第26話 兄の直感
東海林たちとのラーメンを食べに行く話を断って、環は早めに帰宅しようと、駅に向かった。
東海林や高橋は残念そうだったし、有名な激辛ラーメンを食べに行こうと言われて、少し心惹かれたが、それどころではない。
いつもは厳選する夕食の材料の買い物もそこそこに、慌ただしく門扉を開けた。
毘沙門様は神無月いっぱいは不在だと言っていた。ならば、次の霜月である十一月一日からは在宅というわけだろう。在宅というかはわからないが。
それまで、あと二週間ばかり。最初は、五十六の心臓の手術や、受験の事も考えていたが、何としても早く身辺を整理して、元の体に戻っておかないと、どんどん人生こんがらがって行きそうだ。
台所に食材を持って向かうと、ちょうどコーヒーを入れていた一三の姿があった。
「お。いそ、おかえりー。今日は何だ?」
「・・・ただいま。・・・スーパーで、茄子のいいのがあったから、秋野菜と鶏団子で蒸し物を・・・。あと、コロッケ・・・」
「お。いいねえー。日本酒もいいけど、コロッケならビール買ってこようかなー」
呑気にそう言う一三に、環は向き直った。
「おにい、さん・・・。あの・・・」
真面目な顔で迫られて、少し圧倒された一三が身構えた。
「なんだよ・・・。あ、冷蔵庫にあったパンの耳の揚げたやつ。食っちまったからな」
サンドイッチを作るのに、食パンの耳を落としたものを取っておいて、昨日唐揚げの前に揚げたのだ。自分のおやつにしようとは思っていたが・・・。もうそれどころじゃない。
「別に、いいです。大丈夫。・・・あの、金沢環先生のことなんだけど・・・」
そう言うと、ぽっと一三の頬が染まった。
これは、ヤバいかもしれないと、直感した。
「・・・あのね、知ってるんだと思うけど、金沢先生は既婚者でね・・・」
「だからあー。それは何回もお前に聞いたってー」
「だよねえ。・・・うん、知ってんだよねえ・・・」
五十六もまともに説明はしたのか。
では、一三は何のつもりなのだろうか。
「僭越ながら・・・もしかして、いわゆる、フ、ファンってこと?」
自分で言ってて恥ずかしいが。
「ファン?・・・そうだな。そういうのもあるかもしれないな」
シルバーのメガネを直しながら彼は呟いた。
やっぱりそうなのか。そういうジャンル分けなのだろうか。
「そうだな。弟が大変世話になったわけだし、感謝もしているし、尊敬もしている」
「そ、尊敬って・・・。・・・そこまでじゃない・・・困りますぅ・・・」
尊敬っていうのは、よく受験で、両親ですとか言うが・・・それこそご両親とか、マザーテレサとか、ガンジーとか、野口英世とか、そういう・・・。自分がそんな・・・。
そういうのは。偉人的に使う形容詞であって・・・。
「いや、そういうのは大事だぞ。尊敬のない愛など、ただの興味。性の対象でしかない」
「・・・はあ?」
何言った?このメガネ、今何言った?
「まあ座りなさい。いそ。お前にもそういう大人のきちんとした話をそろそろした方がいいのかもしれないな」
一三の周囲に先輩風がびゅうびゅう吹いている。
呆然としたまま環がソファに座ると、一三が満足気に話し始めた。
「いいかい。五十六。お前の年だと、女の子に興味があるだろう。この先、きっと高校、大学かな?女の子とおつきあいをすることがあると思う」
この先どころか、このバカ、お互い体目当てで教師と付き合って、フラれて追いすがって病気まで貰って大変だったんですよ・・・。
環は心の中でそう呟いた。
「その時に、お互い尊敬の気持ちがなければ、きっとうまくはいかないんだ、残念だけど」
環は、はっとして口元を押さえた。
「・・・ああ、確かに・・・」
高久と紫も、紫とアキラもぜんぜんうまくいってなかった。
尊敬が無かったからか・・・。
でも、尊敬が、すべての男女の間にあるだろうか。例えば、うちとか・・・。
環は自分の身を翻って、考え込んだ。
そもそも、自分たちはうまくいっているのだろうか。
意外なことに、環は今まで、うまくいっていないと考えた事が無かったのだ。
そりゃラブラブではないが、こんなもんだろうと。
しかし、よくよく考えてみると、破綻こそしていないけれど、お互いにあまり尊敬どころか興味が無いのでは・・・。
尊敬とは?環の中で、何度も繰り返される。
「環先生のところは、どうなんだろうか・・・」
一三の問いに、環は腕を組んで考え込んだ。
「どう、なんでしょうか・・・。愛着はあると思います。ただ、尊敬となると・・・」
つい、五十六の姿であるのを忘れて、環はうつむいたまそう答えていた。
「そうか。・・・それは果たして、愛着なのかなあ」
「え・・・?」
顔を上げると、一三の視線とぶつかった。
「執着じゃないのかな・・・・。それも、相手ではなく、自分に対する執着」
「ええ・・・っ?」
・・・この人、何言ってんの・・・?
