第27話 ヤギとの出会い

翌日は、土曜日。

主治医に予約を取って、検査をする予定になっていた。

一三が病院まで送迎してくれるはずだったが、本社のサーバーがクラッシュしたと連絡が入り、慌てふためいて出社して行った。

だが丁度いい。病院で五十六と待ち合わせることになっていたから、もしニアミスしたら面倒なことになる。

最寄りの駅から、電車を乗り換えて、ほぼ三十分といったところだ。

平日の朝とは違い、行楽客の姿も多い。観光客とおぼしき親子連れや、デート中のカップルもちらほら見かけた。

しかし、そんなことには関係無く、部活や勉強に精を出す学生や日祝関係のないビジネスマンもいるわけで。

階段を下りきったところで、環の前を歩っていたサラリーマン風の五十代の男性が、持っていた缶コーヒーを落とした。

社会人は土曜も大変だよね、と環はつい目で追っていた。

空だったのだろう、コーヒー缶は、コンコン軽い音を立てて、床を転がっていく。

「課長・・・?」

隣の部下と思われる男性が、その足元の缶を拾おうと、手を伸ばした。

「ああ、ごめ・・・」

と頷いたまま、男性の体がゆっくりと傾いだ。

そのまま、片膝をつき、床にしゃがみこんでしまう。

周囲がざわついて、人垣が割れた。

彼は苦しいのか、荒く浅い息を繰り返していた。

「課長!大丈夫ですか?!」

部下が、慌てた様子で肩をゆすった。

環は、隣に急いでしゃがみこんだ。

「すみません。発作かも。ゆすらないで」

突然そう言われて、まだ新人なのだろう若い青年は、戸惑ったように手を離した。

倒れこんだ男性の顔色は、血の気がひいていた。一過性の貧血や、低血糖による意識消失というような状態ではないようだ。

突然倒れた、ということは、持病のてんかんや、脳溢血や心筋梗塞の可能性が高い。

「持病とか、飲んでる薬とか、わかりますか」

青年は、首を振った。

脈を取ると、・・・遠いな、細いな・・・という印象だった。

逃げようとする細い命の鼓動を、なんとか掴み取る。かすかな命の音だ。

よし、捕まえた。離さないからね・・・。

環は集中して、脈を辿った。

まず観察しなさい、脈を取って。脈をとれば、大体わかるものよ。

と、長年赤十字で緊急医療の看護師を務めている母がよく言っていた。

脈が飛ぶ・・・、飛ぶ・・・。

環は男性の口に顔を近づけた。

呼吸をしていない。顔色がみるみる土気色になっていく。

青年が、腰が抜けたようにへたりこんだ。

大丈夫。ここは駅だ。

「すみません!AED持ってきて!」

立ち上がって叫んだ環に、駆け寄ろうとしていた駅員が大きく頷いた。


 環はそのまま男性と共に救急車に乗せられて、海天堂病院にたどり着いた。

心臓といえば、ここだものねえ・・・・。

夢中だったせいだろう、環は知らず頭を怪我していたのだ。

どこで切ったのか、打ったのか。全く覚えていない。

結局、まるでホチキスのような機器で、パチンパチンと三針止められた。

薬も塗らない。ガーゼも当てない。メロンみたいなネットもかぶらないのかと聞いたら、今はそんなことしないと若い看護師が笑った。

予約の時間を少し遅れてしまったが、看護師が事情を説明してくれて主治医が予定をずらして待っていてくれた。

初めて会う主治医は、青柳先生と言う四十代後半の医師だった。

「久しぶりだね。いっくん。お手柄だったねえ。・・・ああ、ここパッチンされたのか。かわいそうに」

小さい頃からの親しみで、彼は環の頭を軽く撫でた。

「・・・あの、さっきの人は・・・」

「うん。心筋梗塞。でも、おかげさまで心肺停止時間が二分程度だって?ダメージは少ないよ。明日には意識も戻ると思う」

ほっとして環は椅子に座った。

心停止時間が5分超えると、身体的に重い後遺症が残ることが多い。

脳へのダメージを防ぐため、心臓マッサージを続けていたのが良かった。両腕と、手首と、指先が痛い。大きく口呼吸をしていたせいで、顎がガクガクする。

「しかし。すごいなあ。適切な処置だったよ。偉かったなあ。どこで覚えたの?」

救急隊も感心していた、と彼は続けた。

「・・・えーと・・・」

大学の実習で。とは言えない。

「・・・授業で。林間学校の前に、担任の先生が養護教諭なので、教わりました」

嘘ではない。実際、林間学校直前の学年合同集会で、体育館で皆の前で人工呼吸とAEDの使い方を指導したのだ。何人が真面目に聞いていたかは、別として。

「ほおー。最近の学校はすごいなあ。助からなかった患者さんをここ数年だけでも何人も見て来たよ。すぐそばにAEDはあったんだけどね」

環は頷いた。

医療現場に携わる者は、そう言う。母も、よく言っていた。

「・・・そうなんです。だから授業で若い世代に伝えるのが大事・・・」

環がはっとして顔を上げた。

