猫を抱く話

 沢山の足音に、度々響くクラクション。そこかしこに流れる歌と、四方八方から聴こえてくる人の声に、私は辟易していた。かつて中国の人が用いたという戦術に人海戦術というものがあるけれど、ここは文字通り人の海だ。つまり泳ぎが下手な私にとって、非常に難儀する場所なのだ。


 四面楚歌の海を往く。うっかり潰されないように慎重に、でも急ぎ足で。さっき、ちらっと見えた時計は11時辺りを示していた。よほどのことがない限り遅れないはずだけど、あの人のことだからきっともう落ち合い場所にいるんだろう。

 でも、一体何だってあの人は私をあんなところに呼び出したんだろう。私はこういう人混みが大の苦手だっていうのに。ああ、なんか急にイライラしてきた。すっぽかしてやろうか。あの人も少しは懲りるかもしれない。私がいないと仕事にならないくせに、態度ばっかり偉そうなのだ、あの人は。


 ふと思い立って大通りから外れると、人が一気に減った。というより居なくなった。少し遠回りだけど、こっちの方が私にとってはありがたい。ちょっと余裕ができたと思っていたら、すぐ次の十字路で、私の目の前を黒猫──正直灰色である──が横切ろうとした。

 私は急いで大通りの方へ向いて、横切ろうとしたその猫を捕まえて抱き上げてやった。その拍子に首輪についていた鈴が鳴った。嫌がる猫を腕で抑え込んで歩く。

 黒猫が前を横切ると不幸なことが起こるという。灰色の猫がどうなのか知らないけどたぶんちょっと不幸なことが起こるのだろう。私はこういうのは信じるタイプなのだ。


 がりがりと爪を立てて抗議する腕のなかの猫とひそかに格闘しながら歩いていると、あの男が見えた。まだ待ち合わせの一時間前だというのに、既に落ち着きのない様子で腕時計を何度も見ている。と思ったら、すぐにこちらに気が付いたようで、じっとこちらを見ている。

 会話できる距離になったとき、目の前の男は開口一番に、

「遅い。一時間前には連絡をしたぞ」

なんて言い始めた。というかこいつ、私のこの腕に抱かれてる猫が気にならんのか。私はふつふつと沸き上がる怒りを抑えて、

「それで、『ワタシ好みの案件』ってなんですか? 死体なんて見えませんけど」

と訊いた。その言葉にこの少し髪の長い男はなにかを刺激されたのか、腹の立つ笑いを顔に浮かべた。正直気持ち悪い。

「お前、殺人事件の犯人探しとか好きだろう」

「そうですね。……別に殺人犯に限りませんが?」

「だろ? そこでモノ捜しが好きなお前に、ぴったりな案件を持ってきた」

 男は悦びを隠そうともしない。この様子ではきっと周りの人からは嫌われているんだろう、と私は思った。

「で、どんな依頼なんですか? 誰かが行方不明になったとか」

「それだな。猫が行方不明になった。特徴は……」

 そう言いつつ男は持っていた封筒から白い紙を取り出し、そこに書いてあったらしいものを読み上げた。

「えー、毛は薄い黒のような色で、左前脚の付け根にホクロあり、青い首輪に鈴をつけています……」

「……聞けば聞くほど、ワタシが今抱っこしてるこの猫にそっくりですね?」

「……」

「…………」

 二人して沈黙する。しかし私は一人納得していた。なるほど、「ちょっと不幸なこと」というのはこういうことだったのか。男の方はというと、封筒から出したのだろうか写真とこの猫を交互に見比べていた。

「……当たりだな。そいつを貸せ、ケージに入れるぞ」

 そう言い、あからさまに落胆した顔になった。……この野郎。単なる嫌がらせのつもりで呼びだしたのか。私も、『ワタシ』も、せっかくの休日だったというのに。

「では、ワタシはもう帰りますね。今日用事あるので。では」

 猫をケージに入れ、踵を返す。

「あ、おい!」

 男が呼び止める。でも無視した。この男に会うのは初めてだけど、二度と会いたくない相手だ。普段からこいつと会っている『ワタシ』の心の平穏を祈った。

「さて、依頼完了! ……のはずだったんだけどなぁ」

 今日の依頼はこれ一つだったのに、おかげで急がなくてはならない。私はあの人に会うために、駅の方に歩き始めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る