第20話 兄、現る
環は、土曜日の休みを利用して、ほぼ一週間ぶりに、しなのの入院している病院へと向かった。娘が来てくれたから、しばらくは来なくていいと連絡が来ていたのだ。
ナースステーションに焼き菓子を差し入れてから、環はエレベーターを上がって、3階の一番奥の部屋に向かった。
今日行くとあらかじめ連絡していた。
環は、女性が入院中に連絡もせずのこのこと見舞いにやってくるようなタイプの人間は男女共に嫌いだった。
そういうタイプの人間は、突然来たのは、気を遣わせると思ってわざと連絡をしないで来た・・と大抵言うのだ。入院中の女性のところに、気を遣わせると思ったから、連絡をしないで来る事が、犯罪に近いとなぜ分からないのだろう。
ノックをすると、はい、と声がした。
「しなのさ・・・」
見知らぬ男が立っていた。
娘さんの旦那様だろうか。
「よう」
自分を見て、彼は親しげに手を上げた。
「いっちゃん、こんにちは。ありがとうね。一三さんが、丁度お見舞いに来てくれたの」
・・・ああ、高久の、兄か。
土曜だというのにスーツを着て、仕事の途中だろうか。
神経質そうなシルバーのフレーム。
う、苦手かも・・・。
と環は思ったが、環の愛用していたべっ甲デザインのメガネのフレームは、彼にも大分嫌われるだろう。
高久の体になっていいことは、目が良いことだ。
メガネからもコンタクトレンズからも解放され、目が覚めて全てがハッキリと見えることがこんなに快適だったなんて、すっかり忘れていた。
手土産は大量のフルーツとケーキと見舞金。
この大量の果物を、どうしろっていうんだ。
喉まで出かかった言葉をもう一度呑み下した。
「久しぶりです、お兄さん」
「え・・・」
「しなのさん、体調はいかがですか」
「毎日、リハビリをしてるのよ。最近じゃ、動けるようになったら寝ていないで動きなさいってことなんですって」
「ベッドで過ごすだけになると、今度は足腰が弱っちゃいますもんね」
「これ。佃煮とお漬物です。冷蔵庫入れておきますね」
甘い物やつまめるものも少し入れておこうと、飴と小さいあられとプリンを持ってきた。
「まあ、ありがとう。病院のお食事って、健康的だから、味が薄くって・・・」
以前持ってきた加湿器も、問題なく動いているようだ。
「サイズが合うといいんですけど・・・」
カーディガンを買ってきた。
「まあ。ちょっと大きめで、とてもいい。きれいな色ねぇ」
黄緑色のカーディガン。胸に小鳥の刺繍がしてある。
病院にいると気分が暗くなるだろうと、明るめの色にしてみた。
ちょっとした世間話と、普段ちゃんと食べていることを伝えると、しなのは安心して微笑んだ。
「よかったわ。・・・一三さん、いっちゃん、最近すっごくしっかりしちゃって。びっくりなのよ」
「みたいですね・・・」
驚いたというより、気味が悪いというようにこちらを見ている。
スマホにメールが入ったようだ。
急ぎの用件のようだった。
「・・・久々に会えてよかったよ」
彼は、じゃあ、失礼します。と言うと、部屋を出て行った。
「あいかわらずお忙しいみたいね、一三さん」
しなのは心配そうにそう言った。
「ちゃんと召し上がってないみたい。お痩せになったものね・・・」
「そうなんですか・・・じゃない。そうですね」
「いっちゃんは、つやつやしてるわ。良かった」
心からほっとしたようにしなのは笑った。
やっぱりね、と環はフルーツを抱えてエレベーターを降りた。
怪我で入院なのだから、特定の食べ物を禁止されているわけでもない。
だが、ケーキ一ダースと、メロンと爆弾みたいなでんすけスイカまで入ったフルーツバスケットを、初老の女性一人でどうしろというのだ。
ありがたく一つだけいただくわ、と。いちごのケーキと、好物だという桃をひとつだけ彼女は大事そうに冷蔵庫にしまっていた。
ケーキは、夜勤の介護士さんと看護師さんで召し上がってください。と持って行き、喜ばれたが。果物は困ると言われた。
そうだろうな・・・。
「ま、こんないい果物、自分じゃ買えないもんなあ。家で食べようっと。高久にもあげようっと。千疋屋かあー・・・」
これでいくらぐらいするのだろう。
果物の名産地育ちなので、子供の頃から果物は無造作に食べて来たが、こんなにぴかぴかしたフルーツは初めて見る。
中に、故郷の県名のシールがついた洋梨を見つけて、お前出世したねえ、垢抜けちゃって。私と大違いねえ、尊敬しちゃう、と声をかけた。
黄色いリボンまでつけられている。
あたりはもう暗くなっていた。
