第17話 秘密の恋の置き土産
翌朝、紫は出勤すると職員室で環の姿を見つけて、近寄ってきた。
「おはようございます。サロン早速行ったんだ。・・・ずっといいですよ」
正直な感想らしい。
通勤用パンプスから、なぜかより高いヒールのミュールに履き替えながら紫がそう言った。
「これ」
と高久は箱をぐいっと押し付けた。
「昨日、帰りに買ったから」
「ケーキ?ホールで?わあ、うれしい。ありがとうございます」
紫は笑顔になると、油性ペンで箱に自分の名前を書いて、音楽準備室の冷蔵庫に入れておくと言った。
「どうでした。担当のひと。誰にやってもらったんですか」
「アキラってひと」
ぶっきらぼうに答えると、ぱっと紫の顔が輝いた。
「アキラさん、手が空いてたんだ。上手だったでしょ?私も先週行ったから、再来週また行くんです。アキラさん、優先的に予約取ってくれるから」
「そりゃ当然じゃん。指名料かかんだから。アキラ指名料五千円だったもん」
まるでホストクラブやキャバクラ並みに指名料の一覧があった。
アキラはオーナーだからもちろんトップだったが。
「・・・・環先生、なんだか・・・」
「あの男はやめとけ」
え、と紫が一瞬怯んだ。
高久はまっすぐ紫を見た。
「・・・環先生、帰り、ちょっとお話しませんか」
高久は、うん、とだけ頷いた。
放課後の音楽準備室で、高久は紫と向かい合っていた。
ここに入るのは久しぶりだ。
数えてみれば、今まで三回だけ。いかがわしい行為に及んだ時のみ。
環には一回と嘘をついたが。三回半関係があった。
いつも頭に血が上っていたから、こんなにいろいろ物があったのには気づかなかった。
楽器や楽譜が棚に積んであった。
最後は、紫に、もう二度と入んないでよね、と言われてこの部屋を叩き出されたのだが。
また入ることになるとは。
「これ、食べません?」
紫は冷蔵庫から今朝高久から貰ったケーキの箱を取り出す。
「合宿の時に使った紙皿と紙コップたまたまあるんです」
言いながら、どこからか取り出した包丁でケーキを切っている。
「包丁もあるんだ・・・」
「何かと便利なんで」
「・・・ふ、ふーん・・・」
無理やり追いすがって刺されなくて良かった・・・。
「フォークないから、割り箸でいいですよね」
紙皿に取って割り箸で食べることとした。
普段皿もコップもフォークもないのに、包丁はあるあたりが恐ろしい。
「・・おいしい」
紫の口元がほころんだ。
「うまいよね。これ、伊勢丹の地下で売っててさあ」
「へえ。デパートなんて行ってないなあ~。駅ビルとか、ファッションビルばっかり。買い物はネットだしなあ」
「ふうん」
紫はちらりと環を見た。
「環先生、結婚して何年ですか?」
「えっ!?・・・えーと、五年目・・・?」
二十六で結婚したと言っていたから。
「そっかー。いいなあ・・・あー、結婚したい・・・」
「ええ!?」
結婚願望あるんだ?!そうは見えないけどなあ・・・。
「なんですか、ええって・・・」
「えっ?だってほら、紫先生、まだ若いし、モテるだろうしぃ・・・」
紫がちょっと肩をすくめた。
否定しないあたりが腹立たしいが。
普通、謙遜するだろ。
「・・・・生徒に手を出してるし?」
「えっ、うん。あ、・・・いや、うーん・・・・」
紫が、ミュールを脱いで、椅子の上に胡座をかいた。
「環先生、私ね、学生の頃からあのお店通ってるんです」
「え?ア、アキラの店?」
「そう。その時からずっと好きで。・・・奥さんとちっちゃい子いるのも知ってて。私から誘ったの」
「ええ?!あんたらマジで付き合ってたの?!」
