俺は試験勉強が出来ない!

 試験勉強? そんなものはどぶに捨ててしまえ!

 そんな根拠不明、用途不明の意志を初学期からもつ同志は少ない。だてに進学校を気取ってないというわけだ。


 というわけで、俺はかつかつとペンが走る音が響く教室を逃げ出し、部室を尋ねたのだが――。


 かつかつ。


「……」


「…………」


 かつかつかつ。


 二人の少女はテキストとノートを広げ、熱心にペンと意志疎通を試みていた。

 ただでさえ日差しが出てきて蒸し暑くなってきたというのに、摩擦で余計に加熱してどうするのだろうか。答えはクーラーなんだけど。

 ウチ、多分職員室より充実してるよ。


「先輩、ここの数式はどうやって解くんですか?」


「う~んとね、あら、ここの文字入れ違って書いてるわよ」


 どうやらこの学校に安息の地は無かったようだ。

 俺自体勉強をする気はないけど、かといって他人の邪魔をしようなどとは思わない。というか思ってはいけない。

 なので大人しく俺は退室しようと振り向いた――ところで、案の定と言うべきか、背後から声がかかった。


「あら、ハヤトくん。一緒に勉強する?」


 お姉ちゃん先輩が大地母神のごとき柔和な微笑みで提案してきた。相変わらずの包容力だけど、既に胸に抱かれたノートとの同衾は御免だ。


「すいません、遠慮しときます。今更勉強しても遅いですし」


 今日は土日を挟んでテスト三日前にあたる。それに俺は熱心に勉強するタイプでもなく、どちらかといえば落ちこぼれといってもいいほどの学力だ。入学時の模試の一桁順位はどこへやら、この前の模試は三百位中二百位と大魔神佐々木もびっくりの落差フォークだった。ちょっとネタが古いかな……。

 だから常識的に考えて、今から勉強するにはあまりに遅すぎるのだ、と、そういうことになっている。

逃げとかそういうことは言わない約束でしょ?


「あなた、自撮り云々の前に留年とか洒落にならないわよ」


 ペン先をこちらに向けて言う城崎。勉強モードなのか、黒ぶち眼鏡を装備していた。知的さが増して魅力的で、いつも会うたびに跳ねる心臓もその飛距離を伸ばしていた。


「赤点回避できるくらいにはするよ。別に推薦を狙ってるわけじゃないし、『2』も『5』も変わらないだろ」


 そんな俺の言い草に、彼女は大きくため息をついた。幸せが逃げるようなものではなく、俺に不幸が襲ってきそうなものだった。


「はぁ……少しはやってやろうとかいう向上心はないのかしら。せっかく最近見直し始めてたのに」


「え」


 意外であった。

 特にこれといったことはしていないはずだったんだけど……。

 惜しい気持ちになった。


「そうね~、確かにハヤト君には成功体験というものが必要かもしれないねぇ」


「成功体験ですか」


「そう。ハヤト君がどうしてそんなに卑屈になってしまったのか、っていうのはまだ分からないけど、自己肯定には成功体験が必須だと思うの」


 成功体験か……たしかに言われてみれば俺にそういうものは無かったような気がする。

 せめていえば……小学校の頃テストで満点をとったとき、同級生に「お前ヘキサゴン(クイズ番組)出れるよ!」と言われたことくらいだ。もはや黄ばんでいる記憶、前後の記憶はないけれど、何故かそれだけは印象に残っていた。

 ちなみに受験に成功したとかそういうことは俺の中じゃ成功体験ではない。過程が空っぽだからだ。


「でも正直成功体験を得よう! っていう意識って難しいですよ。現に今困ってますし」


「そうねぇ、それなら良い点とったらご褒美っていうのはどうかしら」


「ご褒美、ですか。土地とか」


「土地ねぇ……それはちょっと難しいけど――」


 ”ちょっと”なんだ……少し鳥肌がたった。

 むむ、と考え込むお姉ちゃん先輩。しばらくすると頭上に豆電球がともった。


「もしハヤト君が真理ちゃんの点数を超えたら、夏休みに二人でデートする、っていうのはどうかしらっ!」


 これぞ名案、というようにお姉ちゃん先輩は胸を張って言った。二つのお山がたゆんと揺れたことは言うまでもない。

 これにもちろん城崎は露骨に嫌な顔をした――かと思われた。


「いいですよ、別に。あり得ない話ですから」


 城崎は数字と睨めっこしながら、あっさりと勝負をのんだ。

 特に彼女の言い方に反感を覚えることは無かった。だってその通りだし。

 ……やっぱり怒れるくらいのプライドは持つべきなのだろうか。


「なにをー! なめやがってー!」


「見事な大根ね。煮物にすれば美味しいんじゃない?」


 駄目だった。


「で、ハヤト君はどう? 乗ってみない?」


 二人でデート、か。

 確かにこいつと距離を縮めるには絶好の機会になるだろう。

 断る理由はない――。

 いや、そうではない。

 俺は、俺は、


「俺は城崎とデートがしたいです」


「ま、当然のことよね」


 思わず口走ってしまった台詞を、すました顔で受け止める城崎であったが、その頬は微かに朱に染まっていた。

彼女の握っていたペンは今や空中で高速回転している。

 こういう分かりやすいところが可愛いんだよな。


ペンの落ちた音を合図に、先輩は嬉しそうに手を合わせて、


「じゃ決まりね! ハヤト君、真理ちゃんは中学の頃からの秀才よ? 頑張ってね!」


「もちろん、俺の青春がかかってますから」


「いったいどういう風の吹き回しよ……いつも消極的な癖に」


 城崎は未だ熱の冷めやらぬ……といった様子で胸元にうちわを仰いでいる。少しエロチックだ。


「もう七月も中旬だ、俺らはなんだかんだでもう一年の四分の一もいっしょにいたことになる。そりゃあ少しくらい好意もったておかしくはないだろう」


 もちろん、これは俺の一側面でしかない。すくなくとも俺はまだお姉ちゃん先輩――白浜乃々と二人で外出しようだなんて言い出せない。

 きっと気を使われてしまうだろう。こんな俺にこれ以上気を使わせたくはない。

 でも城崎は違う。

 こいつは俺に気なんて使わない。それが分かった今だからこそ、もっと親しくなりたいと思える。

 それはなんだか自然なことに思えた。


「告白なのかしら。だったらお断りよ」


「まだ告白じゃねぇよ。だから勝手に振らないでくれ。ちょっと辛くなる」


「……そ。まぁいいわ。私が負けるなんてあり得ないのだし」


 その自信は……きっと模試の結果表からくるのであろう。

 この前見せてもらった順位は見事校内一位。全国順位もそれはもう恐ろしいもので、俺と城崎の間に島根県が入りそうなくらいだった。


「まぁ見てろって。久しぶりに燃えてるんだから」


 俺は燃えていた。そして腕は泥をかぶっていた。”試験勉強”をどぶから拾ってきたからだ。

 その時、ふと思い出した。


 ヘキサゴンって言われた時、俺、ポケモンのソフトをねだってたんだった。

 

 

 

 




 



 

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