外に出て、地下鉄の駅に向かおうとした時、声をかけられた。
「いそ!」
「うわあっ」
車がすぐそばにいたらしい。
夕方のライトをつけていない黒いプリウスなんて、手練の暗殺者並みに気がつかない。
「な、なんだよ・・・」
逆にびっくりした一三がぎょとして弟を見た。
「乗れよ。電車より早い」
環はちょっと迷ったが、彼が果物籠に気づいた様子に、覚悟を決めた。
すばやく助手席に乗り込む。
「夕方、早めのライト点灯!」
「あ、はい・・・」
一三はライトをつけた。ちらりと果物籠を見た。
「しなのさん、たくさんあるから、食べきれないからって・・・。嬉しかったって言ってた。桃が大好きだから桃だけもらうって。嫌だったとかじゃないからね」
「そっか。よかった」
ほっとしたように彼はそう言った。
気がかりだったことを確認しなくては。
「・・・あのさ。次の心臓の検診って・・・」
「そうだ。お前、嫌だって伸ばし伸ばしにしててもう半年過ぎてるだろ。万が一の事を考えたら早めに行った方がいい。また送って行くから」
「うん。ありがとう・・・」
弟思いの兄のようだ。良かった。なんだかんだと、仲の良い家族であるのだ。
環はほっとした。
なんだか、疲れたなあ。
まだ少し聞きたいことがあったのだが、不覚にも眠ってしまった。
今日、見舞いに行ったのには理由がある。
わざわざ本社に呼び出した父が、なんだか最近弟の様子がおかしいと言うからだ。
「昔の慶応ボーイみたいな格好で。その上、まるでばーさんが作るみたいな体に良さそうな飯まで作るようになっちゃって。最近の様子を学校に問い合わせたら、担任の先生はご不在で、学年主任の何とかっちゅー先生が、現在学年7位の成績だとか言い出して」
「・・・・はあ?」
通いの家政婦さんのしなのの食事以外は、ポップコーンやポテトチップを毎日3袋とコーラ四リットル飲んでいたあの弟が?勉強と説教は嫌いだと言って塾にも通わず、国語辞典と漢和辞典の差もわからないあいつが。
「うーん・・・あれは頭でも打ったのか、血でも逆流したのか・・・・それとも・・・」
と、引き出しから何やら紙を取り出した。
手渡されて見て見ると、クレジットカードの明細らしい。
五十六には、自由に使えと自分名義の家族カードを渡してあった。
不在がちでなかなか会えないのもある、面倒だったのもある。
生活費や日用品のようなものは口座に毎月いくらか適当に振り込んであるのだが。
今までたいして見たこともなかったのだが、たまたま目を通してみたのだ。
「横文字でサッパリわからんが。秘書に見て貰ったら、化粧品屋や婦人服屋らしい」
「・・・・何のために?」
サッパリわからないのはこっちだ。
「だからな。もしかしたらだ」
「えー・・・あいつ女装でもしてん・・・」
「違う違う。お前はどーしてそういう男女の機微に疎いというか・・・。あれだ。女だ。しかも、かなり年上の女と見た」
「ええ?あんな十二支もまともに言えないやつと付き合うなんて相当ストレスに強い女だと思うけど・・・」
そんなアスリート級に強心臓の婦女子が現代日本にそうそういるとは思えない。
「だからだ。だから、年上の女なんだよ・・・。さすがに鋭いだろう」
断言する父に、一三は首を傾げた。
「年上ったって・・・、いそはまだ高校生なんだから・・・」
「女の年の頃はな・・・そう、あのおかずの具合を見ても・・・五十過ぎ・・・」
そんなわけないだろう・・・。
というわけで、偵察に来たのだ。
確かに、おかしい。
久々に会った自分を、兄ちゃんでもなく、バーカバーカでもなく、お兄さんと呼び。格好も確かに、きちんとしているのだ。
病室でもてきぱきと差し入れを冷蔵庫にしまったり、看護師さんに挨拶をしていたり。
その上、すこぶる女性の心理の機微に的確な説教までされた。
隣の助手席で口を開けて眠り込んでいる弟が、まるで別人のようだ。
自宅に着くと、弟を起こした。
「いーそーっ、起きろっ。なあ。夕飯、どうする。どっか食いに行くか?」
五十六の好物は、焼肉食べ放題か、ハンバーグ800gパイナップル乗せジャンボエビフライつきと大抵決まっている。
まだとろんと寝ぼけ眼の弟は、いやいい、と首を振った。
「冷蔵庫におかずがあるから、ある分、食べちゃわないと。よかったら、どうぞ・・・」
よっこいしょ、と億劫そうに起き上がり、車を降りた。
修学旅行の土産と渡された赤べこを抱えたまま、目の前に並んだ皿に、一三は呆然とした。
チンするだけだから、十分くらい待てと言われたものの・・・。
