第22話 怪我の功名
翌日、環は、暗い表情で待合室に座っていた。
高久の代わりに、大学受験だって、警察官試験だって受けてもいい。嫌だけど、ダメだけど。でも・・・これは嫌だ・・・。
「はーい、高久五十六・・・くん?」
のっそりと立ち上がった患者に看護師は驚いて後ずさった。
「・・・はい」
どうしても泌尿器科に行きたくない環は、考えて考えて、そして、環は思いついたのだ。
高久は未成年だ。小児科にいける!と。
周りは予防注射の乳児連れの若奥さんや、おでこに冷えピタを貼られた小学生くらいの元気な病人達が走り回っていた。
場違いなのは仕方ない。
環はきっと隣で身の置き場がない様子の男を振り返った。
アキラである。
五十六が何度も店に電話をして、来ないならネットで所業晒してやると脅して、呼びつけていたのだ。
しおしおと出した保険証には、氏名、三条昭和と書いてあって。
「・・・本名、昭和で、アキカズっていうのかよ!?」
イメージが大事な仕事なんだと、三条氏は小さく答えた。
「・・・アンタも来な!」
ニット帽を目深にかぶったアキラは小さく頷いた。
診察室に入ると、丸椅子に座れと言われた。
「はい、アーンできるかな。はい、もしもししようね。・・・うん、大丈夫」
優しそうな五十代くらいの医師が、どうしたのかな?と小首を傾げた。
環はこそこそと耳打ちをした。
「・・・・すみません。大変恐れ入りますが・・・カンジタの疑いがありまして、あと性病検査して頂きたいんです・・・」
「・・・うん、オッケー。・・・あ。いいよ、パンツ脱がなくて」
環はホッとしてズボンをずり上げた。
「カンジタなんかはねぇ。赤ちゃんも、舌とか陰部に出来ちゃったりするしね。体調落とさないようにね。・・・でも他の性病なんかは心配だよねえ・・・」
検査会社に回す書類を書きながら、彼はそう言った。
「君、そう遊んでる風にも見えないからさ」
「・・・・一回だけなんです」
紫との関係は一度だけだと高久はそう言っていた。
「・・・相手がどうもカンジタにかかったと聞いて・・・。心配で。ほ、保健の先生に病院行くように勧められまして・・・」
「うん。そうか。保健室には行ってるんだね。うん。じゃ、いいよ。来週また来てね。で、そちらは?保護者さん?」
アキラが、いやあと首を振った。
「この人が原因なんで。性病検査、全部してください。全部」
「・・・・俺だって被害者かもしれないじゃないか?!」
ああ?!と環が凄んだ。
中に入っているのは、三十代女性だが、外見は勢いのある高校生男子なのである。なかなかの迫力である。
後ろめたい気持ちのあるアキラも、うっと言葉に詰まった。
どういう関係なのか、と看護師達は怪しんだが、医師は涼しい顔で、ハイハイと書類に記入をした。
一週間後、検査結果を聞きに行くと、医師は良かったね、と検査結果用紙を手渡した。
「・・・・全部陰性・・・・」
ほっとして、環は泣き出したい気分だった。
「・・・良かったね。でも今回は運が良かったのかもしれないよ。・・・話し合って、彼はもちゃんと治療するように伝えてね」
アキラのことだ。アキラはやはりカンジタだったらしい。
「・・・はあ・・・って。別に、あの人と関係ないんですけど・・・」
どうも誤解されたようだが、お世話になりましたと頭を下げて、診察室を出た。
最近、環の授業の評判がいい。
今までは、黒板いっぱいに文字を書き、プリントを配り、ミニテストをする・・・というローテーションだったのが、いろんな視覚的な資料を出してくるようになった。
そもそも保健の授業自体が少ないので、環が指導して、高久に授業の進め方をみっちり教え込む時間はある。放課後、ディスカウントストアや100均で使えそうな道具や文房具を買って来ては少しずつ準備していたのだ。
「・・・今日は、皆にちょっと知ってほしいことがあって」
パソコンの画面をホワイトボードに投影しながら、高久が口を開いた。
なぜか先進国の中でも日本の若い世代、そして高齢世代に性病が増えていることを示すグラフだ。
すごいテーマだな、と五十六は気乗りしなかったが、環に、身近な話題じゃないの、今のあんたにぴったりじゃないの、と嫌味を言われて、そうですねーとしか言えなかった。
しかし、出来上がった資料は我ながらなかなかのもので。
怪我の功名というやつかもしれない、と思ったりした。
環が自分の席で、心配そうに教壇を見つめていた。時計を指差して、早く授業を進めろと、口でぱくぱく言っている。
「・・・ええと、性病にもいろいろありまして。体調が悪いと、公衆浴場とかプールでうつって来ちゃうものもあるんですね・・・。抗生物質飲んでいて、発症しちゃうとか」
人間の体とは不思議なバランスで保たれていると高久も驚いた。
「・・・で、あの・・・一応、画像は用意したんだけど・・・。その、男性の、症例ごとの・・・。こ、これは各々ネットで見てください・・・心臓弱い人は気をつけて・・・」
