第30話 少年、浮かれる
翌日の昼休み、保健室で環は誇らし気にスマホを見せた。
五十六は魅入られたように画像を見入っていた。
「・・・・ママママ、マジで・・・!」
「ねっ。すごいでしょっ。先生やったよっ。ほらっ、アンタもモテキ来たっ。ねーねー、このお嬢さん、可愛くない?」
画像の少女を再度見せる。
ウサギのキャラクターのついたヘアゴムでゆるく髪を纏めている眼鏡をかけた美少女が、湯呑み茶碗を眺めている画像だった。
どうにもこうにもなぜか盗撮っぽいアングルだが・・・、まあそれは置いておいて。
「・・・か、かわいいです・・・・」
五十六がそっと胸に手を当ててつぶやいた。
「でしょうっ?!」
帰り際、梅に引き止められてこの画像を渡されたのだ。
「アンタ、メガネっ娘好きなんでしょ。春香ちゃんていうんだって」
陶芸部の部長が五十六に好意を持っている、と梅が言い出したのだ。
環もなんだか嬉しくてうきうきしていた。
「・・・あのさあ、実際問題、付き合っちゃったりするのかなあ・・・。ねえ。出来れば、卒業までは清い交際でお願いしたいんだけど・・・」
すっかりその気になった五十六が髪をかき上げた。
「えー。マジ?どーしようかなあ・・・。そういうのってほら、流れとかあるじゃん?」
お互いの状況を棚に上げて、二人は浮かれていた。
「ほ、ほんと・・・ど、どうしよう、俺」
「東海林の妹の先輩だけど、先輩だなんて威張ってないの。雰囲気がもうかわいいのよ。心優しい感じよ」
五十六は天を仰いだ。
こんな日が来るなんて。
「・・・・でも俺、グイグイ引っ張って貰わないとダメなタイプなんだけど・・・」
「それじゃまた紫先生の時と同じになっちゃうでしょ。今回は、時間をかけて、ゆっくりと愛を育むのよ。ね。いい?清い交際よ」
「そうか。・・・そうだよな。よし」
「まずは、お正月に年賀状貰えるくらいの信頼関係を築きましょう。バレンタインチョコは二月なんだから。年賀状まで行ったら、遠くないわよ」
うんうん、と五十六は頷いた。
五十六は、職員室で鼻歌でも歌いそうに気分が良かった。
日誌を持ってきた日直の東海林が、関わり合いになりたくなさそうな顔で、立っていた。
「おっ。東海林クーンっ。いいとこ来たっ」
無理やり東海林を椅子に座らせた。
「な、なんですか・・・」
「うん。なんかね、先生ぇ、高久くんがぁ、モテているぅ、という情報を聞いてねぇ、ほらっ、担任として詳しく聞いておきたいなああああ、なんて。そのモテっぷりをっ」
大分様子がおかしい。
東海林は二歩、引いた。
「誰に、聞いたんですか・・・」
「あっ、ほらっ、そこはぁっ、先生だからぁ」
「・・・詳しくはわからないんですけど。妹の先輩らしいです」
「うんうん、梅ちゃんのね。・・・なんかこう、いろいろ話してたのカナ?」
「いやあ。文化祭で。似顔絵を描いてもらってる間に。高久は、茶碗かなんか作ってて」
「茶碗・・・?」
なんで文化祭で茶碗?・・・おばちゃんはやっぱ意味わかんねえな。
「茶碗なんかどーやって作んだよ。工場とかで鉄から作んだろ。皿とか茶碗て」
「いや。茶碗は金属じゃないし。・・・陶芸部だから。自分で作れるんですよ」
年齢の割に教養のない人だなあと東海林は担任を一瞥した。
「へ?そうなのか。ま、いいや。おばちゃんはセトモン大好きだしな」
「おばちゃん?」
「あ、いやいやなんでもない。・・・じゃ、そこでフィーリングが合ったっつーこと?」
「いや、なんか。先週、高久、人命救助したじゃないですか」
五十六は消防署からも表彰されて、学園長は新聞社の取材を受けて上機嫌だった。
「え、うん」
「その時、たまたまその場にいて、惚れちゃったらしいですよ。高久にはもったいない常識的な感じの子で。俺心配なんですよね」
「・・・なんだよ、それ」
「だって。修学旅行で沼に落ちて以来、素行がおかしい・・・いや、正しい・・・。まあわかんないですけど、あの高久ですよ?」
東海林がだめだめと手を振った。
「え。だめかよ・・・」
「・・・先生は知らないと思うけど。子どもの頃からいそは悪童で。幼稚園の時には同じクラスの女の子の靴盗んで犬に食わせたり、髪の毛に縄跳びの紐くっつけて引っ張ったり、ひどいもんだったんですよ」
ああ。そういえばそんなこともあったなあ・・・。