半分カマをかけたのだけど。
「といっても。本当にたまに呼ばれた時に会えるくらい。でもね、いつ連絡来るかわからないでしょ。週末かもしれないし、平日かもしれない。だから、自分の予定なんか何も入れないでずっと待ってたの」
・・・・ああ、わかる。自分と一緒だ。
紫から気まぐれに来る連絡をドキドキしながら待っていた。
「呼ばれて行くでしょう。そうすると、違う女の子と一緒にいたり。行ったのに、他の女の子から連絡来たりすると、じゃあねってそっち行っちゃったりして」
「・・・うわー、すげえゲスッぷりだなあ・・・ひくわー・・・」
「でしょ?でも、もっとひくじゃない、そんなのに必死な女なんてさあ」
ああ、そうか。
だから、こいつ、いっつも過剰に着飾ってるんだ。
いつ、アキラから連絡が来てもいいように。
さすがいつもなんの予定もない環とは違う。
「私ね、男でイライラすると別の男で解消するタイプなんです」
・・・・・ひどい。
改めてハートを切り裂かれたような気分だ。
「生徒ね。私が来てって言うと・・・うきうきして来るのよ。コドモのくせに。・・・自分見てるみたいで、嫌だったなあ・・・」
ああ、自分の事だ、と高久は気付いた。
紫から連絡が来ると、いつも舞い上がっていたから。
「・・・なんで生徒なんだよ。結婚したいんならさ、普通のヤツと付き合った方が効率いいじゃん」
だって、と紫が下を向いた。
「誰かと付き合っちゃったら、アキラさんとこ行けないじゃない。あ、もう、生徒に手は出してないからね。言っとくけど」
「じゃ、アキラとは、もう止めんの?」
それは、と紫は歯切れが悪かった。
「・・・・わかんない。連絡きたら、多分また行っちゃうかも。・・・まああんまり来ないんだけどね。・・・ただ。話せてよかった。こんな話でも、誰かに話せて嬉しい」
なんで誰にもできないような恋愛ばかりずっとして続けているのか。
「ごめんね、ちゃんとした奥さんの環先生にこんなこと話して」
環の結婚生活がちゃんとしてるかどうかは別として。
紫が誰かに話したかった気持ちはよく分かる。
「いや。いいよ。大丈夫。・・・あのさ。ひとつ聞いていい?・・・私のクラスの、高久、いるよね?」
「え、うん・・・」
紫は、知ってるんだ、というちょっと困った顔をした。
「なんで。高久に声かけたの?」
不思議だった。
紫に嫌われた理由は分かった。
自分に重なって、惨めだったからだ。そもそもそれほど好きでもなかったろうが。
それだけ聞いたら、すっかり諦めようと思った。少なくとも、好意を持ってくれたということだから、それは素直に嬉しかった。今でもそう思う。ただ、その好意が何だったのか、いつからだったのか、それが知りたかった。
紫は、照れたような顔をした。
「・・・アキラさんに、ちょっと似てたの・・・」
目元とか、じっと見る時ちょっと眼を細めるところとか・・・。
もじもじと頬を染める。
「はぁぁぁぁっ?!オメー、アキラアキラっていい加減にしろよなあっ!!どこが似てるんだよ?あいつ一重じゃねえかっ!?眼を細めるのはあいつは老眼だからだっ!!ああいうのはよ、かっこいいんじゃなくて雰囲気かっこいいっつうんだよっ。密室の中とか、蛍光灯の下とか、画像だから何かそんな風に感じるだけで、日中外で見てみたことあんのか!?」
「・・・・だって・・・・」
日中会ってくれることなんて、無かったもの・・・。
「だろ?!太陽の下の・・・河川敷にでも出してみろよ、見れたモンじゃねえぞっ!?」
突然の同僚の怒髪天を、紫は驚いて見上げていた。
