35歳。
美術館での打ち合わせを終え家路を急ぐ。今日はどうしても早くチカちゃんに聞かせたい話があるのだ。
「ただいま」
部屋は心地良く冷えており、うだるような街の熱気を纏って帰った私を優しく出迎えてくれた。
「お〜、おかえり」
仕事が休みだったチカちゃんは夕食を準備して待っていてくれた。
「夏はやっぱりソーメンだよね〜」
ここ何年も同じセリフを聞いている。チカちゃんはわざわざ日本から取り寄せる程素麺が好きなのだ。自作の麺つゆとザルに盛られた素麺。箸休めの小鉢をいくつか並べたチカちゃんは、よっこいしょと私の向かいの椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
麺と小鉢を忙しく往復するチカちゃんの箸を見つめ、私はなんだか泣きそうになった。
食後、私は改めてチカちゃんに「話がある」と告げた。
「永住権を獲得したの」
ニューヨークに移り住んでから何度か個展を開催し、有名な賞ももらった。雑誌にも載り、「ニューヨークが誇る若手画家」として持て囃されるようになったことが要因らしい。
「私、もう日本には帰らない」
日本は好きだ。生まれ育った国だし、何より両親もいる。しかし、私にとって生きやすいのはアメリカの方だった。
「そっかぁ。おめでとう」
チカちゃんが微笑む。本心からの笑みかどうか判断がつかない。
「チカちゃんは…いつか日本に帰りたい?」
チカちゃんをこちらに呼んでから、いつか聞かなければと思いつつ聞けない質問だった。しばらく沈黙が続いたあと、チカちゃんはゆっくり口を開いた。
「私は…私も…日本には帰らない」
鳥肌が立った。チカちゃんはこれからも側にいてくれる。この二人の生活を続けていける。
「ねぇ、結婚しない?」
言うべき時が来たと思った。カミングアウトしたのは4年前。モデルとアトリエでキスしているのを見られたので、仕方なく告げたのだ。『私の恋愛対象は女性なのだ』と。
チカちゃんは黙ってそれを聞き、そうだったんだ、と呟いた。それ以来そのことについては話題に出されなかった。家を出て行かなかったところをみると嫌悪感はないらしい。そう好意的に解釈して、これまで通りの生活を続けてきたのだ。
チカちゃんはこちらへ来た頃とは違い、体型も元通りになり食事だってちゃんととれるようになった。仕事もずっと同じところに勤めており至って順調。
つまり私を頼らずに、一人でも問題なくニューヨークに住める状態になったのだ。だから。だからこそ、ここで確認をしておきたかった。
『私はチカちゃんが好きで、これからも一緒にいたい。チカちゃんはどう?』
返事がない。当然だ。チカちゃんは学生の頃彼氏がいた。永住権のためとはいえ同じ女性である私と結婚なんてもちろん抵抗があるだろう。結婚だなんてそんな目で見られたくなかった、と私を避けるかもしれない。
でも。
でももしもチカちゃんが私を受け入れてくれるなら。
長い沈黙の後、チカちゃんが顔を上げてお互いを見つめ合った。感情の読めない静かな瞳。
「ホントはね、もっと早く言うべきだった」
チカちゃんが何を言い出すのかわからない。いつになく淡々とした口調で続ける。
「ここに住んでもう10年程になるね」
チカちゃんがアイスティーを口に運び、小さく息を漏らす。
「右も左もわからない外国の暮らしで、私のことを理解して守ってくれる人が側にいてくれたのは本当にありがたかったし嬉しかった」
動悸が激しくなる。あまりいい話ではなさそうな気配がする。
「こちらの暮らしに慣れて、そろそろ一人暮らしをしてみようかと思った頃だった。アレを見てしまったのは」
モデルの彼女との逢瀬のことに違いない。
「後頭部を…こう、ガーンと殴られた気がした」
ふふ、と笑いながら何かを振り下ろす仕草をする。
「そのあと『女性が好きだ』って改めて聞いて…すごくショックだった。知らない人みたいに感じた」
またアイスティーを口にする。もしかしたらチカちゃんも緊張しているのかもしれない。
「で、そのあと、何をしていても『女の人が好きなんだ』っていうのが頭から離れなくって。
…でもね、それと同時に『私は恋愛対象にはならなかったんだ』って思って」
グラスを持つチカちゃんの指が落ち着きなく動く。私は相槌すら打つことなくじっとチカちゃんの言葉に耳を傾けていた。
「それがね、なんだかすごく…悲しかった。一緒の方向を向いてるって勝手に思ってたのに、あんたは別の人の方を見てたんだって。それでわかったんだ。私はあんたを愛してるんだって」
チカちゃんが真っ直ぐ私の目を見る。これって…そういうこと?
「初めは友情だったと思う。それから一緒に住み始めて家族みたいな親愛の情に変わって、あの事があってからは…恋愛対象として見てたよ」
夢じゃないだろうか。チカちゃんが、チカちゃんが私を好きになってくれてただなんて。
「だから返事は、うん。結婚しよう」
チカちゃんがニヤっと笑う。
翌月、私たちは結婚した。
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