第31話 少年、勝負服でしゃぶしゃぶする事
五十六は買ったばかりのロイヤルブルーのニットワンピースを着た。
カシュクールの深目の胸元は、ともすればチラリズム。ここにこだわりがあるのだが。
同じ女性から見れば、これ以上見えてはだらしないと思われるだろう、その一歩手前のこのブラチラが大事なのだ。
身のこなしの時に少しだけ、一、二ミリ程の、この、わずかなチラだ。チラ。
で、これで、しゃぶしゃぶだぞ。しゃぶしゃぶ。なんつっーか、アガるよな。
五十六はうんうんと頷いた。
青柳に指定された店は、繁華街からちょっと離れた場所にあった。
なんだか、見た目、商店街だが。
夜の八時過ぎの商店街など、案外静かなものだ。
矢印と牛のマークがあるので、わかると思います。という青柳の言葉を頼りに、きょろきょろと辺りを見回す。
「・・・・あれか・・・・」
手におたまと牛刀を持った牛のキャラクターが、「モ~たまらん」という言葉と共に牛肉にかぶりついているという看板。
精肉店の二階らしい。
薄暗い細い階段を上がっていき、まるで一般住宅の玄関先のような扉を開けると。
「いらっしゃいませーっ」
という威勢のいい声がした。
煙がもうもうと立ち込め、肉の焼けるいい匂いがする・・・。
六十代くらいの血色のいい女将さんが、小走りで近づいてきた。
「おひとりですか」
「・・・あ、青柳サンで予約を・・・」
「ああ、先生のお連れの方ねっ。なら上行ってー。ここ、焼肉屋で、上がしゃぶしゃぶ屋だから」
なんだか、あんまりうまそうで焼き肉でいいかも・・・。
はいはい、お待ちだから早く行って、とカウンターを通って、五十六はさらに細い階段をまた上った。
突然の襖が現れ、高久は無遠慮にガラっと開けた。
いきなり正面に青柳が座っていて、銅鍋に火をつけているところだった。
「あ、金沢先生。こんばんは」
「・・・こ・・・こんばんは・・・」
まるで親戚の家のような和室に、薄べったい座布団とテーブル。
イメージしていた、医者が通う会員制高級しゃぶしゃぶ店と違うようだ。
しかし。暑い。そしてなんだこの煙は。
「あ、ごめんなさいねえーー。こないだ、工事した人がダクト逆につけちゃって、ここに下の焼肉の煙上がってくんのよねえ」
と先ほどの女将がすまなそうに笑った。
「あ、先生、そっちの窓も開けてー。火災報知器また鳴っちゃうからー」
ガタガタと青柳が年代物のガラス窓を開けた。
なんだか楽しそうな店だ。
しかし、ダクトから流れてくるこの脂の匂い・・・。
すっげーいいにおい・・・。これでご飯食いたい・・・。
もうガッツリ食いたい。腹減った。
ふと、目の前の青柳の頭に白いものを見つけた。
「・・・あのー、青柳先生って、今おいくつなんですか?」
子供だった自分から見たら、あの当時でもとても大人に見えたのだが。あれから十年以上だっていて。
「僕ですか。今年、四十一になります」
心臓外科の権威であった鬼首先生の下で彼が泣くほどしごかれていたあの頃は、三十手前だったということなる。
もともと若年寄のタイプなので、あまり見た目は変わらないように思うが。
男って、このぐらいのトシで白髪生えたりすんだなあ・・・。
と、何だかショックだった。
テレビで見る芸能人達は、もっとキラキラとギラギラと若々しいではないか。
これが一般人の現実か。・・・だよなあ。
こりゃ、人間の一生っちゃ、いい時は思ったより短いぞ。
「おじいちゃんって呼ばれてますから、僕。小児科のナースたちに」
五十六が吹き出した。
ウケたと嬉しかったのか、青柳もまた笑った。
