その白いかんばせは薔薇のように笑んでいた。
やがて、人の耳にも届くほどの大きさで、何かが響いてきた。雷鳴とは違う、連続した音だ。それは遠くから近づいてくる。それは羽音に似ている、
吸血鬼たちも知っている。先の大戦の新兵器、破滅の種子を蒔いていく急降下爆撃機。
誰かの悲鳴を皮切りに、あたりはパニックに陥った。その渦のなかで、アリスが哄笑する。
機銃掃射が始まり、悪夢が爆発した。人々が逃げ惑うのを見ながら、素早くアルテュールは荷物を横転した馬車の後ろに蹴り込む。直後、石畳が割れて地面が陥没した。舌打ちして、のんきな吸血鬼の姿を探す。百年前にはこんな装置は想像もつかなかった。ふと何かを蹴って、見下ろせば、古布で作った帽子をつけていた女の頭が砕かれて死体になっていた。道に血と脳漿が流れ出して、古い花柄を染め潰していた。
間近で馬車の母衣が燃え上がり、仕掛け花火のように無数の爆撃の花が頭上を埋めた。あたりが真昼のように明るくなる。アルテュールは、爆風で晒された宝石のようなオッドアイを細めた。吸血鬼にされてこの方、久しくこんな光量には出逢っていなかった。夜を裂く、幾千の光の束!
「見て、アルテュール!」
爆音のなか、耳に届いた声に振り向く。飛び散った、まっ白な真珠と火の粉の向こうで、夢のように美しいかんばせが笑んでいた。炎と血に照らされた紅椿のように。
「太陽がいっぱい!」
ひらり、と翼がはためいた気がした。一瞬後、アリスがアルテュールに抱きつく。百の翼を薔薇の形に広げて、その羽一本一本に思うさま光を受ける。
「こんなに明るいのですね──眼が焼けてしまいそう!」
「アリス様──」
熱風と血の匂いが吹き上げ、銀と金の髪が絡み合った。翼と光の色をした髪の輝きに、アルテュールは、かつて見た太陽を思い出す。
いいえ、本当の太陽というものは、もっと、もっと目映いのですよ──と伝えることは容易かったが、子供のように喜ぶアリスを前に、アルテュールは沈黙と微笑を選んだ。
不意に、そんなに嬉しいんですか、と、親しく声をかけてみたくなった。
「太陽はわれわれを殺すものなのに」
後半は口に出していたようで、アリスは至近距離でアルテュールの瞳を─彼が手元におきたがった瞳を─見つめて、猫のように緑の目を細めた。
「不可能を手にいれたいのです」
その不可能とは、太陽か。それとも死か。
アルテュールは黙って、偽の太陽のなかで、翼ごとアリスの背に手を回した。
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