「・・・いいかっ。目を覚ませ!?元カレの元カノの元カレの元カレ・・・あ、なんだっけ・・・そんなんなぁ、何やってっか、わっかんねーんだぞっ。おめーはとりあえず、病院に行ってこいっ!!話はそれからだっ」
そんな下半身が忙しいやつ、あぶねえだろうがっ。
「そんないい加減なやつと付き合ってると、性病で死ぬぞ、お前っ!!」
「え、・・・ええっ!?」
どうしよう、と紫が手で口を覆った。
「た、環先生・・・どうしよう・・・、私最近、あの・・・」
縁は何とも言えない表情をした。
「え?なんだよ?はっきり言えよ!」
「・・・か、痒いの・・・」
「マジかっ!?ヤッベーー!」
俺も・・じゃない、環に病院行かせなきゃ・・・。
ああ、キレるだろうなあ・・・先生・・・・。
高久は、今度こそ天を仰いだ。
「・・・・不名誉だわ」
翌日、昼休みに保健室で話の顛末を聞いた環は、ごくりと生唾を飲んだ。
「なんで私があんたの不始末のせいで、婦人科に性病検査に行かなきゃなんないのよっ」
思った通り、環はみるみる顔色を変えた。
環は血圧が上がったり下がったり・・・。
「あんたね・・・あんたね・・・この体がポンコツなの自覚あんの・・・?私があんまりびっくりしたらあんたが死ぬかもしんないのよっ。ていうか・・私が、死ぬのか・・・」
ああもうっ。なんたる複雑怪奇な悲劇、いやもう喜劇だ。
「先生、婦人科じゃねえよ、行くのは」
「は?だって・・・。ああ、そっか・・・男だから・・・泌尿器科かぁ・・・」
がっくりと項垂れる。
コイツのせいで、泌尿器科で局部を晒してこいと。
「あと、ポンコツって・・・ちょっとひどくねー・・・」
「あんたの頭もポンコツなのよっ。・・・大体、何なのその美容師・・・」
女の敵。そして、教育と医療の末端に携わる者として、公衆衛生的に見ても許せない。
「わかった。よし。決めた。・・・どこ。何ていう店なの?」
環がゆらりと立ち上がった。
「ちょっと・・・何する気だよ・・・」
何だか怖ぇ・・・。
マジでキレてる・・・。
「だってさ、そいつが諸悪の根源なんでしょ。だったらさあ、大元断たなきゃしょうがないじゃない・・・。私、そいつと肩並べて泌尿器科行くから。ね、高久、どこ行こう。やっぱ医大かなぁ。そいつとさあ、医大のさあ、ごっちゃごちゃ人いるでっかい待合室で、性病検査お願いしますっつって言って回ろうかなあ・・・はははっ」
人間、キャパを超えると、Cドライブが吹っ飛んでおかしな回路になるらしい。
「先生、落ち着いて・・・な、オンビンに行こう」
「何がだこらぁっ!?そもそも若者の乱れた性生活のせいでこうなったんだっ!私、いつも言ってただろうがっっ。望まぬ妊娠と病気には気をつけろって・・・」
「ご、ごめん・・・・」
謝るしかない。
「あんたは、ほかのどこかのお嬢さんに手出してないでしょうねっ?」
「してない。してません。ほんとに、ユカパイとだけです」
はぁ、と環はため息をついた。
「・・・・いい?あんたは未成年だからね。保険証はお父様の名前のはずよ。お父様の知るところとなるからね。・・・つーか私、どのツラ下げてお父様に申し開きすればいいのよ・・・・」
「マジかよ・・・っ」
「当たり前でしょ」
「じゃ、行かなくていい・・・」
「そんなわけには行かないのよっ!」
だんだんと机を叩く。
「近いうち、必ず行く。放っといたらね、あんた、死ぬ前に、あんたのあんたが腐って取れるからね」
環の言葉に高久は気を失いそうになった。
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