「ま、チビの頃って大抵女の方がデカいし、性格が強い子にばっかりするもんだから、返り討ちにあってボコボコにされてましたけどね」
ああ・・・そうだったそうだった。
「いそは女性に対してセクハラっていうかパワハラっていうか・・・」
「ち、違うよ。それは・・・」
犬と言ったってドーベルマンみたいな屈強な犬じゃなくて、ばあちゃんちの室内犬のマルチーズだったし、好きな子の匂いを覚えさせて、どこにいても彼女を見つけられるようにしたかったのと、いつも仲良くして欲しくて、どこにも行って欲しくなくて、紐で縛っておこうと思っただけなのに・・・。
東海林が不審な目を向けた。
「なんで先生、そんな庇うんですか」
そもそも、この担任はたいして自分たちに特別な感情というものを持っていたとは思えないし。
変と言えば。そう、この女もおかしい。高久と共に池に落ちて以来、言動もなんだかおかしいのだ。
まあ見た目は、以前に比べればずいぶんと現代的になって来た。
以前は、まるで朝ドラの戦中の職業婦人のような地味なブラウスとモンペでこそないものの、黒の地味なパンツ姿だった。
熱帯魚のようにド派手な一ノ瀬紫と共に、どっちも異常な女だと思っていたものだが。
あのとろんと碧い沼の下は、もしかしたらゴツゴツした岩になっていて、よっぽどしたたかに頭を打ったのだろうか。
「あいつが、女の子とまともに付き合えるとは思えないですけどね」
「・・・でも、子供のやったことだし・・・」
「でもやられた方はそう思わないですよ。女の子の親は当然激怒だから、いそのお母さんも、いつも菓子折持って行って、謝ってましたもん」
「・・・え」
「あいつんちの家に、菓子箱がいつもありましたよ。謝罪用の。うちの母親なんか、おせっかいだから一緒に謝りに行ったくせに、逆に相手の親の事を叱りつけて大変で。おんぶした梅はギャン泣きだわ、いその母ちゃんがうちの親と相手の女の子の親の喧嘩止めてるみたいなおかしなことしょっちゅうしてましたし・・・」
東海林は当時の様子をありありと思い出す事ができる。
それから数年後、五十六の母親はいなくなったのだけども。
子供ながらに、とてもきれいで優しくて、レース編みなんかするタイプの女性だったと覚えている。
中学の頃、母親が録画もしたと言ってつけたテレビには、ニュージーランドの農場で、現地人の夫と農場で暮らす彼女の姿だった。
母とは年賀状のやり取りをしていたとは知っていたが。
「まー、ほんとに麗ちゃんだわー。顔を見たのは久しぶりよねー。ねえねえ、ゴンちゃん、いっくんママ、覚えてるー?」
画面の中の彼女は、レース編みの繊細なかぎ針を巨大なフォークみたいな農具に持ち替えて、たくましく作業をする姿はで。別人なんじゃないかと思った。
彼女はいつも子供の自分の目の高さに屈んでゆっくりと話をしてくれた。
ごんちゃん、いつもいっくんと遊んでくれてありがとうね。
おばちゃん、いいにおいがするね。なんのお花のにおい?
自分の母親より年上とは思えない、幼稚園の先生よりも若く見える美しい彼女に、勇気を出してそう聞いたことがあった。
・・・あこれはマグノリア・・・木蓮っていうお花のにおいよ。
初めて図鑑でその優雅な花を見た時、ぴったりだと思った。
妹の梅でもなく、母の蕗子でもなく、マグノリアという名前の女性。
考えてみれば、初恋だったのだ。
それが、画面の向こうで馬糞と格闘している姿でもろくも崩れ去ったわけだが。
東海林はだからこそ思う。
女は、環境だ。
「先生。もういいですか」
考え込んでいる様子の環にそう声を掛けた。
「え・・・、ああ、はい。ごくろーさん・・・」
東海林は一礼すると、職員室を出て行った。
五十六はしばらくそのままぼうっと座っていた。
あまりいいイメージのない母親のことを、東海林がつまびらかにした事実に軽いショックを受けていた。
自分の記憶にある母親はいつも神経質にしていて。
父親とは口喧嘩もしないほど、すでに溝の出来ている状態で。
ある日、バイバイと言って出て行ったというイメージなのに。
昔、自宅に、有名店の羊羹の入った菓子箱が常に山積みになっていたのは、自分のした悪さに対しての相手方への謝罪用だったのか。
よく勝手に箱を開けて一本食いしていたものだが・・・。
少しだけ、母親に対して見方が変わったかもしれない。
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