第45話 雲、空を走る

本当は、担任であった子供達が卒業するのを見届けてから辞めたかったが、出産を考えると不可能だった。

産休を取り、育休がほぼ無い状態で復帰すれば卒業式で生徒達を見送ることは可能だったが、担任として十分な責任は果たせないだろうと思案していたところに、三年生からの担任は外すと学校側から告げられた。

環は、妊娠しているからとは告げず、退職させて欲しいと願い出た。

同僚からは、高久のことがやはりショックだろうと、気持ちもわかると励まされた。

驚いたことに、紫が環の後任として担任に名乗りを上げたのだ。さっさと寿退社だわなんて浮かれていたのにである。

全く受験に関係のない音楽教師であり、それまで担任の経験がない紫に受験生を任せられるのかと学校側も、父兄からも不安の声があがったのだが、白鳥、そして学園長が説得したらしい。

環からの引き継ぎの資料を読み込み、紫は不慣れながらも見事に担任をこなした。

環にとっては、感謝の気持ちでいっぱいだし、何より紫が頼もしかった。

相談がある、と何度か連絡を貰ったが、その度に彼女の成長には目を見張るものがあったし、「環先生、私、もしかしたらなんですけど、教師向いてるかもしれない・・・」とまで紫が自分で言ったのだ。

なんでもすんなり出来るというのではなく、努力を惜しまず続ける、それが出来る仕事に出会えたということがもう幸運だし、才能である。

それから。アキラ、本名三条昭和氏。

ある男の子との縁で、海天堂病院で、夫婦で毎週月曜日にボランティアでヘアカットに行くようになったとブログに書いてあった。小児科の入院病棟で子供達にしっちゃかめっちゃかにされながらバリカンとはさみを持つ姿はなんだか頼もしかった。

子供用のウィッグを作るためのヘアドネーションも始めたらしく、協力お願いしますと妻の藤子がにこにこ微笑んでいる動画が載っていた。

 

 環は新たな職場である母校から急いで保育園へと向かった。

たまたま母校の養護教諭の募集が出ていて問い合わせをしてみたら、離婚したことや、新生児がいる事を、半分同情、半分興味でシスターの教職員達が親身になってくれたのだ。

そして、なんとか職を得た。

生後八ヶ月息子の八朔を受け取った後、横抱きにして、慌ただしく駐車場へと向かった。

妹の円から、新年度の激務で急遽夜勤になったと恨言満載の連絡が来ていたのだ。

なので、妹の職場にある託児所にも寄ることになっていた。

三歳と五歳の姪のお迎えに行く。母親である妹はそのまま夜勤だ。

おしゃまで弁が立ち、女の子とはこんなに大人なのかと感じる。

「さー、はっちゃん。お姉ちゃんたちをお迎えに行こうねー」

車に乗り込むと、八朔をワンボックスカーの助手席のチャイルドシートに乗せた。

「あ、見て見て。河原の桜満開ね。日曜日、皆でお花見行こうか?唐揚げと、おにぎり持って」

八朔が、同意するかのように、にやりと笑った。

環は、車の窓を少しだけ開けた。

春先の、心が浮き立つような花の匂い、新芽の匂い、温まった土の匂い、少し埃臭いような匂い、水の下の泥と枯れた草の匂い。

この街にも遅い春が来ていた。桜並木が南風にゆらゆらと炎のように揺れていた。

八朔が、そよ風に、やっとわずかに生えてきたヒヨコのような髪の毛を誇らし気になびかせながら、車窓越しに空を眺めていた。

碧い川沿いにずっと続く桜色の霞から視線を上げた浅葱色の空の先に、ぽっかりと白い雲が一つ、慌ただしく暮れ行く西の空へと突き進んでいた。

雲の周りに小さく紫電がちりちりと光って見える。雲が西の茜色と菫色の混じった空を切り裂きながら進んで行く。おそらくは雲の持ち主が、上司にせっつかれてアクセルを踏み込んだのだと思われる。

環は、スマホを見て青くなった。

妹から、《お迎えまだ?託児所から催促来たんですけど!?》と鬼が激怒しているスタンプ付きのラインが入っていた。

緊急救命だの手術室だの命を預かる鉄火場勤務が長く、ますます性格が強くなって、さらに夕方の空腹と激務で気が立っているので、短い文面だけでも怖い。

しかし、自分の味方になってくれるのは、いつも彼女だ。

離婚しました。妊娠しています。実家に戻らせてください。

唖然とした母、絶句した父。

だが、妹だけは、「お姉ちゃんの好きにしなよ!私、応援するよ!」と言ってくれたのだ。

まあ、最近では姪っ子たちの送迎、食事の世話等、自分ばかり面倒見させられている気がするが・・・。確かに、手伝うとは言ってない。応援、だものなあ。

しかし、理解者がいるというのは心強いものだ。

「うわわわ、延長保育になるーっ」

隣で環もまた、車に鞭打って加速を上げた。

空の高い場所で小さく雷鳴が響いた。

目に沁みて痛いほどの青い空に雲が一筋、走ったような。

「あら。あっちもどやしつけられたのかしらねえ」

環がそう言うと、八朔はけたけたと笑った。

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晴天の霹靂  女教師と男子高生、神将により入れ替わりと相成る事 ましら 佳 @kakag11

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