驚愕と感動の入り混じった視線とぶつかる。

「いっくん・・・。ちょっと見ない間に、随分大人になって・・・」

「いやいやいやいややいや。・・・先生が、言ってたんです!」

そうなんだ、と更に感心したように青柳が大きく頷いた。

その後、心電図や、MRIを取り。血液検査もして。

検査の簡単な説明を聞いてから、待合室に戻ると、高久が手にビニール袋を下げて待っていた。

「おー、おつかれさま!いやー、大変だったな。さっきのおっさん、もう大丈夫だってよ」

待ち合わせの時間を超過して、イライラと待っていた五十六は、救急車から車椅子に乗せられ頭から血を流している環と出くわした。

その後に、ストレッチャーにぐったりと体を横たえた患者が運ばれていき。

環は手短に説明すると、処置室に運ばれて行ったのだ。

顔見知りの看護師に、まさか本当のことなど言えないので、たまたまお見舞いに来ていたのだが、担任しているクラスの生徒が運ばれてきたのだが、どうしたのか教えて欲しいと言って事情を聞いたのだ。

本来なら個人情報なのだが、たまたま居合わせたのだけど、お手柄でしたよ、と救急隊からも褒めてくれて大体の内容を聞いた。

「これ」

ずいっとビニール袋を押し付ける。

「腹減っただろ?ここの売店のサンドイッチ、うめーんだよー」

「あ、ありがと・・・」

そういえばすっかり忘れていた。3時過ぎていた。

一番近い椅子に座り込む。

「・・・あー・・・びっくりした・・・・」

正直、今頃実感が来た。

林間学校の準備の時、やる気をみせない生徒達に、ちゃんとやれ、真面目にやれ、真剣にやれ、ビビるな、と叱りつけたが。子供達には酷なことを言っていたと気づいた。

指先が今頃震えていた。

たまたまうまくいったから良かったけど。

あの男性が助からなかった場合の事を考えると・・・今更ながら恐ろしくなった。

もう家に帰って、鯖缶でも開けて熱燗飲んで寝たい・・・。

しばらく酒等飲んでいなかったから、きっと気持ち良く一瞬で寝れるだろう。

サンドイッチを頬張っていると、五十六が、頭の傷に気づいた。

「・・・せ、先生・・・。俺の頭に、金属の何かが刺さってんだけど・・・」

「ああ。何か、切ったらしくて。ホチキスみたいのでパッチンされた」

「おおおーーー怖ェエ・・・。俺じゃなくて良かったーーー」

見ないように見ないように、五十六は顔を遠ざけた。

「・・・しかも、そこハゲになってるっぽいんですけど・・・」

「カミソリで少しね。だって、剃らなきゃパッチンできないじゃん」

サンドイッチをぺろりと平らげてしまうと、環は一緒に入っていたプリンの蓋も開けた。

ホチキスで留められた頭して、よくまあばくばく食えるな・・・。と五十六はなるべく傷口を見ないように顔を背けた。

「来週抜針するって。また来なきゃ」

「ううう。今度は針抜くのかよう・・・。こええーー・・・」

ヘタレめ。

「あんたね。そんなこと言ってるけど。検査したんだからね。必要あったら手術なんだからね。ザクッといくのよ?」

「言わないでくれよー・・・。もう怖いんだから・・・。あー、マジ良かった。先生が俺の体入ってて・・・」

なんと無責任な。

「でもあの青柳先生って思ったより若いのね・・・。大丈夫なの?」

年齢でどうこう言いたくないが。

「大丈夫だよっ。アル中で死んじまったけど、伝説のゴットハンド・鬼首先生の一番弟子が青柳先生なんだぞっ。鬼首先生は、外科医と爆弾処理班と配管工は経験と手先の器用さが大事だってよく言ってたもんよ」

「ま、切ったり貼ったりする仕事は大体そうでしょうけど・・・」

あ、と高久がエレベーターの方を見た。

「ヤギ先生だ」

環も振り向いた。

・・・まさか、検査結果がよほど悪かったのだろうか・・・。

「ああ。良かった。まだ居たね」

「先ほどはお世話になりました」

ぺこりと環が頭を下げた。

「検査頑張ったね。検査結果が出たわけじゃなくて。いっくんが助けた男性がね、今さっき意識を取り戻してね」

気丈な人で、目が覚めて大体の状況を理解したら、助けてくれた学生にどうしてもお礼が言いたいと言ったそうだ。さすがに集中治療室で直接会うことは無理であるとして、それで慌てて青柳が五十六を追い掛けて来たということらしい。

「そうですか。良かった。後遺症はどうですか」

「うん。今後の状況次第だけど、そんなに問題ないと思うよ。手足の感覚もしっかりしてた。たいしてリハビリは必要ないんじゃないかな、治療だけで」

環はほっとした。

脳血管を切ったわけではないから、四肢に麻痺が出るとか、言葉が不自由になるとかの心配はないだろうが、それでも心臓が止まり、呼吸が止まると言うことは、わずかでも脳に酸素が行かなかった時間がある、ということであるから、心配だった。

