果実的夜話
魔都の夜は、電気の妖精のナイトクラブのようだ。猥雑と夢、声と火花のダンス、高層住宅に囲まれた灰色の箱庭。
「
タオは、手を引いている相手に言い聞かせた。頬をふくらませた舒舒は、じっとりと黒い孔のような瞳で明後日の方向を睨んでいる。
「……何で
「いや、本当に酷いことはしないって! それは誓うよ! でも、あいつの治療はけっこう痛むから、……」苦しむところとか、そういうのを大事な人に見せたくないっていう気持ちってあるんだよとタオは頭を掻いた。実際に睿がそう頼んだかはさておいて、タオが舒舒を闇に紛れて街に連れ出したのは、そういう意図からだった。蜥蜴も、煩くなるかもしれねえな、と柄にもなく口にしたのは、そういうことだと思っている。
しかし、舒舒はいやいやと首を振って、ぱっとタオの手を振り払った。蒼白い顔で、幼児のようにふくれっつらをして、街灯の下から動かない。困ったタオの肺から、へにゃへにゃとため息が漏れてしまった。
舒舒が、血まみれの睿を運んでくる回数が増えてきている。
魔都は死に近い街だ。暴力と欲望、炎のごとく身を焼く魂たちの坩堝。屍をあやつる道士ならば尚更、常に際を歩いている。本来、不死を追い求めるはずの道士が、命を削り捨てては悲しい愛に追いすがる姿を、滑稽だと言うことは、タオにはできなかった。手を離し、その場に立ち止まったままの舒舒に、また優しく手をさしのべた。
「…俺のこと、信じてよ。ね?」
うん、と、舒舒はうなずいて、手を少し強く握った。
編んだ髪に赤と黄色のビーズをつけて、頭の両脇でお団子にした舒舒は、朱色のサマーセーターにクロップドパンツという服装もあってか、殊更おさなく見えた。蛍光色のパーカーのフードをかぶって僵尸の札を隠したタオも、まるきり青春を謳歌する大学生のようだ。ぶらぶらと歩く道すがら、適当に露店で見繕ったレモン色のバスケットシューズが、乾いた音をたてた。
色とりどりのものがぶら下がる露店の隙間を縫って歩いていくと、ある店先に下がった紙に書かれた、八字、の文字が目に留まった。占いの店だ。
ふと、舒舒がまた立ち止まった。ちょうどその店の真ん前で、タオも引っ張られて足を止める。
店のなかがまったく覗けないほど、無数の鳥籠が下がっている。竹や籐で組んだ素朴な装飾のなかで、黄緑や薄桃の小鳥たちが、夢のようにひっきりなしにさえずっていた。
「……欲しいの?」
店主に聞こえないよう小声で訊ねると、うんっと元気よく舒舒はうなずいた。タオはちょっと苦笑いする。さすがに小鳥を買って帰らせるわけにはいかない。
「睿さんが元気になったら、飼っていいか訊かなくちゃね」
「前にもここにきて、そのとき睿が
「え、じゃあ舒舒ちゃん今鳥飼ってるの?」
「
「絵面がアウト!」タオは顔をおおって絶叫した。
「睿もさすがに引いていた」
「そりゃあね!?」
妻への甘さが尋常ではない睿ですら引く暴挙である。籠のなかの小鳥たちのつぶらな瞳がタオのやわらかな心に刺さった。
「うーん、俺も僵尸だから、お腹減るのはわかるけど……鳥はやめておいたほうがいいんじゃないかな。ほら、鳥インフルエンザとかもあるし」
「ふぉひいんふふえんふぁ?」
「今なんて?」
振り返ったタオの目に飛び込んできたのは、道端の雀をぱっくりくわえた舒舒だった。
「ああっ一足遅かったっ!?」
「あうあう」
「今すぐぺってして! 雀さん可哀想だから!」
タオは必死に舒舒の肩をつかんで揺さぶり、やっとのことで雀を吐き出させることに成功した。幸い、牙を立てられる前に解放された雀は瞬きする間に露店の陰へ逃げ去っていった。
タオがほっと安堵に力を抜いたのもつかの間。かたり、と鳥声の帳の向こうで、なにかが鳴った。タオと舒舒はそちらへ視線をやる。店の奥は暗かったが、僵尸の目には、座布団に腰かけた人間の姿が映った。
年月が縮ませ、岩のようになった老婆が、皺の奥からじっとふたりを見つめていた。その手元には竹籠が伏せられ、そのなかには雀が数羽鳴いている。
「随分と顔色が悪くないかね、おふたりさん」
