23歳。
日本を離れ3年が経とうとしていた。パリからロンドン、ブリュッセルを経て、ようやくニューヨークに落ち着いたところだ。
大学は結局あれから1年も経たずに辞めてしまった。今は絵を描きながら美術館のミュージアムショップでアルバイトをしている。刺激の多い街で絵描きの仲間たちに囲まれて充実した日々を送っていた。
はじめ、チカちゃんとはマメに連絡を取り合っていた。日本にいる時よりも多いくらいだったがチカちゃんが資格の勉強を始めた辺りから返事がだんだん返ってこなくなり、1年半程前からついに連絡が途絶えてしまった。
そんなある日、アルバイトからの帰り道で携帯にメールが届いた。光るディスプレイには久しぶりに見るチカちゃんの名前。
『久しぶり。元気?』
何気ない挨拶から始まったそのメールは、穏やかなものではなかった。
チカちゃんは大学で教員免許を取り、無事に公立高校の英語教師として就職もできたらしい。憧れの教師としての一歩を踏み出したチカちゃん。大学3年生の時にできた同い年の彼氏も無事就職が決まり、順風満帆な生活が始まったはずだった。
しかしチカちゃんが勤める高校は素行の良くない生徒も多く、年の近いチカちゃんは『新任いじめ』の的になってしまったらしい。授業中は誰も話を聞いてくれず、もちろんテストの点も悪い。受け持つクラスがみんなそんな状態だったせいで他の教師からも叱責され、ついには父兄からも名指しで「辞めさせろ」という声が上がったそうだ。
それでもチカちゃんは諦めず、生徒たちに興味を持ってもらえるように授業を工夫したり、他の教師にも教えを乞うて頑張っていたのだったが、ついにある日ベッドから起きられなくなってしまった。そしてそのまま休職するに至ったのだという。
支えてくれるはずの彼氏はというと、就職先の同期の女の子と仲良くなりあっという間に相手を妊娠させ、チカちゃんには『悪いな』の一言を残し去っていったのだという。
メールの最後にはチカちゃんの心の叫びが記されていた。
『もう限界』
メールを読み終えると目の前が真っ暗になった。耳鳴りがする。自分が自分じゃなくなったようで体が動かない。アパートへ帰る途中のバス停で、私は声もなく泣いた。
チカちゃんが辛い時に側に居てあげられないことが悲しく、そして罪悪感を感じた。
チカちゃんに返事を送りたかったが、指が動かなかった。こんな目にあったチカちゃんに、遠く離れた所にいる私が何を言えるのだろうか。だがチカちゃんには笑顔でいてもらいたかった。日本を離れる前に見たあの笑顔。子どもの頃と同じように笑っていて欲しかった。
私はメールの返事を書く代わりに、インターネットで日本行きの航空券を買った。
アルバイト先に事情を話し慌てて日本に帰ると、実家への挨拶もそこそこにチカちゃんの家へ向かった。チカちゃんは就職と同時に実家を離れアパート暮らしをしていた。
こじんまりとしたアパートの一室のインターホンを鳴らす。突然来たがチカちゃんはいるだろうか。私の心配をよそに、ドアの向こうで誰かが動く気配がした。
「はい」
小さいが確かにチカちゃんの声だった。
「チカちゃん。突然来てごめんね。今会えるかな」
私が全てを言い切る前にドアが荒々しく開き、何かが私の体にぶつかった。
「チカちゃん?」
栗色のポニーテールの女性。とっさに受け止めたその人を、私はチカちゃんだとは思いたくなかった。
折れそうに細い首。骨が浮き出て皺だらけの頬。半袖でもおかしくない季節には不似合いな分厚いニットから出る筋張った指先。
「来てくれたんだ…」
だがその人から発せられたか弱い声は、チカちゃんのものだった。
チカちゃんのアパートは6畳のワンルームで、綺麗に片付いていた。むしろ物が少なすぎて生活感が感じられなかった。
「チカちゃん…」
どうしちゃったの。大丈夫?
いろんな言葉が頭に浮かんだが、声には出せなかった。何があったのか、今チカちゃんがどういう状況に置かれているのかはすべて理解していたからだ。
「久しぶりだね」
結局そう言うしかなかった。
「そうだね」
チカちゃんが笑う。だがその笑顔は私の記憶にあるものとは程遠い、儚げなものだった。私はチカちゃんになんと言えばいいのだろう。あんなに長い時間飛行機に乗ってきたのに、結局チカちゃんを前にすると考えてきた言葉がすっかり何処かへ行ってしまった。
お互いに何も言えないまま、目の前の紅茶が冷めていく。
私は意を決して言った。
「チカちゃん、一緒に暮らそう」
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