考察する話


 大人は信用ならない。


 これは、僕が今まで送ってきた人生の中で感じてきた世の真実。そのなかでも、一番自信があるというか、一般的なものだ。

 他はと言えば先生が「せーの」と言ったら誰でも思わず復唱してしまうとか、顧問の先生に「今から着替えろ」と言われると男子はどこでも着替えてしまうとか、正直話のネタにもならんようなもんばっかである。


 なぜ僕は大人を信用しないのか? その答えは僕の幼少期の経験にある。


 例えばの話だが、教卓の前で教師が「怒らないから、やった人は名乗り出なさい」と言ったとしよう。

 誰が名乗り出る?

 話を聞いていない訳じゃない。自責の念に駆られ、名乗り出るどころじゃない、なんて訳がない。


 怒られたくないからだ。あんな言葉は嘘だ。意地汚い教師どもは目をぎらつかせて、撒いた餌に食いついた間抜けをつかまえる。


 ちなみに、至極どうでもいいことだし今となっては全く気にしてないが、その、僕が名乗り出た時は、しばらく立てなくなるほどこてんぱんにされた。実際に殴られたわけじゃないけど、あれは効いた。いや気にしてないけど。




 ……話を戻すとして。

 他にもある。

 大人はよくお世辞を言う。つまり嘘をついている。

 子供を褒める時の言葉だって、本気で言ってるとは思えない。

 子供が描く絵よりも大人が描いた絵の方がずっと綺麗で美しいはずなのに、どうして大人はあんなにも褒めるのだろう?

 わからない。わからないから、信用できない。

 わからないといえば。大人はよく「腹を割って話そう」なんて言いますが、本当に本心をさらけ出しているのですか?

 僕はそこが気になる。

「クリーンな付き合いを」なんて言う人揃いも揃って腹の中は真っ黒だ。

 嘘はくないはずなのに、嘘が少ない僕らの会話を軽んじる。そのうえ大人の会話は嘘だらけだ。



 大人は信用できない。

 でも、それは大人だけなのか?


 僕らだって嘘は吐くし、煽るし、ケンカもする。お互いちょっぴり怪我すりゃ仲直りするけど、ケンカの間は世界で一番軽蔑してる。


 僕らは単純だから、違いというのがモロにでる。

 例えば僕が蕎麦だとして、相手がネギなら仲良くなるけど、納豆だったら多分仲良くなれない。だけど、ネギと納豆は仲良くできる。食い合わせの問題だ。

 僕らは「合う合わない」がハッキリしてるから、嘘は少ない。でもそれは素直なだけで、「良い奴」だとは限らないのだ。


 僕の親友はとても面白いやつだけど、みんなからはあんまり好かれてない。他の友達も、親友との付き合いをよく変だという。


 大人の間ではそういうことは少ない、と思う。大人たちは大抵誰とでも関係を持てるからだ。しかし、その分自分に嘘を吐いている。

 大人になっても子供のように自分に素直な人は、周りの人から嫌われる。

 逆に、他人に合わせるのがうまいやつは、僕らの間では敬遠される。なんだか人を相手にしている気がしないのだ。


 大人と僕らでは歓迎される性格が違う。

 だから僕は大人たちを信用ならないと考えているし、大人たちは僕らをガキだと侮る。


 結局、信用できるものは、同じ世代のものだけらしい。


 そんな話を我が家の愛犬チョビにしたら、鼻で笑われてしまった。「人間の考えることなんてつまらん」ということらしい。


 僕は嬉しくなって、チョビの腹に顔をうずめたのだった。

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