だから自分は見ないほうがいいんだけど・・・。環は、視覚的に分かりやすくしたいと、あろうことかA2サイズに印刷してでっかいパネルに貼ろうとしていたのだ。
なんで自分の心臓が止まらないのか不思議だ。
「データ!データにしよう、先生!ほら、パネルに両面テープで貼るのも大変だし!」
と高久が説得して、なんとか環は思いとどまってくれたのだが。
女って神経太いよなあ・・・・。
「男子諸君・・・、画像見ると、本当に、後悔するから、ならないほうがいいよ・・・」
青い顔でそう言う養護教諭に、これは相当だと生徒達はゴクリと生唾を飲んだ。
見せりゃいいのに!と環が憮然とした顔をしているのは分かったが、同じ男である友人達にこんな悲惨かつ無神経なものは見せられなかった。見たい人は自分で見てくれ、としか言えない。
「ええと。・・・とりあえずですね。男性のほうは、それとして。はい・・・」
気持ちを立て直して、高久は手元の資料に目を落とした。
「女性にとって問題が多いんです。性病が原因で、不妊症になる場合があるんですね。お互い知らずにってこともありますから。でも、大切なパートナーにそんな思いさせるのは嫌でしょう?」
環が休憩中、高久が買ってきた炭酸飲料をうまいうまいと次から次に飲み、資料をあれこれ高久に見せながら、言うには。
まあそのジュースが、よく見たらチューハイだったのは、黙っておく。
卒業したての頃、先輩の産休の間、ある高校に赴任していたことがあるそうなのだ。
その時に、一人、性病にかかっていた女の子がいたの、と。
別にその子も、その相手の男の子も、遊んでたわけではないのよ。不思議でしょう。
ただ、その男の子は、初めておつきあいをしたのが彼女ではなかったそうなの。
今時、珍しくはないよね。高校三年生とかで、二人とか三人と付き合ったことありますって子もいるよね。
夏休み前にさ。その子、すごくお腹が痛くなって熱が出て保健室に来て。
私、まだ新卒だったし、これは虫垂炎か、それとも胆石かって、もうびっくりして一緒に病院に行ったのよ。
そしたら、クラミジアっていう割とよく聞く性感染症だったの。
でも腹膜炎になってて。入院して。自然妊娠は難しいでしょうって言われて。
本人は泣いて泣いて。
お父さまは怒って。でも、お母さまがねえ、娘に、自分の行動に自覚が無いあんたが悪い!ってそう言ったの。
それで、私もはっとしたのよ。
この子悪くない。だってどんなリスクがあるってこと、誰も教えてないじゃないって。
知識をつけてやんなきゃって。
先輩も私も、学校から言われて、性に関する授業には、最低限にして欲しいって言われてたの。情けない話だけど。興味ある年頃の生徒を刺激したくないからっていうのが本音で。親だって、性教育をしてくださいなんて学校には言わないじゃない・・・。でも、それじゃダメなんだよねえ。興味あるうちに知識あげないと・・・。
私、あの時。すっごい後悔したんだあ。
私さあ。あのあと先輩復帰してその学校辞めてから、やっぱりショックで、養護教諭なんか私には無理だと思ってさあ・・・。で、しばらく近所のスーパーでバイトしてたの。お惣菜コーナーとベーカリーね。お魚コーナーは、もうちょっと頑張ったら移動させてくれるって店長に言われて楽しみにしてたんだけど・・・、その前に結婚して、引っ越したから、一回辞めて・・・。
ああ、だからやたら年季の入った飯を作るのか、と五十六は合点が行った。
で、結婚もして、生活落ち着いて。仕事復帰しようって思って。どーせ旦那帰ってこないからちょうどいいし。生活費の足しになるし。
またパン屋さんいいなって思ったんだけど、ほんとたまたま、ここの学校の求人の話貰ってさ。どうしようって悩んだんだけど、男子校って聞いて。これは男の子に指導しなきゃと思って。ダメ元で応募したら採用されて・・・。ま、たいした授業できなかったですけど・・・と、言いたいことだけ言って、環は酔っ払ってそのまま寝てしまったのだが。
いろいろコイツも大変なんだな、と思って、五十六は授業の準備を真面目に協力することにしたのだ。
五十六は画面を変えた。
意外と神妙な顔で同級生達は話を聞いていた。
「望む人はいないだろうけど、望まぬ性病は予防することが出来ます。自分と、大切なひとのためにね、できることあるからね」
ちらりと高久が壁の掛け時計を見たと同時に、チャイムがなった。
時間ぴったりだ。
「はい、ではー。皆、最後に。半信半疑だったんだけど、エロ本に書いてあることの9割は嘘なんだってよー。・・・では、授業終わりです」
高久は、礼をすると、教室を出た。
よかった。とにかく無事に授業が終わった。
環もほっと胸をなでおろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます