お月見する話

「月って綺麗よね」

 その一言を聞いた瞬間、俺は咳き込んでしまった。

「なんですか、藪から棒に。というか、先輩ってそんなにロマンチストでしたっけ」

「いまどき誰がこんな告白すんのよ。そもそも今、月なんて見えてないじゃない」

 先輩は透き通るような声で不機嫌そうに答えた。じゃあ、なんだって今この状況でこんな話を振ってくるのだろう。

「……先輩、今俺は何をしているでしょうか?」

 なので、直接訊くことにした。

「レポートやってる。期限は一週間以内ってとこ?」

「明後日までです。じゃあ、先輩は今何をされてるんです?」

 特に詰まることなく、さも当然かのように先輩はさらりと言った。

「卒論やってる」

 俺は黙った。後は察しろ、と目で訴える。……先輩は自分の卒論の方に顔を向けているので意味はない。沈黙が俺の肩にのしかかる。が、唐突に始まった沈黙は同じく唐突な先輩の欠伸で終了した。そのまま先輩は軽く伸びをして、俺の方に振り返った。整った顔が俺の目に映る。

「ねえ、今何時?」

 右ポケットに入った時計を見る。午後九時。そろそろ帰りたくなる時間である。丁度レポートにも区切りがついたところだ。

「九時です。先輩今日バイトあるって話してませんでした?」

「いつの話よ、それ。今日はないわ」

 先輩は集中を切らしたのか、回転椅子を回して身体をこちらに向けた。本格的に雑談するつもりらしい。だが生憎俺はもう帰るところだ。リュックを持って先輩に伝える。

「先輩、俺はもう出ますんで、鍵閉めといてくださいね」

 さあ帰ろうと歩き出した途端、リュックが引っ張られた。半歩下がって振り返ると、先輩がリュックの持ち手を持ってこちらを睨んでいる。

 ……目付きが悪すぎる。俺は堪らず目を逸らす。先輩のこの容姿にもかかわらず、知り合いからはあまり人気がないのはこういう所のせいだと思っている。

「……ちょっと、人が話そうとしてるとこに逃げようとしないでよ」

 冷や汗が凍るのではと錯覚するほどの空気が漂う。この人を怒らせるといつ帰れるかわかったもんじゃない。とにかく煙に巻いてとっとと帰りたい。

「すいません、気づかなかったもんで。ところで、先輩卒論大丈夫なんですか? 今のうちにまとめとかないと明日教授に訊くとこ訊けないですよ」

 それじゃ俺帰るんで、と研究室を出ようとしたら、先輩が先程とは打って変わって突然明るい声で、

「ホントに帰るつもり? 外、雨だけど」

なんて言った。言いやがった。おかげで俺の足は止まった。

「やっぱり、雨嫌いなんだ。雨降ってたらいっつも何かしら空に向かって悪態ついてるもんね」

 足の止まった俺に先輩が言う。……心なしか、ニヤニヤしている気がする。

「……いえ、大丈夫ですよ。折り畳み傘持ってますんで。では」

 遊ばれたのがちょっと悔しいので早口にそういって研究室を出る。と、今度は襟を掴まれた。先輩の声が聞こえる。

「呆れた。あんた、鈍いってよく言われない?」

「空気の読めない奴だな、くらいなら」

「ああ、間違いないわ。それ」

 先輩ははあ、と息を吐いた。そしてどうやら俺の襟をさらにひっぱったらしい。上手く踏ん張りのきかない俺は、そのまま後ろ歩きで研究室に連れ戻された。


 後ろ向きに投げられるように離され、どん、と音を立てて椅子に座る。その音に先輩はその綺麗な顔をしかめさせた。理不尽である。というか何の用なんだ。

 黙ったままの俺に、先輩はいきなりこう言った。

「ねえ、雨宿りにお月見でもしない?」

 俺は本気で先輩の言っていることが理解できなかった。唖然を通り越して怪訝な顔をしている後輩には目もくれず、先輩は湯を沸かし始めた。紅茶でも淹れるつもりか。

 珈琲の香りが俺の鼻に届くようになって、ようやく俺は声を発した。

「……今日満月じゃないっすよ」

 そうじゃないんだよなあ、と自分に呆れていると、先輩はさっきまで使っていたパソコンをこちらに向けた。──驚いたことに、デスクトップはたしかに満月だった。

「ふふふ、びっくりした?」

 先輩は得意げにそう言った。匂いにつられ珈琲が飲みたくなっていた俺は適当な返事をして立ち上がった。


 月は動きはしないもののその得体の知れないものをまだ残していた。二人で珈琲をすすりながらパソコンの画面をただ見続けているその光景は、はたから見ればどれほど奇妙に映るだろうか。


 先輩の方を盗み見る。珍しく珈琲を飲んでいるだけあって、すこし眠そうにしていた。黙っていればいい女なのにと、そんな話をしていた友人を思い出した。



 ふと時計を見た。九時四十分である。

 こんなに時間が経っているとは思わなかった。もう雨は止んだだろうか。ちょっと見てこようか、と思って席を立つと、ふたたび珈琲を淹れていた先輩が目の前にいた。

「トイレ?」

 先輩は俺を一瞥いちべつして、ひとことだけ言った。俺の手ぶらなのを見て、帰る訳では無いと考えたのだろう。

「ちょっと外まで」

「ふうん、行ってらっしゃい」

「……え?」

 俺は少し、いやかなり驚いた。その容姿から普段刺すような雰囲気を放っている先輩が、今この瞬間は、思わず見蕩れてしまうほどに穏和な空気を纏っていたからである。

「……行かないの?」

 ぽかんとしていると、先輩が不思議そうな顔をして訊いた。その声に、その顔にいつもの先輩を感じ取った俺はなんとか立ち直り、

「いや、なんでもありません」

と言って歩き出すことができた。


 階段を降り、正面玄関に向かう。研究室にはすりガラスしかないので、空を見るには下に降りる必要がある。

 ドアを開ける。

 ……雨は、降っていなかった。空気は乾き、下も濡れておらず、完璧な晴れだった。帰ろうと荷物を取りに戻る。


 俺は雨が嫌いである。濡れるとか、湿るとか、そういうのではなく、もっとこう根本的な、火に水をかけると消える、というくらい原始的なところで俺は雨を嫌っているのだ。

 そんな雨が降っているとなると、触れるのも嫌なので傘を差したいのだが、わざわざ雨なんざのために傘を差さねばならないというのものも癪である。となると雨宿りがいちばん合理的のはずだが、しかしこれも同じ理由でやりたくない。



 研究室に戻り、珈琲を飲んでいるのに眠っていた先輩に毛布を掛け、自分の棚から備蓄のカップラーメンと割り箸を一膳取り出し、それを先輩の机に置いて研究室を出た。




 つまりは、無理なのだ。どうしようもない。自分より強いものへは、嫉妬こそすれど拒絶なんてできないのだ。こちらが折れるしかない。お互いが拮抗する場合は妥協の先に答えがあるのだろうが、こういう場合は妥協も何もあったものではない。



 時計を見る。午後十時前。ラーメンでも食べたくなる時間である。そういえば、今日で備蓄のラーメンもなくなってしまったので、買っておかねばならない。ここから一番近いコンビニへは徒歩で十分ほど。帰った後の事を考えつつ、降っていたかいなかったかわからない雨を罵倒しつつも、ひとまずコンビニに向かうことにした。

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