第36話 少年、取引をする

守衛に、救急外来の出入り口から帰るように言われ、随分遠回りして、五十六は病院を出た。

夜風が、思ったより冷たかった。もう十月も末だものな。初冬だ。

まだ気が動転していて、気持ちが落ち着かない。

タクシーで帰るか。とにかく、駅まで出よう。歩き出した時、声をかけられた。

一三だった。

先日会ったばかりなのに、なんだかひどく懐かしかった。

・・・ちょっと見ない間に、兄は随分年を取ったように見えた。

「・・・・あ、あの、こ、こんなことになっちゃって・・・・」

五十六はそれだけ言うと俯いた。言葉にならなかった。また喉の奥が熱くなってきた。

兄ちゃん、本当は、あれ俺じゃないんだ。あれ、中身、先生なんだ。

で、こっちが俺なんだ・・・。どうしよう、あのままじゃ、先生、俺の代わりに死んじゃうよ・・・。

言えないけど。

それがまた苦しくて、高久は目を閉じた。また泣き出してしまいたかった。

「大丈夫ですか。先生。・・・もう遅いですから、お送りします。明日もお仕事ですよね」

・・・ああ、そうだ。

「・・・電車でいいです・・・。今、何時・・」

「いや、もう12時過ぎてますから・・・」

もうそんななのか。

・・・・ん。ということは・・・・。

保健室のカレンダーで環とちょこちょこ確認していた。

この日っ。旧暦の十一月になったら、毘沙門様、帰ってくるから、また話しに行こう。

12時過ぎたら、当日だろうよ!

高久は、走り出した。

「・・・え?先生、ど、どこ行くんですか・・・?!」

「神社!あ、お寺か!」

「・・・・えぇ!?」

そのまま、高久は走り出した。

心臓が破れるかと思うほど走った。

デパートで走れるパンプスと勧められたのは本当だった。

足も痛いが、喉も気管支も肺も苦しいが、涙も鼻水も止まらないが・・・・。

それでも走った。

坂を上がって、下がって、まだ走って。階段を上って、鳥居をくぐって、そのまま、境内に飛び込んだ。

「か・・・っ、かみさ・・・じゃなかった、び、毘沙門様・・・」

そのまま、ひっくり帰って、喘いだ。

「・・・なんじゃい。福男レースはここじゃないぞ」

当然のように声が降ってきた。

毘沙門天が、顔を覗き込んでいた。

つやつやと、顔色がいい。

「・・・・やっぱ、い、居た・・・」

「さっき帰ってきたとこじゃ。出迎えご苦労」

いつの間にか、虎も現れ、ぺこりと主に頭を下げていた。

「べ・・・別に出迎えじゃねえ、けどさ・・・」

「随分大変な成りじゃな。・・・虎、水でもやれ」

「酒しかございません」

「ふむ。じゃ、酒でいっか」

「よくねえよ・・。いいから、とにかくさ・・・ちょっと、話が・・・」

「あ、そうそう・・・いやー。まいったまいった。話盛り上がっちゃってさあ」

「・・・・え?」

「なんせ人数多いから。会場押さえるのも大変じゃない?」

「会場・・・?」

「ああ、ほら。会合?いろんな愛好会だの同好会だの向上委員会だのあるもんだからさあ。・・・さて、少年。あれだろ?また、取り違えを元に戻せって・・・」

「わかってんじゃん」

「だからその話は・・・」

「時間ねえんだよ。・・・来週、手術することになったんだよ。手術失敗するかもしんねえ。でも、ほっといても半年で死ぬっつうんだよ・・・」

毘沙門天が懐から巻物を取り出して目を落とした。

「・・・・・ああ、だな。もうそこまで来たか」

高久には全く読めない彩色された字の羅列。中華料理の壁によく飾ってある、花文字のような、絵のような不思議な文字だった。

そこには、この先のどんなことが書いてあるのだろう。

「このままじゃ、俺じゃなくて、先生が死んじまう・・・・」

虎が心配そうに五十六の膝下に体をすりつけた。

「・・・何も、人の代わりに今死ぬこと、ないだろ・・・。お、俺のせいで・・・」

何もかも、自分のせいだ。母親が出て行ったのも。その後、家庭が形を失ったのも。そして、今度は環が死ぬ。

「・・・・だからさ、取引しよう」

「はああ?バッカもん。取引するのは悪魔じゃ」

「でもあんた神様じゃないんだろ。それにさ、俺、神社とかお寺行くと、いつもお賽銭あげたりお守り買うよな?それって、取引っつうか・・・金で買ってるんじゃね?」

「・・・・お、お前そういう言い方はないだろう・・・」

「なあ。頼むよ。毘沙門様。俺、もうあんたを責めないからさ。多分、あんたも先生か上司みたいなやつがいて、怒られるんだろ?・・・・あんたのポカ、一緒に謝ってやるからさ。頼むから、なあ。助けてくれよ」

