鮮血オペラ小品集

しおり

絵と旅する男

「つまりは飢えだよね、精神の」

 雨澤ユーゼアは無言で、銃を磨いている。

 開店前のバーの片隅で、ふたりの人間が向かい合っている。黄昏はじめの紅が薄く射し込む店内で、片方は立ち、片方は座っている。華奢な体から硝煙の匂いが消えない、魔都のいきものたち。

 唐突に謎めいた台詞を発したのは、雨澤の作業をときおり観察しながらソファに腰かけているジナイーダ・チャンだった。からっぽの火酒の壜をソファの下に転がして、ジナイーダは本を逆さまにめくっていた。

「ボクは幼少のみぎり、まったく世の中を理解していなくてね。本というのは、聖書しかないものだと思っていた」

 ジナイーダは、安っぽいペーパーバックを床に放り投げた。ひしゃげた表紙のタイトルは、アメリカン・サイコ。雨澤はその文字列をちらりと見て、すぐに手元に視線を戻した。手早く、迷いのない、美しい仕草。マフィアに拾われてから身につけた生きるための動作だ。

「初めての殺しをしたあと、閉ざされた庭から逃げだした街角で、廃墟になった図書館を見つけた。そこで初めて、世界にはこれほどに本があるのだと知った」

 ジナイーダは雨澤の無反応など意に介さず喋り続ける。からっぽの壜を蹴飛ばし、今度は燃える銅のような緑の酒壜の首を切った。

「それからというもの、ボクは鴉片を吸ったマンダリンのごとく、活字の羅列に酔っぱらうことの中毒になってしまったのだよ。我が幼き無知は永遠に失われん! まあ、それでさ、この魔都でも本を漁るのが秘かなるボクの趣味だったんだよ。ホラ、益昌大厦の近くの古書店。あそこで先日、古い日本ヤポーニヤの本を拾ったんだよね。カビてたからもう棄てたけど。絵と旅する男の話」

「……すみません、静かにしてもらえますか」

 雨澤がぽつりと呟くと、ジナイーダは喉の奥で低く笑って壜をあおった。アプサントが火のように流れだし、細い咽喉を滑り落ちていく。銃を組み立てる音が響く。

「ある男が、恋人の書かれた絵をもって旅しているんだ。女は年若く麗しい花のかんばせ、男は老いて苦痛に満ちたかんばせの、その恋人たちの奇妙な物語を、その男が語るのさ。

 ……絵のなかの女に恋をして、最後には自分も絵のなかに入ってしまった愚かな男の話をね」

 雨澤は、ことり、とメンテナンスを終えた銃を一挺、テーブルの上に置く。流れるように、分解したままのもうひとつの拳銃に手を伸ばす。その指先がわずかに震えていた。

「棲む世界がちがう、女は絵だ。まぼろしだ。女は人でなく、歳を取らず、その愛が燃え尽きることはない。だが、男はどれだけその女の傍らにあろうとしたところで容赦なく時がその肉体を腐らせていく。

 あれほど恋い焦がれてついに手にいれたと思った最愛の女は、同じ時を生きることはできない。まあ、そんな話だったような、気が、する、よ……」

 アプサントの不吉なほどあざやかな緑のしずくが、火花のように、ジナイーダの舌に落ちた。

「……黙っていてください」

 先よりも低く、抑えた声で、雨澤は言う。ジナイーダは笑って、緑の酒壜を振った。中身はもうからっぽだ。蟒め、と雨澤は思う。この灰色の毛並みのハンターは、きっと前世は蛇だったのだろう。そんな眼をしている。

 拳銃を二挺とも組み立て終わり、機械的に弾をこめる。銃弾の感触も慣れたものだ。魔都の空気を吸って生きのびて、血にも、死にも親しんだ。

 ジナイーダは言われたとおり口を開かず、しかしじっと雨澤の片眼を見つめつづけていた。人間離れした、凍えるすみれの瞳で……蛇のような薄い唇に刷く笑みは、氷の鏡にうつる亡霊のようだった。

「………ボクは、こういう話が嫌いさ。

 なんたって、女が哀れだろう。

 人でないのに人に愛されるだなんて、不幸だよ」

「……そんなこと」

 無数に並ぶ酒壜が、先より幾分紫がかった黄昏を反射して、俯く雨澤の頬をすみれ色に燃やす。垂れた黒髪で、その目許はよく見えない。

 弾を込めた拳銃を両手で握りしめ、雨澤はジナイーダに背を向けた。壁の方を見つめて、立ち尽くしている。

 店の壁には、ガラスケースを加工した額縁のなかで、プリザーブド・フラワーが咲いている。赤赤と燃えるような、大輪の牡丹の花だ。とうに朽ちたはずの乾いた花びらを、時の針で縫い止めている。

 雨澤は、指を組んで、銃を持ったままの両手を額につけた。祈るときと、偲ぶときと同じように。そのかんばせを、踏まれる花のように歪めながら。

「そんなこと、ありません」

 暗がりで絞り出した声が濡れていたのを、紫の眼をした蛇だけが聞いていた。

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