「・・・良かったあ・・・」

五十六がしみじみ呟いた。

体に爆弾を抱えるのは自分も同じだ。心穏やかではなかった。

「・・・・ええと。こちらは・・・」

環の姿をした五十六を青柳がにこやかに見つめた。

「えーと。あの、さっき言った、先生です。担任で、養護教諭の」

「え。あ。そうです。・・・ほんとにたまたま、知り合いのお見舞いに来ていましたら、偶然、高久くんに会ったんです」

不自然だろう。

ほら、ご挨拶、と環が五十六に小声で叱咤した。

「あ、ええと。・・・いつも、生徒がお世話になっております。担任の金沢環です」

「そうでしたか。心臓外科医の青柳宝と申します。いやいや、先ほど、先生の授業の成果のおかげだといっくんと話していたんですよ。素晴らしいですね、授業で心肺蘇生法や、応急処置を教えるというのはとても意義のあることです」

「はあ?」

きょとんとしている五十六の脇を環が小突いた。

やっぱり。ろくに覚えちゃいない。

「嫌だなあ。先生っ・・・。ほらっ、臨海学校の事前準備で、学年皆で体育館で、心肺蘇生法とかAEDの使い方、やったじゃないですかー・・・」

消防署の職員とも打ち合わせして、当日指導に来てくれるように頼み込み、資料を作り・・・。こっちがどんだけ時間がかかったと思っているんだ。

「ええ?・・・あ、ああ・・すごーい・・・ミラクルー・・・」

五十六がこれまた適当なことでごまかした。

内心、環は舌打ちしたが。

しかし、青柳は、ぎゅっと五十六である環先生の手を握りしめた。

「いえっ。ミラクルなんかじゃありませんよ。先生の情熱と、努力の結果です。素晴らしいことなんですよ、これは。感動・・・いえ、感激しました」

五十六は驚いて目をぱちぱちさせていたが、環の方もまた感動していた。

そんなこと言って貰える日が来るなんて・・・。

生徒達の、そんなの関係ねぇ的な態度に、もう来年からはやるもんかと思っていたが、来年も再来年も応急処置の授業はやろうと心に決めた。

「・・・・あ、し、失礼しました・・・」

青柳が、手をぱっと放した。

「いえあの。僕ですね、本当に嬉しくて。授業でちゃんとした応急処置を教えているだけでもすごいのに、子供の時から知っているいっくんがそれを実践して、いのちを救ったわけですから・・・」

「うんうん。そうですよね。わかります・・・」

環も目がうるうるして来た。

「・・・あ、はい・・・」

気まずそうに五十六はただ微笑んだ。

困った時は、笑え、と環に言われているからだ。

「亡くなった鬼首先生も、きっとすごく喜んでくれてるよ、いっくん」

居心地が悪くて、五十六は環にさっさと帰ろうと耳打ちした。

「え。・・・あ、先生、ではまた、検査結果が出る来週にお伺いします。ありがとうございました」

「うん。待ってるね・・・、あ、それと、ちょっとすいません」

胸ポケットから、青柳が名刺を取り出した。

「改めまして。いっくんの主治医の青柳です。・・・どうぞ、今後ともよろしくお願いします」

はあ、と五十六が名刺を受け取った。

・・・これどうすればいいんだろう、という態度に、環は、また小声で、一読して、しまいなさい。と言った。

「は?イチドクってなんだよ?」

「・・・読むふりくらいしろってこと・・」

五十六は名刺なんか携帯していないし、さてどうするか、と思案していたのだが。

「あ、じゃあ。ヤギ先生、名刺もう一枚ちょうだい」

「・・・ああ、はい」

親しげにそう呼ばれたのに少し驚いたが、彼は素直に名刺を手渡した。

ポケットからペンを取り出して、名刺の裏に何かを書いて青柳の手に戻した。

「それじゃ、失礼します。高久くん、行きましょう!」

「・・・え?あ、はい。・・・では失礼いたします。お世話様でございました」

ぺこりと頭を下げ、環も元気よく前を行く五十六を追った。

青柳は二人を見送ると、手元の名刺の裏側を見た。

金沢環のメールアドレスのようだった。

「・・・・kamehame-ha@・・。おもしろい人だなあ・・・」

それは本当は五十六のメールアドレスなのであるが、そんなこと知る由も無い青柳は大事そうに名刺をポケットにしまい込んだ。


「ちょっと、何書いたのよっ」

「えー、名前だよ。ただ単に、学校名と先生の名前。俺、名刺なんか持って来てないもん、しょーがないじゃん」

「だからって、ひとさまの名刺に名前書いてつっ返すなんて、最低じゃないのよ?しかも、黒ボールペンじゃなくて、何なのそのぶっといペンは?」

「すげえんだぜ、これ。アスファルトにもガラスにも鉄にも書けんの」

「そんなものに書く機会、あんた、あるの?」

うーん、と高久は首をかしげた。

「いや、ねえけどさ?」

くるん、と高久が環を振り返った。

よだれが垂れそうなゆるんだ口元で、高久がある提案をした。

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