第33話 女教師、死線をさ迷う
環は放課後、保健室に顔を出したが、いつもパンツが見え、いや、丸出しで菓子パンやスナック菓子を飲み込むように食べている五十六の姿は無かった。
部活指導に向かう紫に聞くと、用があるとかで早く帰ったとの事だった。
環は抱えていた重箱の包みを、ローテーブルに置いた。
せっかく夜なべして栗おこわ炊いたのに。
などと、ごちながら、机の上をチェックし始めた。
改めて言うと、いわゆる保健室のおばちゃんは、教員でもあるのだ。
具合が悪い生徒の介抱だけが仕事ではない。
保健体育の授業はもちろんのこと、毎月の保健だよりの作成や、生徒や教師の健康診断の手配、データ整理、二次検診の案内から、健康相談など、以外と忙しいのだ。特に、文化祭の模擬店の保健所許可の手配こそないが、修学旅行の前の救急救命講座、遠足の引率等もある。その上、環は担任も持っているのだ。
そして、そろそろ春秋二回実施している、尿検査の準備をしなければならないのだ。
まずは、クラス名簿と尿検査の容器を各クラス分揃えて、ケースに分ける作業をしなければならないのだが。これが単純なようで、数があるから大変なのだ。
「・・・あれ」
棚の上に、整然と並べられた四角いケースに、整然と容器が並んでいた。
ケースには、学年とクラスと出席番号と名前が書かれたシールが貼ってある。
横に、名簿とチェックした印。
どうやら、五十六が確認したらしい。
「・・・・なんだ。やってくれたんだ」
ダッセーな。ぜってーやるかよ、そんなことよぉー・・・とでも騒ぎそうなものなのに。
環は、念のため、クラス名簿を捲りながら、確認を始めた。
・・・驚いたことに、ひとつもミスがなかった。
高久は、手先は器用だが、こういう仕事は苦手だろう。
名簿には、ボールペンや蛍光ペンで、何回もチェックしたのだろう跡があった。
きっと、何時間もかかって、何度も間違って、確認しながらやりきったのだろう。
・・・・えらいじゃない。
ちょっと見直した。
彼なりに、環になってしまった責任を少しでも果たそうとしているのかもしれない。
マイペースで傍若無人で、無神経な生徒だと思っていたが・・・。
環は、ソファに座った。
カレンダーが目に止まった。
毎日の暦から、旧暦まで描いてある昔ながらのカレンダーだ。出入りの設備屋から年末に貰ったものだ。
旧暦で言えば。明後日で、十月も終わり。
神無月が終わり、霜月、に突入するわけだ。
毘沙門天も務めを終えて、帰還するはずだ。
本当に、何とかして貰わないと。
人間の慣れというものなのか。
・・・・もうこのまま・・・、こいつのまま生きて行こうかなあ。
なんてちょっと思う自分がいて怖いのだ。
当たり前だが、二度目の高校生ということもあり、成績もうなぎ登りだし。
素行だって改善したと、言われている。
今までよそよそしい関係だったという、高久の父と兄との距離も、縮まったと言えると思う。
昨夜は、栗を剥いていた所に、テンション高く一三が出張から帰ってきたと思ったら、嬉しそうに豚足にかぶりついていた。
何か必須栄養素でも不足しているのかと不安になり、どうしたのと聞くと、環先生からのプレゼント、とわけのわからぬことを言っている始末で。
「へぇ・・・。豚足好きなの・・・?」
弟が兄の好物を差し入れたということだろうか。
「いや。初めて食った。なんかこう・・・背徳的な食いもんだな」
と、妙な笑顔で。
とにかく、機嫌がやたら良かったらしく、お小遣いまでくれた。
「大事に使いなさい」ではなく「好きなもの買いなさい」と言って。
夫も。今までは、自分から逃げて、うやむやにして、全てなあなあだった夫が。
その上、彼自身も自分の殻を破ったというか・・・かぶったものをとったというか。とにかく、高久の手助けで肩の荷を下ろすことができのだ。
保険医にはカルテのようなものがあるのだが。もちろん守秘義務があるから、誰にも見せないのだが、付箋にメモが最近多いのだ。
それだけ頻繁に生徒が相談に来ているということだ。
その内容も、ちょっとした心配事から、けっこう深刻な悩みまで。
高久が、話を聞いて、それを付箋に書き込み、環に伝えて。
今まで、年頃の男子生徒が保険医なんかに相談に来るもんかと思っていたのだが、それが思い込みだったと知った。
環ではなく、高久に親しみを感じ、はっきりと認めるのは悔しいが、信頼し、相談に来ているということだ。
環は、生徒の相談ファイルをめくった。
一人一人のカルテの目立つところにメモが貼ってある。「進路について悩んでいる。担任に確認すること」「体調不良。多分低血圧。朝食えないタイプ」「家庭の事情。相談したいとのこと」「恋愛について。非常に盛り上がった」等と高久の文字で書かれていた。
昨日のライン。あれは問い質さなければならない。
テーブルの上に並べられた夥しい大皿と、満足気な高久の画像。
「しゃぶしゃぶはじめて食った。ヤギ、途中で仕事で帰った」
とそれだけ。
開けた窓から、風が入ってきて気持ち良かった。
どこからか金木犀の香りがする。秋の香りだ。つい微笑みが浮かんだ。
昨日寝不足だったし。このまま少し昼寝しちゃおうかな、と、うとうとしかけた時。
ドン、と音がした。
風で何か置物でも落ちたのだろうか。
・・・なんだ?と体を起こそうとして、体が動かなかった。
みるみる手と足が冷たくなっていく。
ドン・・・ド、ドド・・・ド・・・と聞こえる音を探ろうと、冷たい指先を伸ばしていくと、たどり着いたのは、自分の胸で。
・・・なんだこれ。なんだこれ。
口の中が冷たい。貧血だろうか。
いや、違う。
・・・・これ、心臓だ。
あー・・・ヤバイ。こういうことか・・・。
今週末、検査結果聞きに行くまで持たなかったか・・・。
一三が一緒に行くことになっていたのだが。
別に激しい運動したわけでもないんだけどなあ・・・。
あ、ごめん・・・。
誰に対してなのか、そうつぶやいて。
環はそのまま、重くなる体と共に、ひきずられるように目を閉じた。
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