第37話 つかの間の平穏
手術まで体力を落とさず、だが体に負担をかけないようにと青柳に言われた。
せめて階段を使って売店にでも行こうと環は部屋を出た。
昨日のうちに、高久が、日誌や授業の内容をまとめた資料を持ってきたのだ。
パソコンで見てと持ってきたUSBには、来週から授業で取り上げる内容の、薬物汚染についての資料が、画像や映像、グラフと共にまとめてあった。
面白い。わかりやすい。高久は、もしや、もしやなのだが、教師の才能があるんじゃないだろうか。
うん。それもいい。仕事やめて好きなことしろとは言ったが、教師を続けてくれたら嬉しいかもしれない。
心残りは、夫のことなのだが。
・・・・まあ、離婚するだろう。見ず知らずのおっさんと結婚生活していてくださいなんてのがそもそも虐待だ。
・・・夫は、真面目だし、優しくなくはない。ちゃんとした仕事もしているし。
結婚しなくても、やっていけるだろうし。結婚するとしたら、もっと若くて可愛い奥さんと幸せになるのが向いている。彼は、結婚生活に何か障害が出来て、夫婦で揉めながら、それでもぶつかりながらでも落とし所を見つけて続けていくのに向いていないのだ。
だから、なるだけ問題が起きないような女性と結婚するか、彼なりにしっかりと守れる女性と幸せになってほしい。
善悪は別ととして。自分たちは結婚に対する認識が違っていた。
だから自分だけが、いつもから回ってバカみたいだったのだ。
そして何より決定的に致命的に。・・・私達には、結婚に、自分達に執着がないのだ。
お互い、引き止めて、すがりついて、私と向き合ってくれと、殴るほどの勢いも、泣いて頼み込む程の、気持ちがない。
・・・もともとあったのが冷めたのではなく、お互いもともとないのだ。
気づかないうちにそれこそ子供でもできていればまた状況は変わったのだろう。
子は鎹。もちろん愛情も存在するのだが、子供がいればにっちもさっちもいかなくなるから身動き取れなくなって覚悟するっきゃないってことでもあろう。
・・・・別に我々が特別なのではなく。そんな夫婦って、世の中いっぱいいるだろう。
売店で、ボールペンと、菓子パンと甘いカフェオレを買った。
健康的な病院食に文句はないが、いつもご飯とお茶で、パンとコーヒーは出ないので、どうしても食べたくなる。
昨日の夕方は、心配した東海林たちが、押しかけてきた。
梅に預かったと、文化祭で作った茶碗を持ってきてくれた。嬉しくてサイドテーブルに置いてある。
・・・・結局、春香ちゃんには悪いことしちゃったな。
せめて手紙を書いてきちんと状況だけでも説明したほうがいいのか・・・。でもどう伝えればいいのか。
部屋に戻ると、青柳が両手にソフトクリームを持って立っていた。
高校生となった高久をどう扱ったらいいかよくわからないらしく、昔好きだったからと折り紙を持ってきたりしていたのには笑った。
「・・・いっくんのおかげで、鶴折れるようになったしね。本気で千羽鶴作ったら、いらねえとか言われて・・・結構ショックだったなあ・・・」
そのまましばらく二人でソフトクリームを舐めていた。
「・・・これ、環先生が持ってくれたの?」
「生活連絡日誌を毎日取りに来るのと、宿題とか授業のノートのコピーです。クラスメイトが毎日交代で、ノートをコピーさせてくれてて・・・」
付箋に、ちょっとした今日あったこととか、ユカパイのブラウスから透けたブラの色のメモとか、飴や駄菓子がセロテープで貼ってあったりするのだ。同じクラスとはいえ、今までたいして高久と喋ったことがなったであろう生徒も、心配しているのだ。
「皆すごくいい子ばかりなんです」
すごく嬉しかった。
そして、高久がそれを見て、とても嬉しそうだった。
再来年の卒業式では送り出す自分が泣きながら、送り出される彼らを見つめているのだろうと思っていた。それは無理そうだけど。
もうちょっとで、先生さよならだけど。
・・・・皆の担任できて、楽しかったなあ。
「お。顔色いいじゃん。プリン食う?」
「ありがと。まだ夕飯まで時間あるからお腹すいちゃった」
環は言いながら、分厚いファイルを手渡しした。
表紙に、赤字で重要というシールが貼ってある。
「何コレ」
「うちのクラスの子たちの、成績表と進路調査票。一緒に進学先の資料が挟んであるから。冬休み前には一斉調査するんだけど、一応連絡帳で事前に聞いておいたのよ。親御さんの意見も一緒に。進路相談は特進組じゃないからどうしても二の次にされちゃうから、早めに動いてちょうだいね。あとさ、推薦枠の取り合いがあるんだけど・・・」
