俺は亜熱帯で話したい。 みっかめ/Ⅲ

 それは、俺が夢で見たような水中うみだった。


 目にも鮮やかな黄色の尾ひれをばたつかせる熱帯魚。

 胸ビレをしなやかに動かすマンタはまるで空飛ぶ白鳥のよう。

 小魚の群体が銀色の竜巻を起こしたかと思えば、悠々と遊泳するジンベエザメがどわっとこちらに寄ってくる。やはり生のジンベエザメは迫力がある。こんなものが同じ惑星で暮らしているとは思えないほどだ。

 ひたすらな青の中で、様々な種類の魚たちが重力を無視して飛ぶさまは、ほんとうに、不思議で、美しかった。

 とはいえ、身の丈の数倍ある水槽をずっと見上げるには首の筋力が足らずに、ふと視線を下ろすと、まるで青に憑りつかれたように、じっと上を見つめる城崎の姿が映る。

 そんな彼女の表情をじっくりと見てみたい気持ちがしたが、今目が合うと話すべきことが話せなくなってしまうと思い、俺は壁に寄りかかって、底の方を這うウツボなんかを見て緊張を紛らわす。

 本当に、俺のことを言ってしまっていいのだろうか。薄っぺらい内容だけど、それで一層嫌われたりしないだろうか、迷惑に思われないだろうか。

 そんな逡巡が心に去来する。心臓が苦しい。やっぱり心は頭ではなく心臓にあるんだな。

 ……でも、もう、諦めるのは、飽きたよ。

 だから、俺は、


「……俺はさ、プロ野球選手になりたかったんだ」


 城崎は視線をこちらに寄越すと、


「急に何よ」


「ごめん、邪魔だった?」


「……ま、続けなさいよ」


 城崎はすぐに答えてくれた。

 俺はありがとう、と感謝を述べて、言葉を続ける。


「俺はプロ野球選手になりたかったんだ。三浦でも佐々木でもイチローでもいい。とにかく野球選手になりたかった。

 だから、小二でクラブに入ってから、死に物狂いで野球してた。でも、まぁ、よくある話なんだけどさ、小五の頃、会ったんだ。名前はもう忘れちゃったけど、同じセカンドだった。一言でいえば、天才ってやつだった。

 俺って多分だけど、変に上を見過ぎなんだ。完璧主義って言うのかしんないけど、そいつのグラブさばき見た瞬間に、俺は一回死んだんだ。もう無理だって、俺なんかが頑張っててもどうしようもないんだって」


 どうしても届かない、あの白線の向こうの景色。

 

 城崎は、相づちもせず、じっと黙って俺の話を聞いてくれていた。


「それでもなんだかんだ野球を続けてた。中学に入ったころにはプロ野球選手なんて口にも出さなかった。惰性だろうな。変わるのも、選ぶのも面倒くさがって、俺は適当に過ごしてた。

 でも俺の中学校は結構監督が熱心な人で、他の部員も結構感化されてて、みんな一生懸命やってた。俺一人だけが、グラウンドを歩いてた。

 それでも、小学校の頃の頑張りが残っててさ、俺はレギュラーで試合に出れたんだ。二年の夏、退任が決まった監督と先輩にとって最後の大会だった。

 県大会の準決勝、相手は市立南中学校。強豪校だった」


 強豪、そんなのはチームメイトらにとって飾りでしかなかった。いくら三連覇中の中学校だからといって、彼らは自分の頑張りが誰にも負けるわけがないという自信で満ち溢れていた。

 忘れもしない、あの夏の日。


「みんなやる気に満ちていた。だから俺も久しぶりに気合いが入ってた。

 でもさ、そんな上手くいくわけがなかった。

 たしかにエラーは無かったし、無様な三振も無かった。

 だけど、違うんだ。

 飛び込めば捕れたはずの球がいくつもあった。

 振り切れば飛んだはずの球がいくつもあった。

 でも、身体が動かなかった。怠けた心が動くことを許さなかった。

 負けた。

 サヨナラだった。

 白いボールが、俺の真横をすり抜けてったよ。

 みんな顔を土で黒くして泣いてた。

 観客も大きな拍手をくれた。

 だから、恥ずかしかった。俺のユニフォームだけが白かったから」


 あの夏の日、打てたはずのボールが、何度も何度も夢に出てきた。

 でもどの夢でも、俺が打つことは無かった。


「それで俺は野球をやめたんだ。

 俺の夢だけじゃない、俺のせいで、他の人の夢まで奪ったから。

 元々自分に自信がない人間だったけど、あの夏の日から、俺は卑屈になったんだ」


 これが、俺のすべて。

 俺の甘えと、怠惰が詰まった、空っぽの人生。同情のしようがない、最低で最悪の俺の歴史だ。


 隣から、大きなため息が聞こえた。

 俺は怖くて、城崎を見ることは、出来なかった。

 観光客の歓声を遠くに聞いて、俺は、隣の少女の声を待った。

 何秒待ったのか、何分待ったのかなんて分からなかった。

 目の前を泳ぐジンベエザメが水槽を三周ほどしたところで、ようやく彼女の声を聞けた。


「……そう、だったのね。これじゃあ友達にはなれないわ」


 城崎は淡々と、事務的に言った。

 

「わたし、勘違いしてたみたい」


 どういうことだよ。なんで友達になれないんだよ。頭が、混乱する。


「……なにを?」


「あなたはもっと、」


 言葉が、不自然なところで途切れる。

 まるで、その言葉の続きを拒絶するように。

 それでも彼女は言った。淡々と、残念そうに、


「――もっと、悪い人かと思ってた」


「どういうこと?」


「…………」


 悪人ではなかった? 俺はそんなに悪い奴に見えてたのか? どういう意味なんだよ、城崎。

 なぁ、黙ってないで答えてくれよ。

 俺は耐えきれずに彼女の方へ振り替える。

 彼女は、顔を俯けて、拳をぎゅっと握りしめていた。

 そこにいつもの強気な城崎真理はいなかった。


「なぁ、どうしたんだよ城崎。俺が悪かったか? 俺の話がそんなにつまらなかったのか?」


「…………」


 城崎真理はなにも答えてくれない。

 俯いたまま、動かない。

 否、それは違う。

 震えていた。

 城崎真理の小さな身体は、震えていた。


「なぁ、どうしたんだよ城崎……調子が悪いんならスタッフに声を――」


 俺がスタッフを呼ぼうと城崎真理から目を離した瞬間だった。


「……今まで、ごめんなさい」


 彼女はそう言い残して、俺の脇を走り去ってしまった。

 まるで、あの時、俺のすぐそばをすり抜けた白球のようだった。


「待っ――」


 呼び止めようとした。

 大勢の他人が、ひそひそと騒ぎ立てて、好奇の目を向けているのが分かった。勿論、俺に向けて。

 声が出なかった。

 あぁ、あの日と一緒だ。

 変われていると思っていたのに。

 俺はあの日のまま、見て見ぬ振りをしていただけなのか。

 俺は……俺は……。


 あと何回、夏を過ごせばいいんだ。

 夏休みが明けるまで、城崎と会うことは無かった。

 

 

 

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