訊く話




 暗くなった校舎にひとつ、明かりがある。その明かりのついた、校舎の中では一際大きい部屋──つまりは職員室である──の中に、若い女が一人。その手許てもとにはファイルがあり、そこには出席簿のようにクラブの名前が記されており、日付ごとに印が付けられていた。

 つまりはまあ、この女教師はこの日の日直であり、活動終了報告を受けたクラブの欄に印をつけているのである。


 「失礼します」と、挨拶と共に男子生徒が入る。制服を着崩さず、乱れてもいないところに生真面目さとある種の頑固さが見て取れる。


「あら、工藤君。活動終了報告ですか?」

「ええ、はい」

 工藤と呼ばれた生徒が教師に本日の活動が終了したことを報告し、教師はそれを受けて今日の日付の欄に印をつけた。

「先生、それではさようなら」

 そういって男子生徒が教師に背を向ける。しかし、そこで教師が呼び止めた。

「あ、ちょっと工藤君。こっちまで来て貰えますか」

「はあ、なんでしょう」

「いや、ちょっとした相談なんですけどね、ほら、うちのクラスでは日番の人に日誌を書いてもらうじゃないですか。それで、今日の日番は海原うみはら君だったんですよ」

「確かに、彼が日誌を書いてたのを見ましたね。でも、それが何か? 提出されてなかったとかですか?」

「ああ、そういう訳じゃないんですよ。至って普通の日誌でしたが、なんというかその……」

「…………?」

「────ときに工藤君、確かあなたは国語科目、特に現代国語の成績が優秀でしたね?」

「はあ、まあそうですが……?」

「ちょっと解いてもらいたい国語の問題がありまして。海原君が日誌に書いていたことなのだけれどね? 海原君、駅で目が不自由な人を見かけたらしくて。助けてあげたんだけど、その人去り際にお礼を言ったらしいの。でも、その時のこと、海原君『嬉しかったが、同時に申し訳なくもあった』って言ってるのよ。で、嬉しかった、ってのはわかります。でも、申し訳ない、っていうところがわからなくって。それで、工藤君にこの時の海原君の気持ちを読み解いてもらおうと」

「そういうのは本人にお訊きください」

「まあまあ。訊く前にも手順ってのがあるじゃない。私は見当もつかないの。お願いできる?」

「………………」

「もちろん、これは私事わたくしごとなので、下校時刻については責任を持ちます。なんならこの学校に一晩泊まっても誰にも文句言わせないわよ?」

「…………まあ、はい。わかりました」

「ありがとう! じゃあ、早速聞かせてもらえる?」

「……といっても、話は単純でしょう。人間、不完全な仕事に感謝されると、罪悪感を覚えるものです。その類なのでは?」

「いいえ、それは違います。海原君、自分がしたことに不満を持っているようなことは書いていなかった。もし不満があったのなら、きっと書いているでしょう?書いていなかったってことは、自分がした事に後悔はしていなかったことの証よ」

「いや、細かいですね……」

「ごめんなさい。理詰めで考えるのが癖になっちゃってるの」

「…………ならば、逆でしょう」

「え? 逆?」

「はい、逆です。先生の理屈でいくと海原は自分に不備があったから申し訳なさを感じたわけではありません」

「それはそうね、さっき私が言った事ですし」

「じゃあ、その反対なんです。海原は自分に過失があったからそう感じたのではなくて、むしろ自分に過失がなかったから申し訳なさを感じたんです」

「ちょっと待って、どういうこと? 見ず知らずの人を上手く助けられたなら、それは胸を張れることでしょう」

「はい。普通はそうですが、海原の場合は違ったのでしょう」

「ねえ、解るように説明してもらえる?」

「……先生は、生まれつき手足などがない人を見て、かわいそうだと思ったことはありますか? そうでなくとも、出来の悪い生徒にものを教えたら過剰なまでに感謝されてばつが悪くなった経験は? 多くの人間は、平均より少し程度が低いものに対しては嫌悪感を持ちますが、その一方で、平均から著しく外れて出来が悪いものに対しては罪悪感を持つ傾向にあるそうです」

「………………ああ、なるほど!」

「はい。海原は目が不自由な人が電車を利用するのを助けたはいいが、その人に感謝されて、面食らったのでしょう。そこで、その人と自らの間にある生活水準の差を感じ取ってしまい、罪悪感を覚えたのかと」

「そういうことだったのね……──ありがとう、工藤君」

「いえ、これくらいは。それでは先生、さようなら」

 男子生徒は踵を返し、職員室を出ていく。残された女教師は机に肘をつき掌に顎を乗せ、項垂れるように言った。

「過失があったからじゃなくて、過失がなかったからこそ罪悪感があったのかー」

 


 ひとしきりくつろいだ後、さて、と立ち上がる。消灯、施錠。最後の明かりはこうして消えた。

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