高久は毘沙門天ににじりよってすがりついた。

「・・・ううう・・・・ああ・・・もう!」

毘沙門天が巻物の文字を指でたどると、すっと指を動かした。

文字が、消えていく。文字が現れては消えていく様子は、とても美しかった。

「・・・・すげえ・・・」

ふふん、と毘沙門天が自慢気に眉を上げた。

「お前らで言うOSの更新が早いからな。処理速度もサクサクだっ。そこらへんの営業が持ってる量販モバイルとはモノが違うわ。どれ、お前が読めるようにしてやろう・・」

高久はまだ目を落とした。ゆらゆらと炎が揺らめくような、水面の映る景色のような、不思議な文字だ。

動かしてみろ、と手渡される。画面に触れると、何種類かの文字の羅列が入れ替わる。

「・・・・な、なにこれ・・・・」

「言うなれば未来のシナリオじゃな。ここを・・・チョイチョイッとタップして・・・そうそう、そこコピペ。で、サンプル何パターンか当てはめれば・・・」

「うおおおお・・・すげえ。つうか、こういうのもテンプレとかあんのかよ・・・」

高久が覗き込んでいた、文字が形になり、映像になっていく。

五感が、その映像の事象を追体験するかのように、一瞬で体を駆け抜けていった。

視覚も、触感も、味覚も。一瞬で膨大な情報量が高久の体に染み込んでいった。

感覚にきちんと収まり、理解されて行く状態は、快感ですらあった。

「なんかわっかんねえけど、・・・すげえなあ。未来、こんなのできんのかなあ・・・」

「ま、近いものはあるわな。案外未来の種ちゅうのはもう手の中にあるもんじゃ・・・。不具合があるなら整えよ。障害があるなら、越えよ。ためらうな、時に淀みながらも思う場所に流れていけ・・・っちゅうことだわな」

高久が首を傾げた。

「そんなNHKみたいなこと言われても、俺、難しくてわっかんねえ・・・」

「・・・まあ、そのへんは期待してない。お前の場合はとりあえずこれじゃ」

高久にずいっと巻物を近付けた。

選べ、と毘沙門天は短く言った。

高久は、興味津々で、踊る文字を逃さぬよう指で引き寄せた。

これでもない。これでもない・・・・。

いくつかのパターンをあれこれと当てはめる。

これだ。

物語が紡ぎ出され、映像となり、感覚に変換され、また体の中を駆け抜けていった。

ああ、すげえ。これは一体なんなんだ。

ああそうか、これは、未来だ。

「よし、これでいいな」

そう言うと、毘沙門天は巻物を自分の手に持ち替えた。

「いいか・・・・。誰にも言うなよ・・・」

「わかった」

「これで精一杯だからな」

「わかった」

がばっと高久が土下座した。

「ありがとうございます。あんた、マジ神様だよ!」

「いいか。約束は守れよ」

「わかった」

高久はもう一度頭を下げると、寄ってきた虎の頭を撫でた。

虎は心配していたのだろう。ほっとしたように喉を鳴らした。

「・・・お前もあんがとな。今度、酒持ってくるからよ」

「うむ。待っておる」

五十六はぺこりと頭を下げ、勢い良く境内を走り去って行った。

「・・・・嵐のようじゃのう・・・」

物を懐に仕舞い込み、毘沙門天は空を仰いだ。

「よろしいのですか。主さま」

「・・・・よろしくはない・・・が。なんだか不思議な気分だよ」

虎は身を伏せた。

神ではないが、神に近い主人はわからないかもしれない。

だが、獣の自分には分かる。

それは、こころが揺れたというのだ。

「ふん。なんじゃい。楽しそうだな・・・。ああ、なんだかくたびれた。それ、あれ」

ちょい、と瓶を示す。

「先日、環刀自古が持ってきた酒、まだあったよな?」

虎が大事そうに懐から一升瓶を取り出した。

「・・・お前・・・もうあまりないではないか。飲み過ぎじゃ。・・・飛露喜と軽井沢は今入手困難だっつうのに・・・」

ぶつぶつ言いながらも、枡になみなみと酒を注いだ。

毘沙門天は、一気に半分ほども飲み干してしまうと、長い長いゲップをしてから、さて。と立ち上がった。

もう一働きだ。

あの少年の気持ちに応えねばなるまい。

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