びくっとタオの肩が跳ねた。いつの間にかパーカーのフードが外れている。ぺろんと黄色い札が顔の前に垂れてこようとしたのを、光の速度でフードをかぶり直すことで回避、不自然なほど元気よく舒舒の肩をつかんで叫ぶ。
「そそそそんなことないですよぉ! ねっ舒舒ちゃん! そうだごはん食べに行こうか! 舒舒ちゃんは何が好き!?」
「お肉!」
「うんそれは多分何の肉か言っちゃいけないお肉だね! 今日はお魚にしようか!」
大声で叫びながら、占い師のテントから早足で遠ざかる。競歩並みの速度で人の隙間を縫うわざは神がかっており、ふたりの氷のようにつめたい皮膚も幸い誰にも接触しなかった。
「危なかった………」
路地裏に山と積まれた、段ボール箱の陰でタオはため息をついた。呼吸を必要としなくなって久しいが、今でも癖でこうして肺を使ってしまう。隣で舒舒はきょとんと首をかしげていた。
「ばれるところだった……というか、舒舒ちゃんいつも雀食べてるの? 生で?」
「ううん。でも可愛いものは美味しいから」
「初めて聞いたんだけどその理論!?」
「今思いついた」
「なるほど、さては舒舒ちゃん自由だな?」
「
「そっかぁ……。でもね、かわいいものを口に含みたくなるのはわかるけど、色々まずいからだめだよ。死ぬほど目立つし…いや、元から死んでるし死んでるから目立つんだけどね!?」
「あ、猫」
「猫も口にいれちゃだめーっ!」
舒舒の爪をあやうくすり抜け、闇に紛れた黒猫は段ボールの山の向こうへ消えた。名残惜しそうにその向こうを覗きこんだ舒舒が、しばらくそのまま何かに魅いっているので、タオも不思議になって肩越しに声をかける。「なにか面白いものでもあるの? 舒舒ちゃん」
「ん……」
生返事をして、視線は外さない。どれ、と背伸びをして覗きこむと、予想もしていなかった色彩が目に飛び込んできた。
地面に置かれた箱に、たくさんの果実がつまれている。種類もなにもかもばらばらで、葉っぱのついたままの
「……奇麗」
「すごいね、朝の市場用に仕入れたのかな」
圧倒されるような饗宴に、ふたりはしばし黙りこくった。白い肌に、淡く色彩が反射して、万華鏡のように光った。
そこに、不意に声がかかる。
「売りもんだよ」
ハッとタオが顔をあげると、山と積まれた箱の影で、だらりと猫のように子供が座り込んでいた。魔都にはよくいる、華奢な体に大きめのシャツを着た、十代前半らしい姿。暗がりと黒い髪が半ばひとつに溶けて、面差しはよく見えなかった。裸足の爪先で、一足だけのサンダルを揺らし、じっと箱の向こう側のふたりを見つめ返した。舒舒がなおも果物に夢中なのを見て、タオに視線を投げかける。
「あんた、その娘の
子供は投げやりなようでいて、どこか澄んだ声で訊ねた。タオはえっと声が漏れたが、確かにやりとりだけを聞けば兄妹のように見えるのかもしれない。
「……うん、そうだよ」
小さく肯定すると、子供はふうんと気のない返事をした。舒舒は果物に魅いられて、聞いていなかった。
「ここで何を?」
「店番」
タオの問いかけに答えて、子供はぽとりとサンダルを落とした。
「どうだ」
「え?」
「その娘に。ひとつ」
子供は、骨のように細い指で舒舒を指さす。タオは数秒迷って、「じゃあ、ひとつ…」と、パーカーのポケットから硬貨を取り出した。
昼の香港のそこかしこにたつ、洒落た
硬貨と果実が、そっと交換された。つめたい手と熱い手のもつものが、ただ無音で受け渡された。
「舒舒ちゃん」
肩を叩くと、そこで初めて舒舒は果物から目を離した。その顔の前に、そっと桃を差し出す。
「はい、これ」
僵尸の鋭い爪を立て、注意深くふたつに割る。しまった果肉は白く、未熟だった。
「喰べて
「うん」
断面から滴る果汁を、灰色がかった舌が、おそるおそるなめる。血を啜るのとは違う、甘くて酸っぱい光の味。ぱちぱちと瞬きする瞳には、感嘆の火花が散った。タオも、そっと端を齧ってみる。自分が死人であることを忘れがちだが、確かに常日頃から口にしていない生者の食べ物は、はっとするほど鮮やかな味がした。
舒舒はもどかしげにタオの袖を引いた。何かを伝えたくて言葉にできないらしく、唇を爪で何度もなぞった。胸郭が震え、不器用に喉が動く。
「哥哥」
え、と声が漏れる。