特進組が優先されるのは恒例だが、それでもどうしても確保したい生徒がちらほらいたのだ。
「困った時は、白鳥先生に相談してみて。進路指導担当だから、普段あんな感じだけどさ、いざって時はなんでも知ってるし、頼りになるのよ・・・。ほんと、頼むね」
環がそう言って手を合わせると、五十六が、神妙に頷いた。
「わかった」
「クラスの子の人生、アンタにかかってるんだからね。・・・もう一つ。これ」
「・・な、なんだよ。遺書とかやめてくれよー・・・」
茶封筒を渡される。
「見ていいのかよ?」
「見て」
どれどれ、と五十六は茶封筒に指を突っ込んだ。
三つ折りの紙を、広げる。
「・・・おい、これ・・・」
見たままよ、と環は肩をすくめた。
環の名前と、印鑑が押してあった。
「婚姻届も見たことないうちから、離婚届かよ、俺。やだやだ。重い・・・」
「何よ。さっさと離婚しろみたいなこと言ってたくせに」
「いや、だって・・・。俺が渡すんだろー・・・」
「そりゃ、今の私が渡したら変じゃない」
五十六の顔して、体して。しかも死にかけていて。
「・・・・そうだけどさ・・・いいのかよ」
環は頷いた。
「いい」
「・・・・なんでだよ・・・・」
環はちょっと驚いて五十六を見た。
理由なんか聞かれると思って無かった。
そんなに興味もないだろうと思っていたのだが。
「・・・結婚しない理由がないから結婚したって前言ったじゃない・・・」
「うん。ひでー理由だよな」
環は苦笑した。
「・・・確かに。じゃ、離婚しない理由が無いから、離婚する」
何か言いかけた五十六を環が手で制した。
「もう決めたの。・・・・執着がないなら、手を離してあげるべきよ。お互いにね。私も、あんたも、夫も、次に進むための不安材料は少ないほうがいい」
五十六がため息をついて、しょんぼりしている。
「・・・ちょっとショック受けないでよ。少年。・・・だってあんた、自分が三十のオバちゃんになるだけでも大変だろうに、さらにオジちゃんと結婚生活しろなんて、ひどい話じゃないのよ」
「・・・そりゃそうだけどよー・・・」
五十六はしばらく黙って、それから顔を上げた。
「・・・いいんだな。本当に本当に、いいんだな」
「うん。いい」
「ほんっとーのほんっとーーーに・・・」
「しつこい。いいんだってばっ」
「なあ。結婚ってさあ、ほんっとうに好きな人とすんじゃないのかよ。なんで皆離婚すんの・・・?」
「本っ当に好きかどうかは、まあわからないけど。嫌いな人とはあんまりしないんじゃない?なんかさあ、嫌な言い方なんだけど。大抵、二年とか三年とか交際してじゃあそろそろって皆結婚すんのよね。その頃ってお互い、いい感じに嫌いな部分もわかってるわけで・・・」
で、まあならば許せる範囲かな、となったら結婚するわけよ。
「・・・嘘だろ・・・ちょっと嫌いになったあたりで結婚すんの?」
「そうそう。アハハ。だからどーもそのあたりですでにいい感じにセックスレスよ」
「うわっ。夢を壊しやがって!最悪・・・っ」
なんだか口がよく回る。
環は食べていた手元の焼き菓子を見た。洋酒が入っているようだ。久々に酒を入れて、こんなのでちょっと酔ってしまったのかもしれない。
五十六は離婚届を丁寧に茶封筒にしまい直した。
「あんたのタイミングでいいから。でも、なるべく早めでお願いします」
環は深々と頭を下げた。
「どれっ。じゃ、プリン食べよっかなー」
「はいはい。さっき表参道で買ってきたんだよなー」
「あ、これ知ってるー。私の地元の会社じゃないのー。機械工場なんだけど、副業でスィーツ作ったら本業より有名になっちゃったってやつよ、確か」
「へー、マジ?うっめ、これ」
「・・・あとさあ。私の顔、気に入らない時は、プチ整形とかしてもいいからね。・・・口座にちょっとはお金あるから、自分のために使って」
「おお。そうだな。するする。二重にして、目は三倍大きくして、鼻高くして、小顔にして、口ももっとエロくしてよ。あ、シワもとんなきゃな。プチじゃ済まねぇなあ」
「・・・随分、大規模改修ね・・・」
・・・・そんなに気に入らない?
「なんか・・・ごめんね・・・」
わかっていたけどショックだ。
環は、二つ目のプリンに手を伸ばした。
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