働く話

 あるところにある男がおりました。その男は人間でありながらも良心を忘れず、道徳を重んじる、それはそれは素晴らしい人間でありました。


 その男はある企業に務めておりました。その企業は『お客様』のことを第一に考え、お客様の喜びを自らの喜びとするそれはそれは謙虚な企業でありました。


 その男はよい環境に恵まれた恩返しをしていかなければならないと思いました。そうして一生けんめいに働きました。


 その男の上司は、こんなに働く部下を持てて幸せだと思いました。上司はその男を気にかけ、いつもすれ違えば挨拶をしておりました。


 ある日のこと、その男の住む近くで災害がありました。あまり大きなものではありませんでしたが、しかし彼らの大事な大事な『お客様』の笑顔を損なうものでした。


 その男は、このままではいけないと思い、いつもに増して働きました。上司も同僚も大変そうにしていたので、彼らばかりに負担をかけていられないと思ったからです。


 街が立ち直って、『お客様』の笑顔が戻ってきたころ、男は倒れました。運ばれた病院で、おそらく過労が原因だろうと言われました。


 真っ白の壁に囲まれて、真っ白のベッドに横たわって、男は夢を見ました。自分に天使と悪魔が語り掛けてくる夢です。


 夢の中で天使は言いました。

「貴方が今こうして休めているのは、貴方の同僚や上司が貴方の隙間を埋めてくれているから。それを忘れてはなりません」

 男はそのとおりだと納得しましたが、ここで男に声をかけるものがありました。悪魔です。

「おい、お前が今こんなザマなのは、あいつらがお前に仕事を押し付けたからだぜ。それに奴らは仕事もせずに、お前のデスクに職務を山積みにしてるにきまってらァ」

 悪魔はそう言いました。悪魔の話すことは、甘い誘惑でしたが、男はそれを天使と一緒に打ち破り、迷いを断ち切りました。彼は医師の制止をものともせずに、すぐに仕事に復帰しました。


 帰った彼を迎えたのは、同僚たちの温かい笑顔と、上司からの労いの言葉と、それから少しの仕事でした。彼はいつも通りの日常に戻ってきたのがうれしくて、そして笑顔をくれた優しい仲間たちに迷惑をかけてしまったのが申し訳なくて、いっそう励みました。


 彼が戻ってしばらくした頃、いつものように彼が書類を抱えて階段を下っていると、彼の膝の裏にぶつかるものがありました。彼はバランスを失って階段を転がり落ちました。意識を失う寸前に見たものは、同僚の驚いた顔と、それから自分と一緒に転がり落ちる同僚の財布でした。


 彼は病院で目を覚ましました。医者が言うところによると、足の骨が折れてしまい、しばらくは絶対安静とのことです。男は途方に暮れてしまいました。会社に行かなければ仕事は出来ません。うんうんと悩んでいるうちに、男は眠ってしまいました。


 眠っている男に、話しかける者がいました。天使です。天使は前に見た時よりもますます輝きをもって、男に語り掛けました。

「いいですか、足が折れたからといって、何もできなくなったわけではありません。貴方には仲間がいます。彼らのことを想えば、きっと為すべきことが見つかります」

 天使の言葉は偉大で、男の心に染み渡るようなものでした。彼はすっかり希望を取り戻して、改めて何をするべきか考えました。


 しかし、そんな彼をまたしても邪魔するものが現れました。悪魔です。前よりも薄汚れて、みすぼらしくなった悪魔は、弱々しい声で叫びました。

「なあ、ふざけるんじゃねえよ。お前はもう限界なんだぜ。ろくに歩けもしない身体で、何が出来るって言うんだ、この阿呆」

 悪魔の渾身の一撃は、天使の言葉を受けた男には届きませんでした。彼は皆の為に、企画を考えることにしました。


 それからというもの、男は夢中で作業をしていました。時にはあまりに没頭しすぎて、睡眠や食事を忘れてしまう程でした。彼のベッドの傍には、企画を書き連ねたノートが積み重なっていきました。彼のそばには天使がいて、彼が挫けそうになっても、すぐに天使が励ましてくれるので、手が止まることはありませんでした。時折悪魔が目の前に現れて何かを囁いていましたが、彼の耳には何も聞こえませんでした。


 ある日、男は気付くと眠っていました。これではいけないと身を起こそうとしましたが、身体は一向に動きません。それどころか、隣にいたはずの天使の姿すら見えないので、彼は不安を覚えました。

 うんともすんとも言わない身体としばらく格闘していると、ふいに悪魔が現れました。その姿は、もはやボロ雑巾のようで、今すぐにでも消えてしまいそうなほど弱々しいものでしたが、それの言葉は底から響くような絶望を纏っていました。

「おしまいだ。お前はもうおしまいだ。俺は言った。お前は聞かなかった。俺は待った。お前は応えなかった。だからもう終わりだ」

 悪魔はそういうと、突然と男の身体を起こしました。起き上がった彼が見たものは、今まさに自らの喉に突き刺さろうとしている、昨日まで使っていたペンでした。










 これはそんな話です。莫迦な男が働きすぎて身体を壊し、誰も見舞いに来ないのに働き続け、最後にはおかしくなって死ぬ、そんなありふれた創作話です。


 ここから得られる教訓もありふれたものです。良心が身を滅ぼすこともあるとか、そんなんです。なんの面白みもないです。






 ですが、この登場人物の、天使と悪魔が存在しなかったとしたら? これらは全て男の妄想に過ぎなかったとしたら?










 いったい、彼の本心はどこにあったのでしょうか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る