俺はひとりじゃない。


 暮れかかった太陽は、窓から部室に茜を差す。いつのまにか部室に置いてあった電子ケトルとティーセット一式――おそらく城崎のものだろう――を中央の机に広げ、三人でゆったりとした時間を過ごしていた。

 なんだか今日は長かったなーなんて。


「いいわねぇ~お紅茶は」


「心が休まりますよね」


「お前に休まる心があるなんてな」


「わたしを何だと思ってるのよ」


 少々紅茶で棘の丸くなった城崎。紅茶飲ませ続ければデレデレ城崎になったりしてな。アハハ。


「ねぇねぇハヤトくん」


 マイナスイオンでも出てそうな大きな垂れ目が俺を見る。


「なんです先輩」


「そういえば今日はどこの部活に誘われたの?」


「チア部です。綺麗な太ももしてるからって」


「えぇ⁉ ほんと! すごいわ~」


 目をキラキラさせて俺の太ももを凝視する先輩。

 本当に人を疑うということをしないひとだ。


「……見ます?」


「見たいみたい!」


「そうですか、それでは――」


「公然わいせつで通報するわよ」


 スマホで110をダイヤルしているあたり本気である。

 ワイドショーフラグまだ生きてたのかよ。


「冗談だって。先輩すみません。俺チア部に誘われたんじゃないんですよ」


「あら、ざんねんね~。じゃあどこなの?」


 興味深そうに俺の顔を覗きこむ先輩。スイーツ店のような甘い匂いが鼻腔をくすぐった。


「野外活動サークルです」


「あら、素敵ね~!」


「どうせ野球部でしょ? なに野外活動サークルって、そんな部ないわよ」


「いーやあるね。山梨あたりの高校でゆるーいキャンプしてるね」


「……? ま、いいけど」


 城崎は会話に興味を失ったように、文庫本をそっと開き――


「っておいなんで俺が野球部に誘われたって知ってんだよ」


 俺が文字世界への没入を防ぐように呼び止める。

 何度か誘われてはいたが、誰にも口外していないはずだった。


「あら、本当に野球部だったのね~。かっこいいねぇ」


 先輩がほわっとした空気を撒いた。しかし俺の疑問がそれで解消するわけではなく。


「あ、ありがとうございます。で、何で知ってんだお前は」


 若干真面目な顔をして(そのつもりで)俺は問い詰めた。


「別に何でもいいでしょう」


 しかし城崎は適当に流した。


「お前を俺のストーカーとして公認するけど」


「好きにしなさいよ。こんな美少女にストーカーされるなんて嬉しいじゃないの」


 彼女は恥ずかしげも無くそう言い放つ。


「嬉しくなくもないな」


 事実であった。


「もしかしてハヤトくん野球できるの?」


「まぁ、中学校で野球部だったんで」


「きゃーかっこいいー! ここの野球部結構強いって聞くよ? 先輩じきじきにスカウトだなんてすごいじゃない!」


 それは事実だ。毎年三回戦まで進出するような強豪だ。しかも今年は甲子園を狙えるレベルだとも聞く。

 ならなおさら俺が入れるわけがない。


「みんな買い被りすぎなんですよ。俺はそんなうまくないし、入っても迷惑かけるだけですから……」


 また脳内を埋め尽くさんと、あの夏の光景が――。


「――ほんとどうしようもないわね、あなた。いい加減その卑屈も不快よ」


 頭上で灼熱に燃える太陽を、絶対零度の光線彼女の言葉が切り裂いた。


 俺を睨みつける瞳の中には、静かに燃える炎があった。

 一瞬にして、部室の空気が張り詰める。

 明らかに、城崎は怒っていた。

 声を荒げるでもなく激しく怒りの炎を燃やすでもなく、もう耐えきれないと、彼女は涙するように怒っていた。


もそう、あなたは手を伸ばそうとしなかった。あと少しではずのものに……なぜ、あなたは届かないフリをするの?」


 ……入学式の自撮りの件か。


「みじめに自分をおとしめて」


 やめろ。


「他人の期待に応えようともせず」


 やめろ。


「ひたすら諦め続けて」


 やめてくれ。


「――何を得られると言うの」


 彼女の言葉は、冷たかった。

 冷たくて、冷え切って、耐えられずに、ぴきりと、自分の中で何かがひび割れたような気がした。

 具体的には分からない。けれどそれはひどく陳腐チープで、それでいて生来離せずにいるおもちゃのようなものだった。


「お前みたいな完璧超人には分からねえよ。お前には見えないだろうがな、分かるんだよ。自分の限界ってやつが、どうしても届かない一線ってやつが!」


 白線の向こう側、手を伸ばしてもとどかないその先の光景。


「試したこともないくせに」


 城崎はバカにするように言い放った。


「てめぇ……!」


 ウイルスに対する免疫反応のように、反射的な怒りが俺を支配するのが分かった。

 

「自分を蔑むことに一生懸命なんておかしいわね。そんな自分可愛がりしたきゃ家にこもってしてなさいよ」


「全部知った気になってんのもいい加減にしろよ。そうやって高いとこから散々言うのは楽しそうでなによりだな。そりゃ人も寄ってこないはずだ!」


 言ってはいけないことを、言ってしまった気がした。

 しかし、理性は既に壊れてしまっていた。


「――何がひとり好きだよ。お前、ひとりにしかなれないんだろ」


 ――まっすぐに俺を見つめる紅玉ルビーの瞳が、欠け落ちた。

 つーっと、白い頬に軌跡を描く一条の流星なみだ


 またひとつ、大切になるはずだったかんけいが、ぷつりと切れてしまったのだと、熱の冷めた心で感じた。


 また、何もない人間が、何も生まない人間ゼロが、他人を傷つけてしまった。

 もはや俺の存在はマイナスにしかならないのだ。

 いったい、俺はなんのために生きているのだろうか。そんなことさえ曖昧になって。


「……ごめん」


 俯いて謝ることしか出来なかった。あまりにも自分が情けなくて、俺は拳を握り込んで、自分の太ももをぶん殴った。

 痛い。でもきっと、彼女の方が痛いに決まっている。

 もう二度と座ることのない椅子から立ち上がって、俺は部室から逃げ出す。

 俺はこうして、また後悔を重ねて――


「――ちょっと待って」


 その声は船から下ろされたいかりのように、俺の足を止めた。


 その時、俺は思い出す。

 この空間には、三人いるのだと。

 俺と、城崎と。


 そう、



「こんな別れ方、乃々お姉ちゃんが許しませんっ!」



 究極のゆるふわシリアスブレイカーが頬を膨らませて、ぷんすか蒸気を上げていた。

 

 


 


 

 

 

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