聞いていたのだろうか、あの子供の言ったことを。しかし、タオ以上に、その言葉を口にした舒舒の方が衝撃を受けていた。
「……あ、」
両の眼から、透明な泪があふれていた。タオは慌てて桃をポケットにいれ、パーカーの袖を引っぱってその頬をぬぐう。
「だ、大丈夫? ごめん、なにか、つらいこと思い出した?」
「………わからない」
何度も白い顔をぬぐった。これが果実ならば、青いまま摘まれたこの桃そのものだろう。月のような色をしたちいさな果実。齧られて泪をながす、欠けた月。
タオは少し逡巡してから、自分より高い位置にある舒舒の頭を、優しく胸元に抱き込んだ。
「俺でよければ、いつでも哥哥って呼んで。…つらいなら、けして呼ばなくていいから」
舒舒はタオの胸にすがり付いた。熱を持たぬ僵尸の躰は、触れあっても死のつめたさが拡散するばかりだ。
「哥哥。……哥哥」
胸元に滲みるつめたい泪は、身を切る屍の悲しみだ。明けぬ夜によく似た抱擁のなかで、舒舒は正体のわからない苦しみの名を呼んだ。
魔都の夜は、嘆きの亡霊の劇場のようだ。
屍の闇のなかにぽっかりと浮かぶ心は、月に似ている。魂のないふれあいは、けして火を生まぬ。どれほど眩く輝こうとも、凍える者をあたためることはできぬ。
永遠の、夜。
「哥哥、蓮をつくって。こないだ林檎でつくってくれたでしょ」
「やわらかい果物じゃむりですよ」
返しながら、睿は小刀を器用に操って、枇杷の尖ったほうを少し切り落とし、果肉をのぞかせる。くくった黒髪が揺れて、彼の背に抱きついた幼い娘の頬をくすぐった。くすくす笑う彼女に、睿は小刀をおいて振り返る。
「小紅、すこし離れて。桃むいてあげますから」
娘はむくれながら、やっと睿の背から離れる。睿は手を伸ばし、籠に盛られた果実のなかから、ひとつ桃を手に取る。
「これならまだ青いから…」
娘は、睿の向かいに座って、その細く研がれた指が、金のうぶ毛の光る桃の表面をすべり、果皮を薄く剥いていくのを眺める。小刀を操り、ちいさな曲芸のように開きかけの白い蓮を彫りあげていく。娘は感嘆の声をあげて手を叩いた。
花びらをフォークで切り取って、そっと舌にのせる。刃の使い方が巧いのか、舌触りは驚くほどなめらかで、娘はにこにこしながら頬をおさえた。
その向かいで、睿はそぎおとした残りの果肉を口に運びながら、慈しむように娘を見つめていた。
「哥哥は、果物ならなにが好き?」
「特にこれ、というものはありませんよ」
「つまんない。選んでよ」
睿はすこし考えたあと、果汁で淡く光る指先をかざし、うっすらと微笑んだ。
「……桃でしょうかね」
それを聞いた娘は、薄紅のかんばせで、綻ぶように笑った。
「わたしもよ。わたしも好き。哥哥、わたしね、哥哥とおなじものが好きよ」
「おや。じゃあ学業にももう少し身をいれて」
「や! すぐそういうこと云うんだもの」
ぷっくりふくらませた頬に桃を詰め込んで、娘はフォークを皿に置く。そのあと、不意に神妙な顔つきをして、じっと睿の顔を見つめた。
「哥哥。わたしが大人になっても、桃むいてくれる?」
幼い問いかけに、睿は思わず笑ってしまう。
「笑わないで!」
「ああ、すみませんね、…構いませんけど、
「わたしが桃を百個むけるようになっても、哥哥にやってほしいの!」
「……小紅は本当に子どもだこと」
また、子どもじゃない! と膨れるかと思いきや、娘は静かに立ち上がった。つま先立ちをして、睿の頬を挟み、自分のほうへ引き寄せる。睿がされるがままになると、娘は目を閉じ、互いの額をふれあわせた。子どもの熱い体温が甘く伝わって、ふたりの間でじんわりと広がった。
「子どもでもいいわ。
ずっと哥哥が傍にいてくれるなら」
睿は黙った。彼女の、幼いがゆえの、身を切るほどの真剣さを感じたからだった。
睿は目を閉じた。そして囁く、誓いを口にするように。
「……桃ですね。ええ、覚えていましょう。あなたが大人になるまで」
娘は額を離し、じっとその黒い眼で、睿の瞳をのぞきこんだ。鼻先のふれあう距離で囁く。永遠を確かめるように。
「約束よ」
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