ロールキャベツに、かぶら蒸し、まぐろのすき身とあさつきの酢味噌和え、れんこんのくるみ和え、豚肉といんげん豆の煮込み、オクラとトマトのカレー炒め。タラのブランダード。きのこと魚介類のパイ。鮭の粕汁。漬物。
本屋で買ってきたレシピ本のおかげで、ちょっとハイカラなメニューが増えた、と環は満足しているのであるが。
炊飯器にセットして出かけた炊き込みご飯と、スロークッカーで煮込んでいた鮭の粕汁も出来上がっていた。
「・・・あ、嫌いなものって、何だっけ・・・?」
「・・鶏の皮・・・」
「あ、鶏の皮かー」
たまにいるいる、と今更変な相槌を打たれる。
一三は箸を取った。
うん・・・確かに、これは。年配の女性の霊か、はたまた相当年上の女の影・・・。
父が、そう思うのも仕方ない。
「なあ、いそ。これってさあ・・・」
「はい?・・・あ、粕汁しょっぱいですか?煮詰まっちゃって」
「いや、丁度いい・・。じゃなくて、これ、ほんとにお前作ったの?」
「・・・はあ、まあ・・・」
「誰かから、貰ったとか、買って来たとかじゃなく?」
はあ、と気まずそうに弟は頷いた。
「うまい。うまいけど・・・」
何というか、ちょっと前まで、台所になど入ったことがないような子供が作ったとは思えない。そう、言うなれば、年季の入った小慣れた味。
支店の近所の小料理屋のおばちゃんが作るような、そんな味なのだ。
環は、やっぱまずかったかあー、高校生、粕汁作んないよなー・・・と後悔していたが。
「・・・普段はオムライスとか食べてて・・・いつもこうではない、です」
「あ、だよな。うん、普通オムライスとかだよな・・・」
そうそう、と適当にごまかせたと思ったが、なかなかしつこい。
「・・・じゃ、これらは何?」
一三が食い下がる。
違和感を拭えないらしい。そりゃそうだろうが。
「・・・これは。教えて貰って・・・」
「誰にだよ?・・・しなのさん、いそに料理なんか教えたことないって言ってたぞ」
「あー・・・」
料理教室とかネットでとか言った方がいいのだろうか。いやしかし嘘に嘘を重ねるのはもう無理だ。じゃあどこの料理教室とつっこまれたら答えられない。ネットにしても、自分はそれほど詳しくない。
「担任の・・・・おばちゃん、先生・・・」
だって私ですから。
「・・・あ、そう。・・・そうか。・・・親切な方だな」
「そう、そうなの!親切なの!」
母親のいない弟を不憫に思って、いろいろ世話をしてくれているのだろう。
ありがたいことだ。
もしや、この更生ぶりも、そのおばちゃん先生のおかげかもしれない。
今度、カステラでも買って挨拶に行こう、と一三は思った。
環はそっとため息をついた。
やっぱ無理だって。
今年三十一歳になる自分に、男子高校生役なんて・・・・。ミスキャストもいいとこだ。
自然にしようと思えば思うほど、ますます不自然になってしまう。
高久の兄は妙に疑っているし・・・。
病院に行くまでに心臓持つかな、と思うほど動悸がする。
しかも、泊まっていくと言いだした。
自宅だから当然なのだが、明日も本社に用事があるとかで、支社の近くにある自分のマンションには明日の夜に帰るらしい。
高久にいろいろ兄の傾向と対策を聞こうと、ラインはしたが、またどこかのデパ地下をほっつき歩っているらしくさっぱり返信がない。
台所で洗い物をしながら、翌朝の下ごしらえをし、もう途方に暮れたい気分だ。
一三が風呂に入っている間に、連絡を取りたかったのだが・・・。
「おい、何か、酒無いの?」
と、後ろから声をかけられた。
風呂上がりの一三がほぼ半裸で立っていた。
「って高校生に聞いてもダメか・・・でも何か酒臭いんだけど。まさかお前・・・」
ぶんぶんと環は首を振った。
一応、高校生なのだし、その辺は弁えていた。この姿になって以来、チューハイや発泡酒すら飲んでいない。風呂上がりはいつもコーラか、アイスだ。
「こ、これかな?!粕汁の酒粕余ったから、朝ごはん用にサワラ漬けておこうと思って・・・」
タッパーを見せた。
「あの・・・食べれますか・・・。粕漬け・・・」
「ああ、好き・・・。どうもね・・・」
彼は、冷蔵庫を開けると、ソーダ味のアイスを取り出して、リビングへ向かった。
明らかに不審に思っているのが分かる。
だよなあ・・・男子高校生、鰆なんか漬けないよなあ・・・。
やっぱ無理だって・・・・。
環は、連絡を寄越さない高久を恨んだ。
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