「本当ですよ。まあ、小児科に来るおチビちゃんから見たら、父親より年上の僕なんかおじいちゃんでしょうしね。・・・外科っていうと、もっとこう、威勢のいいイケメンを皆想像するんですけどね。なんせ心臓とか循環器ってのはそんな勢いよくやったらズタズタになっちゃいますからね。もう地味に地道にコツコツです」
確かに、彼は昔から器用だったのだ。
「大病院勤めだと忙しいし、大変ですよね」
「確かに。件数は多いですよね。でも、優秀な同僚やナースが沢山集まって来ますし、人手はあるので。いろんな患者さんがいますし。楽しいですよ。・・・今、いわゆるモンスターペイシェントがいましてねえ。困ったもんなんですが、面白いんですよ」
夜中に五分置きにナースコールを押す入院患者のおじいちゃんがいるのだが、ナースが慌てて駆けつけると、暑い、寒い、テレビのチャンネルを変えろ、等というヤボ用なのだ。
「主治医なんだからお前が説得しろと言われて。一応お話はしたんですが。変わらないんですよね。だから、最近は当直の時は一緒の部屋で寝てるんです。用事あったらすぐ呼べるように。そしたら、なぜか静かなんですよねぇ」
ナース達は、先生の前だから猫かぶってる、と更におかんむりだ。
毎日注意深く様子を見て看護をしているのは彼女達なのだから、その気持ちも分かる。
「おじいちゃんには僕があまりにもグースカ寝てるから、呼んでも起きないからだとか言われてます」
「そりゃ、先生。やっぱじいちゃんでも怖いんだろうな。死ぬの」
夜の病室の何とも言えない身の置き場の無さ、怖さは、自分がよく知っている。
怖くて、山のようなぬいぐるみをベッドに敷き詰め、万が一目が覚めても怖くないように、枕元にお菓子を用意して、DVDをつけっぱなしにして寝ていたものだ。
それでも怖くて。そうだ。自分も、夜中に何度も青柳を呼びつけていた。
「うーん。でも、先生だって忙しいし、いつも一緒にいるわけにもいかないしな」
自分の事は棚に上げて、五十六はわけ知り顔で腕を組んだ。
「そうなんですよね。僕がいない時は相変わらず一晩中ナースコール鳴らしっぱなしみたいですよ」
うーん、と五十六は考え込んだ。
「なんか、寂しい時とか、落ち着かない時に食える甘い物でも置いててやったら。飴だと喉につっかえてじいさん死ぬかもしんないし、チョコだとすぐなくなっちゃうしなぁ・・・キャラメルがいいんじゃね?」
そうだ。よく自分もキャラメルを舐めていたっけ。
眠れない時、なぜか夜中に目が覚めた時。
同じく入院中の子供の誰かが、死んだ時。
暗闇で、静かに箱を開けて、命のように甘いキャラメルを味わっていた。
青柳は一瞬、びっくりしたような顔をした。
「そうか。それはいいですね」
「だーろー?よく入院してる子供は夜中お菓子食ってんだ。ナイショだけどな」
五十六がそう笑った時、ガラリと襖が開いて山のように野菜と肉を持った皿を抱えた女将が入ってきた。
目の前に丼飯と、香ばしく焼かれた焼肉の盛り合わせとスープと漬物が置かれた。
「こちらサービスね。先生が女の方連れてくるの珍しいから。全く。先生もこんなきれいな方、もうちょっとムードのあるお店に連れていればいいのにねえ。はいどうぞ。テールスープと漬物も自家製なのよ」
感激した五十六は女将を見上げた。
「ありがとうございます。大好きー」
「よかった!・・・あら、下で注文呼んでる。ではごゆっくりね」
彼女はそう言うと、慌ただしく階段を駆け下りていった。
五十六は丼飯をかっこみながら、わくわくして銅鍋を覗き込んだ。
「しゃぶしゃぶって、初めてなんだけど・・・」
一人で食事をする事の多かった五十六は、鍋物をほとんど食べたことがないのだ。
青柳は箸で薄切りの豚肉を摘み上げると、銅鍋の中の黄金色の出汁で動かした。
「これで、しゃぶしゃぶ、と。じゃぶじゃぶまで行かない感じで」
なるほど、と高久も真似して肉を泳がせた。
と、青柳のスマホが鳴った。
すみませんね、と彼は一度頭を下げた。
「はいはい。・・・え。ほんとに。わかりました。・・・あ、やりすぎですよ・・・」
豆腐を箸でしゃぶしゃぶしているうちにばらばらになっていた五十六は、顔を上げた。
病院から呼び出しのようだ。
「・・・・・すみません。あの、さっきのおじいちゃんでした・・・・」
自分がいない時に限って、何か騒ぎを起こすのだ。
ふむ、と五十六はちょっと首を傾げたが、だいじょうぶ、と手を上げた。
「急いで行ってください。だいじょうぶ、ここの肉は責任持ちますんで」
頭を下げながら階段を下りた青柳に、五十六は立ち上がって、ジャケットを投げ渡した。
青柳は、また頭を下げてジャケットに袖を通した。
ええ!?せんせー帰るのー?!と、素っ頓狂な女将の声が下で聞こえた。
結局二人前を平らげた。
焼肉三人前はけっこうくるが、しゃぶしゃぶはあっさりしているから、ぺろりだな。
と、焼肉定食も平らげたことも忘れて高久は腹をなでた。
一人残された五十六を心配した様子で女将は、デザートを運んできた。
アイスクリームやフルーツが盛られたてっぺんに、鳥の形にカッティングされたパイナップルや花の形のりんごやマンゴーが舞い踊っている。
「先生帰っちゃったのねー。ごめんなさいねー。・・・うちの大将がおわびにってパフェ作ったから食べてね」
「わあっ。この店サイコーッ」
「・・・先生忙しいもんねえ。せっかくのデートだったのに・・・。これに懲りないでやってね。先生、優しいからすぐ呼びだされちゃうのよ」
「うん。・・・知ってます。だいじょうぶ」
そうだ。自分も子供のころそうやって、彼を呼びつけては八つ当たりしたり、甘えたりしていたのだ。そのじいさんも、そうにちがいない。
お会計は済んでるから、ゆっくりしていってね、と彼女は出て行った。
「よっこい、せーっと・・・」
満腹になった腹を抑えて立ち上がると、青柳が背にしていた襖を開けた。
テーブルや、椅子、造花の観葉植物や、果実酒や秘伝のタレらしきものが置いてある、いわゆる物置部屋のようだ。
「物置だよな、うん。・・・ヤギめ、ダメなやつだな」
五十六は嬉しそうに笑った。
しゃぶしゃぶ、料亭、隣に布団が敷いてあって・・・のようなことを想像していたのだ。もちろん直接は知らないが、兄に聞いたことがあるからフィクションではない。
肉屋なあたりから、ちょっと、あれっとは思っていたが。
万が一、ということも・・・と思って、襖を開けてみたのだが。
「だよなあ・・・。ま、そういうタイプじゃねえし、ヤギ」
五十六は平らげた皿との自撮り画像と共に報告を環にラインを送った。
本当は、見事肉弾戦に持ち込んだ戦果を報告したかったが。
「・・・まっ、今回は、しゃーねーわなあ・・・」
青柳の中座をよっぽど気にしているのか、女将が豚足の土産まで保たせてくれた。
「二本で足りんのか。お嬢ちゃん、五、六本あったほうがいいんじゃないのか?」
と、大将である店の主人まで心配している様子だった。
青柳はこの店のオーナー夫妻によっぽど愛されているらしい。
結局、二本入りの豚足を二パック貰った。
五十六は、豚足の包まれた紙袋を手に、いい気分で駅まで歩っていた。
すると、通過して行った車が、ハザードをつけて止まったかと思うと、中から人が降りてきた。
なんだよと、思って顔をよく見ると・・・。
久しぶりに会う兄だった。
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