20歳。

私は美術大学の二年生になっていた。

ゴールデンウィークも終わり、いよいよ本格的に授業が始まりだした頃、担任教授の研究室に呼ばれた。長身痩躯で長い白髪。いつも一つに束ねられたそれと、口の周りの同じく長く白い髭との印象で「仙人」とあだ名されている教授だ。


「君、この大学向いとらんのじゃないか」

前置きなく発せられた言葉に鼓動が早くなる。

「課題も成績も申し分ない。だが、熱意が感じられん」

そう。私が美大を選んだのは『そこそこ絵がうまかったから』。勉強もそれなりにできたので他の大学を目指しても良かったのだが、受験勉強するより絵を描いている方が楽しかったのだ。楽しいだけの行為だから、私の絵には伝えたいメッセージや強烈なインパクトがない。それを正面から指摘されてしまった。


「退学した方がいいんでしょうか」

「いやいや、別にそんなことを言いたかったんじゃないんだ。ただ、熱意がないのなら続けていくのは難しいんじゃないかと心配になってな」

「確かにそうですね。描きたいものを描くというより、描けるものしか描いていない気がします」

あっさりと言う私に教授は面食らったらしい。

「そうか、自覚していたのか」

「先生、私はどうすればいいのでしょうか」

教授は少しの間沈黙し、コーヒーを一口すすった。

「このままこの大学で理論や技術を学びながら『自分の描きたいもの』を探すのもいい。ただ…思い切った変化が欲しいなら、留学を考えてみるのはどうかな」

留学。それまで考えたこともなかったが、その言葉を反芻するにつれ私にはそれしかないと決心が固まった。


チカちゃんと会ったのはその翌日のことだった。同じ沿線の女子大に通うチカちゃんとは、お互いの最寄り駅の中間で会うことが多かった。流行りのカフェの窓際の席に、チカちゃんはいた。

「ごめん、待たせたね」

文庫本を読んでいたチカちゃんの正面の席に座る。

「ううん。私もさっき来たとこ」

本をトートバッグにしまいながら笑顔で言うチカちゃん。白いブラウスに赤いスカート。肩にかかったパステルピンクのカーディガンには栗色の髪が軽く弾んでいる。ナチュラルメイクも上手くなり、すっかり『都会の女子大生』となったチカちゃんからは、もう方言を聞くことはなくなった。


このカフェ、ディナーメニューもすごく美味しいんだよ、と言うチカちゃんはなんだかとても嬉しそうに見えた。

「チカちゃん、私留学することに決めたんだ」

食後のコーヒーが運ばれてきたのと同時に、いよいよ本題を切り出した。

「留学」

「そう」

チカちゃんは長い時間黙って動かなかった。やがてコーヒーカップに口をつけ一息つくと、ようやくチカちゃんが口を開いた。

「それは短期で?1年くらいとか?」

「わからない。全然決めてない」

「決めてないって…」

「大学はとりあえず休学する。もしかしたら自主退学するかも。行ってみないとわからないなぁ」

呑気な口調の私とは対照的に、チカちゃんは動揺しているようだ。

「なんで急に?」

「先生とも話したんだけど、色々なものを見て学んだ方がいいと思って」

『このままだとやりたいことが見付からないから』とは言わなかった。チカちゃんは私が美大へ進むことには反対だったのだ。

結局この日はほとんど話も弾まないまま別れた。


それから半年間、チカちゃんとはロクに話もしないまま月日だけが流れていった。

パリへ発つ前日、チカちゃんから連絡があった。少しだけ話がしたいのだという。半年前気まずいまま別れたあのカフェに行くと、チカちゃんは前と同じ席で私を待っていた。

「ごめん、待たせたね」

以前と同じようにチカちゃんの向かいの席に座る。

私の前に紅茶が運ばれてくるのを待ってチカちゃんは話し始めた。

「ちゃんと話できなくってごめん。なかなか気持ちの整理がつかなくって」

「こっちこそ、突然留学決めちゃって…ビックリしたよね」

「当たり前やん!」

懐かしいチカちゃんのイントネーション。

「ごめん。でも相談して欲しかったなって。私はこのままずっと近くにいるつもりだったから…。なんか片想いしててフラれた気分になっちゃった」

「なにそれ」

顔を見合わせてお互いに笑い声をあげた。

「メールだって電話だって、いくらでも連絡の取りようはあるもんね。だから大丈夫」

自分に言い聞かせるように言うチカちゃん。

「そうだよ。友達なのには変わりないんだから。落ち着いたら遊びに来てよ」


よかった。チカちゃんが笑ってくれた。


そうして私は日本を離れた。

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