第35話 女教師、肚を決める

環は冷めた病院食を食べていた。

消灯の時間も過ぎていたので、ベットサイドライトのみで薄暗かった。

一応、食べるかと聞いたが、高久は絶対そんなもん食うかと拒否した。

歯ごたえの全くないカレイの煮付けを食べながら、環はため息をついた。

その横で、丸椅子に座った五十六が、まだベソをかいていた。

「・・・・あのさ、ちょっと・・・」

「知らねえっ。・・・父ちゃん、ハンコ押しちまったじゃねえかよ・・・っ」

青柳の持っていた手術同意書を見つけて、高久は絶望感でいっぱいになっていた。

「だってさ。あんた、よく考えてみなよ・・・。黙って死ぬの待ってたら下手したら半年だよ?卒業もできないよ?」

現実的にはそういうことなのだ。

「・・・だってよ・・・。手術中に死んだら元も子もねえだろうが・・・」

「・・・うん。その可能性はゼロじゃないよね」

「何のんびり言ってんだよおぉぉ。ババアすぎてボケちまったのかよ・・・」

「いや、そこまでババアじゃないでしょうよ・・・」

ごちそうさま、と環は手を合わせると、隣のテーブルにトレイを置いた。

「・・・だってよ。もしこのまま死んだら。先生が死んじまうんだって、神様言ってたじゃないかよ。んで、あのムカデみたいなゲシゲジみたいなやつに・・・。おおーーきもちわりぃ・・・」

「・・・思い出させないで・・。それ、すっごい嫌なんだから・・・ほんっと嫌」

蕁麻疹出そう。

「・・・ほんとさあ。すまないなあと思うんだけど。もし、私が死んだら。あんたは、私の残りの人生なんとか生きて。ほんとに好きにしていいから。・・・離婚してもいい。仕事辞めてもいい。とりあえずババアだけど、体は丈夫だからさ、旅行とか。やりたいこと、楽しいことしなよ」

信じられないというように、五十六が顔を上げて環を凝視した。

「そんなの・・・先生が自分でやりゃいいじゃんかよ・・・っ」

「・・・・だから、やれりゃやってる・・・いや、やんないな。私にはできないよ。だから、高久やってよ」

どうせ自分のことだ。うだうだ考えているうに、何もできない。

だったら、高久がやればいい。

「もし万が一ってことになったら、お父様とお兄様・・・。あと、お母様にはほんと申し訳ないんだけどさ・・・。でも青柳先生もいらっしゃるし。助かる可能性がないわけじゃないんだよ。そしたらさ、またおいおい、毘沙門様に頼んで体戻して貰えるかもしれないし・・・」

「あてになんねえよ・・・あんなジジイ・・・」

そう言って五十六はまためそめそし始めた。

「・・・・死んだ後のことは、そん時考えようよ」

妙に腹が決まっていた。

高久の身の振り方も考えた時、一番いいのはこれではないだろうかと思ったのだ。

「・・・・そんな話あるかよ・・・。やだよ、俺のせいで先生死んじゃうの・・・・」

環はぽんぽんと高久の背中を叩いた。

「あんたはいい子よ。大丈夫。私、担任になって良かったよ。先生やっててよかったって思ったの、あんたのおかげだよ」

正直な気持ちだった。

自分の選択が全く正しかったと思ったことなんか、生きてきて一度もない。

が、今は確信がある。

ああ、私はこれで良い。

「・・・情けない話だけどさあ。養護教諭って、学校でしか働けないのよ。結局、保健のオバちゃんだから。看護師免許とれば良かった、保健師だったら区役所とかでも働けたのに、とかさ。結局、つぶしが利かないんだよね。・・・結婚も。あん時、なんで結婚しちゃったのかなあー・・とかさ。別に、もっといい男と結婚できたはず、とかじゃなくて。別に結婚しなくても良かったんじゃないかなあー・・・・と。そしたら、夫だって、他のいい奥さんもらって今頃は幸せにやってるんだろうなあーとか。まあ、いろいろと、あの時ああじゃなくてこうすればよかったってことばっかり、私」