「もしそうなんだとしたら、お互い早くやり直すという選択肢は十分にあるよな」
「・・・と、というと・・・」
「うん。尊敬し合える配偶者と新たな関係を築く、ということだな。いそにはちょっと難しいかな。つまり、今の夫と離婚して、俺と再婚するってことだな、平たく言うと」
「えええええっ?!何でそうなるんですか?!ダメでしょう?!」
「なんでダメ?」
「なんでって・・・。ダメでしょうよ。だいたい、あなた、わた、じゃない、先生の何を知ってるっていうんですか?」
「これから知ればいいよ。そう言うお前は知ってるのか?」
「そりゃ、・・・ある程度は・・・・」
ふうん、とつまらなさそうに一三はまた眼鏡を直した。
「じゃ、聞くけど。環先生の旧姓は?」
「韮崎・・・」
だから子供の時からずっとニラタマというあだ名だったのだ。小学生のおさげの自分は自分の姓を呪ったが、今では夫の姓のおかげてもっと不名誉なあだ名をつけられている。
「誕生日は?」
「三月一日です」
「趣味と特技は?」
「フクロウグッズ集め。特技と言えるかわかんないけど、クロスワードパズルとか得意です。あ、学生の時、テニス部と華道部と茶道部だったから、一通りは・・・」
「ふうん。そうなんだ」
「好きな食べ物は?ケーキと?」
「え?まあ、ケーキも好きですけど・・・。辛いものと、甘い物と、酸っぱいものと・・・粉モノも好きです」
あまり好き嫌いは無い方だ。
一三が不満そうに眉を寄せた。
「・・・なんかさあ。前から思ってたんだけど。随分、詳しいよな?」
「ええ?」
つい誘導尋問に乗せられて、いろいろ答えてしまった。まずかったか。
「・・・そんなことないです」
「いや。詳しい。・・・前々からちょっと変だと思ってたんだ。もしかして、環先生なのか」
ズバリと言われて、血圧が一気に下がった。
・・・ばれた・・・。
しまった。喋りすぎた。
いつからばれていたのか・・・。
考えてみれば、兄弟だもの。
違和感を感じて、当たり前だ。
もしかして、この人、霊感とかそういうのがあって・・・、自分の姿が見えていたりとかするのかもしれない。
環は、顔を上げた。説明しなくてはならない。
「あの、お兄さん・・・」
どう言えばいいのか。有りのままを伝えて、そして、あんた教師だろう、何やってんだと言われたら、返す言葉がない。
やっぱり、という顔をして、一三が椅子に深く座り込んだ。
「・・・よりにもよって・・・・」
「あの・・・本当に、何と申し上げたら・・・」
もういい、と一三が手で制した。
「あの、でも、私と致しましては・・・」
最善の方法を探っている最中で・・・。
「もういい。いそ、横恋慕はいけない」
真剣な顔で一三が言い切った。
「・・・・はい?」
「毎日顔を合わせて、そしていろいろと親身に相談に乗って頂いた先生に、お前がほのかな恋心を抱いたとしても、俺は責められない。だけどいそ、ここは兄ちゃんの為に堪えてくれ」
・・・・どうしてこの人は、自分の想像の斜め上を行く思考の持ち主なのだろう。
五十六は行動がぶっとんでいるが、この兄は、思考がどこか普通ではない。
「いやいやいや、そんなつもりないから・・・・。だいたい、好みが全然違うし・・・」
五十六は紫みたいな、もっとこうボンキュッボンでフェロモンが匂い立つようなタイプが好みなのだ。
地味で、老化劣化の倦怠感だだ漏れの自分は、彼のバッティングゾーンからは大きく外れる。
「本当だな?!環先生との事を応援してくれるな?」
肩を掴まれてがくがくと揺らされた。
脳貧血になりそうだ。
「・・・いやいや、だからねえ・・・。それはないでしょうって・・・」
どっと疲れる。
ああ、この人の同僚は大変だろうなあ・・・・。
困惑しても、親が経営者だもの、誰も文句も言えないし。
自分のマイペースさを自覚しないまま、そのまま大人になっちゃったんだなあ・・・。
「お兄さん。あのね、別にさ、環先生じゃなくても、もっと若くて可愛い子いっぱいるでしょうよ。そうねえ、二十四、五の方とかいいんじゃない?いない?まわりに・・・」
「いる」
「でしょう?言っちゃなんだけど、環先生は、おばちゃんだからね。一般の、世の三十歳女性以上に、おばちゃんなの。あのー、お兄さんの会社にいる三十歳のOLさんとかは、きっと、手間暇かけてきれいにしてらっしゃるから、同じようなものだと思ってるかもしれないけど・・・」
大手商社のOLなんて、環から見たら芸能人と似たようなものだ。
女子力もはるかに高いのだろう。
「きっと、就職してから、ずっと転勤と出張を続けてるから、タイミング逃しただけで・・・」
親戚のおばちゃんによく聞く。息子が大手メーカーさんとかで、転勤を繰り返しているうちに婚期を逃してしまったと。だが、婚活パーティー等の出会いをきっかけに、結婚する率が高いと。
お互い結婚したいと思っているのだから、いい縁があれば、話は早いのだろう。
環のそんな四方山話を無視して、一三はさらに環をがっくんがっくん前後に振り回した。
「・・・環先生と、だんなさんは、何がきっかけで付き合ったんだろう」
「はあ?・・・まあ、なんとなく?」
友達の結婚式で出会い、その二ヶ月後、親戚の葬式でも会ったのだ。
偶然は重なるものだと縁を感じ、連絡先を交換し、何となく付き合うようになって結婚した。
「なんとなく、交際し、なんとなく結婚した?」
「・・・言っちゃえば、そうなりますかねぇ」
特に、結婚しない理由もなくて。トントンと話が進んでしまったのだ。
「いそ。兄ちゃんは、そんななんとなく婚を受け入れる理由がない。直感でわかってはいたが。やはり、そうか。よし。まずは、俺の気持ちが真剣なんだと知ってもらう為に、メール・・・いやいや、失礼だな。文章でファックスでも・・・」
「既婚者の自宅に、そんなファックス送るバカがどこにいるんですか・・・」
「・・そっか。やっぱり直接申し上げ、時間をかけて、誠意を伝えるべきだな」
環は、自分にはこの人の説得は無理なんだとわかった。
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