30歳。
絵の収入だけで生活ができるようになってそろそろ2年が経つ。アトリエを出るとすっかり辺りは暗くなっていた。そのまま隣のアパートに入る。3階の奥に私の部屋はある。
「ただいま」
誰もいない暗い部屋はすっかり冷えきっている。電気を点け暖房を入れ、そのままキッチンでコーヒーを準備し始める。
暖まった窓が曇ってすっかり白くなった頃、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。
「ただいま〜」
鼻の頭を赤くしたチカちゃんが急いで入ってきた。
「おかえり。コーヒー丁度できたところだよ」
「わ〜。ありがとう!」
チカちゃんがマグカップを受け取って微笑んだ。カップをふっくらと赤い頬に寄せ、ニヤっと笑う。
「あったかい〜」
「さっき帰ったとこだから部屋そんなに暖まってないかも。ごめんね」
「いーのいーの。コーヒーがあるだけで十分」
チカちゃんがようやくコーヒーを口に含んだ。私はその笑顔を見て、日本でチカちゃんに再会した時のことを思い出していた。
一緒に住もうと言った数ヶ月後、チカちゃんはニューヨークにやって来た。休職していた職場を辞め、病院で治療をし、ようやく長時間飛行機に乗れるまで回復したのだった。
とは言ってもチカちゃんはまだまだか細く、健康とは言い難い状態だった。私はニューヨークでチカちゃんのしたいようにさせた。どこかへ行きたいと言われれば一緒に出かけ、家でゆっくりとしたいと言われれば側にいて身の回りの世話に勤しんだ。
やがてチカちゃんはかつての柔らかな体を取り戻した。環境をガラッと変えたのが良かったのかもしれない。幸いチカちゃんも英語には不自由しなかったので、ニューヨークの生活は合ったようだ。
チカちゃんは今、ニューヨークの日本人向け小学校で事務員として働いている。毎日遅くまで残業しているが、日本で働いていた頃より楽しく元気そうに見える。
チカちゃんは子どもが望めない体になっていた。生きていくのがギリギリな程痩せていた頃、当然ながら生理は止まっていたそうだ。それからなんとか体は回復したが、一度崩れたホルモンバランスは持ち直すことがなく、残念ながら子どもを産むことを諦めざるを得なくなってしまった。子どもが好きなチカちゃんにとってそれは非常に残酷な宣告だったが、子どもたちに囲まれる仕事に就いたことでようやく最近気持ちに折り合いを付けられるようになってきたようだ。
仕事が終わると必ず二人で夕食をとる。初めは、食べることができないチカちゃんに食事の楽しさを思い出してもらうため時間を合わせることにしたのだが、今じゃすっかりそれが習慣となっていた。
「やっぱり冬はお鍋だよね〜」
アジア食材を扱う店で購入したポン酢と白菜代わりの大量のキャベツ。チカちゃんが手際よく準備した鍋を二人でつつく。湯気で煙った部屋で鍋の中の具材がグラグラ泳いでいた。どうしてもデリが多くなってしまう夕食だが、冬の間はこうして鍋料理にしてしまうことが多かった。食事の準備は二人でするが、圧倒的にチカちゃんの方が慣れている。
二人の部屋の二人の食卓。
チカちゃんはあれ以来男性とのお付き合いを避けていた。
『結婚も子どもも諦めた』そんなことを言うようになったのは2年程前からだった。
「チカちゃん、実はこないだの絵、入賞したんだ」
〆の雑炊を平らげ、食後のほうじ茶をすすりながら何気なく伝えた。あるコンテストに出した絵がグランプリを取ったと数時間前に連絡があったのだ。
「ホントに!?すごいやん!おめでとう!あ〜、もっと早く言ってくれたらケーキ買って帰ったのに!!」
我が事のように喜ぶチカちゃんを見て、私は
20年ほど前の出会った頃のチカちゃんを思い出していた。そう、チカちゃんは元々こんな風に喜怒哀楽を思い切り表に出して、友達のことでも親身になって喜んだり励ましてくれる子だった。
チカちゃんはこのニューヨークで、本来の自分を取り戻しつつあった。
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