若者にこんなしみったれた話をしても仕方ないのだが。

「・・・私の心臓あげれれば一番いいんだけど・・・。そしたら、今の状況だとアンタ死んじゃうしねえ」

ほら、と環は五十六の泣きべそ顔をティッシュでごしごし拭いた。

「とにかく今日は帰んなさい。白鳥先生があんたに連絡してくれたんでしょ?明日、白鳥先生に、詳しくは後で父兄が連絡すると言っておいて。今は状態は安定したから、大丈夫ですって。しばらく休むんだから、東海林たちには、ちゃんと説明すんのよ。でもびっくりさせないようにね。あと、帰りにナースステーションに寄って、騒いですみませんでしたって謝って帰んなさい」

うん、と五十六は鼻水をすすりながら頷いた。

「明日、明日また来る。なんか欲しいのある?」

「着替えも飲み物もお兄さんがさっき用意してくれたし。あ、学級日誌は持ってきて。あと保健室の机の中に、来週の授業の資料が入ってんの。持ってきて・・・」

「だいじょうぶ。わかる。俺やれる。出来たらデータにして持ってくる」

「あ、・・・あ、そう?よろしく・・・」

「うん。だから、先生寝てろよ。でないと、死んじまう・・・」

泣きすぎてぼうっとした顔で、五十六はそう言うと、廊下に出た。

 

 ナースステーションに声をかけると、看護師が心配そうな目で見ていた。

「・・・・騒いで、どうも、すみませんでした・・・」

やっとの思いでそれだけ言うと、ぺこりと頭を下げた。

五十六はとぼとぼと廊下を歩いていた。

・・・・夜の病院は嫌いだ。怖いし、ものすごく心細くなる。

自動販売機の横のソファに、人影があった。

「お。担任の先生だよなあ?・・・さっきと随分顔違うけど・・・」

五十六は自販機の光を頼りに目を凝らした。見覚えがあった。記憶より随分痩せてはいたが、昔、ここの病院で会ったことがある。鬼首先生の友達で、小児科の医師だったはずだ。診察に来た彼によく蹴りを入れていた覚えがある。

「・・・生徒よりよっぽど先生が参ってんなあ。まあ、気持ちはわかりますが・・・」

「・・・すみません・・・」

とりあえず謝っておこう。

「いやいいですよ。びっくりしたけど。・・・そっか。あなたがあの子の先生で・・・」

青柳の彼女なのか、というのは飲み込んだ。

「・・・これ」

彼はそういうと、小箱を高久に手渡した。

「あなたでしょう。寝ないで騒ぐジジイにはキャラメル食わせとけって言ったの。ヤギに早速もらいましたよ。・・・どうぞ」

五十六は言われるがまま、一粒取り出すと口の中に放り込んだ。

甘さが、少し、気持ちを救った気がした。

「・・・キジ先生。・・・あのまま死んじゃうのかな・・・。なんか、そんな気がして、怖くて・・・」

そうだ。死ぬのってこんなに怖かったっけ。そして、死なせるのって、こんなに辛い。

「私はロートルの小児科医で、しかも海外長くて浦島太郎なんで。ヤギ程の腕はないですが。・・・正直ね、難しいとは思います。でも、本人が決めたでしょう」

「決めた・・・って・・・」

他に選択肢が限りなく無かったからだろうが。

「ねえ先生。ボウズのあれは、生きれるなら生きる。死ぬなら死のう。そう言うことですよね。・・・やけっぱちじゃなくて、そう決めたんでしょう。かくいう私も、末期ガンかつ心臓病ですが。ま、ガンが早いか心臓が壊れるかいい勝負で」

「ええ?!」

「あんな気持ちにはなれないなあー・・・こんなんで生きたくない、こんなんで死にたくないって毎日毎秒思ってますからね。生老病死は人間の義務だけど、俺、どっちも嫌だもんな」

・・・・そうか。こいつも死ぬのか。

「・・・・なら、誰も死なないで欲しいです・・・」

「ありがとう。・・・だいじょうぶ。ま、失敗したら、ヤギのせいってことで」

そう言って彼は笑った。

「ま、たまにヤギのとこに顔見せてやってよ。あいつ、きっと喜んで頑張るから」

じゃあね、気をつけてお帰んなさい、と彼は自分の部屋に引き上げて行った。

彼女に、名乗ったっけか、と雉子並はちょっと思った。

とっくに消灯の時間だというのに、彼の部屋は明るかったし、テレビもつけっぱなしのようだ。

五十六もまたゆっくり立ち上がると、エレベーターへと向かった。

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