第一節③


 夢を見た。

 とても、とても懐かしくて、優しい暖かな夢……。

 黒い髪の少女が笑顔を浮かべながらこちらに手を伸ばし、小さな私の体を、柔らかな手つきで抱えあげてくれる。

 それがたまらなく嬉しくて、私が歓喜の声を上げると、少女の笑みが一層濃くなった。

 

――大好きだよ。


 少女が私に言った。

 穏やかで、優しい、私の大好きな声で。

 私も同じ気持ちだ、そう伝えられたらどんなに嬉しいだろう、幸せだろう。


 でも、それは叶わないと知っている。


 これが夢であるのは勿論、当時の私が知っていた言葉では彼女には伝わらないし、何よりもう彼女は私の隣には居ないのだ。

 彼女が居ない現実に、どんな意味があるだろうか。

 会いたい、会って抱き締めてもらいたい、撫でてもらいたい。

 そして、話がしてみたい。

 今の私なら、彼女に気持ちを伝えることだって可能なのだ。

 伝えたい。


――ありがとう


――大好きだよ


 今まで伝えたかった気持ちを、想いを。

 いつか叶えたい、と願いながら彼女をじっと見つめていた幸せな時間、しかしそれは不意に終わることとなった。

 私が覚めた。

 自然な起床、ではなく耳に届いたある音が原因で、無理矢理意識を現実に引っ張られたのである。

「何の音?」

 眠い目を擦りながら、音のした方向へ顔を向けた。

 何かが倒れるような、大きな音だ。

 音は立て続けに鳴り響き、空気を震わせていた。

 「こんな森で、何かあったのかな?」

 私がここに迷い込んでから、こんな騒ぎはなかった。

 昼は動物達の鳴き声が聞こえるが、夜になればそれは静かなもので、暗くなれば寝るだけの毎日だ。

「行って……みようかな?」

 どうせ此処を宛てもなく彷徨うだけなら、何か目標があれば進みやすくなるだろう。

「よし!行こう!」

 そう決めると私は、音のした方へと走り出した。

 彼女に近付くきっかけがあると信じて。


           

           

           + 



 『ルナヴィス』――そこは『ヴォードレイド大陸』にある都市国家の名称である。

 隣接する国は無く、周囲には広大な自然が広がるのみで、国土に当たる範囲を外壁で囲い、野性動物や侵略者から身を守ってきた歴史を持つ国だ。

 しかし、戦争も終結し外敵も無くなった現在は外壁も意味を成さず、飾りとしての役割を残すのみとなっている。

 ルナヴィス内部では、外交の甲斐あって電気や建設の技術が飛躍的に発達し、高層な建物や交通機関の発展は目まぐるしいものがある。

 人口も順調に増え、遠方から移住する者や観光者も訪れるようになった。

 そんなルナヴィスのとある集合住宅地のとある部屋の一室に、とある探偵が事務所を構えていた。

 一般家庭とまるで変わらない装いの部屋であるが、表札の下に『ロウレニス探偵事務所』と手書きで書かれた看板が貼ってある。

 住宅地自体が年代を感じさせることも相俟って、寂れた印象を見たものに与える。

「すぅ……すぅ……」

 その事務所の中では所長であるロウレニスが、居間中央に置いてあるソファで安らかな寝息を立てていた。

 昨夜保護した猫の飼い主に連絡したところ、すぐにでも引き取りたいという申し出があったため、引き渡して報酬を受け取ったロウレニス達が事務所に戻れたのは明け方に近いような時間であった。

 「こんな時間に引き取りたいとか常識はずれだよね」とはランステッドの談。

 人外に常識を問われるとは世も末だな、とロウレニスも苦笑したものだ。

 そんなロウレニスも今は依頼完遂の疲労から、正午に差し掛かる今現在まで惰眠を貪っている。

「あ、ランス……それ食べちゃダメ……ああ……サオリさん、お米持っていかないで」

 しかし、夢の中でも気苦労が絶えない様は、本当に休めているかどうかが疑問になるレベルである。

 ちなみに、サオリとはロウレニスの自宅の隣に住まう女性で、よく財政難であるロウレニスの家に食糧をたかりに来る困った御仁だ。

 少なからずお世話になっているため、文句もあまり言えないのが厄介だった。

 悪夢でも見ているかのように魘されているロウレニスに、近付いていく影が一つ。

 当然、同居している『昏きもの』のランステッドである。

「ロウ~起きてる?」

 囁くようにランステッドはロウレニスに尋ねるが、その声音や表情がただロウレニスを起こしに来たのではないことを窺わせた。

 案の定、ロウレニスが起きないことを確認したランステッドは、口角を吊り上げて行動に移る。ロウレニスの寝ているソファに乗り上げて、覆い被さるような格好になっていく。

 密着されても起きる気配のないロウレニスに気を良くしたのか、ランステッド笑みは濃くなり、ゆっくりと獲物を狙う獣のように顔を近付けていった。

「ん、ランス?」

 気配に気付いたか、ロウレニスが寝ぼけ眼で名を呼ぶが、ランステッドは止まらない。

 獲物が状況を把握するより早く、ランステッドはロウレニスの首筋に噛み付いた。

「んっ……っ」

 ロウレニスに伝わる微かな痛み、それを上書きするように全身を走り抜ける快楽によって、彼の意識は覚醒して何が起きたかを瞬時に把握する。

 ランステッドに体を委ねていると、自分から何かが抜けていく感覚がロウレニスを襲うが、決して不快感はない。

 むしろ、もっと感じていたいと思えるほどの悦楽を享受していた。

 『昏きもの』であるランステッドの食事における特徴として、(一部の例外はいるが)相手に苦痛を与えない……むしろ心地よさを感じさせる成分が唾液に含まれているらしく、『昏きもの』の存在を知るもの中には吸血される快感を求めて破滅した人間もいたという噂もあった。

 ロウレニスが声を上げそうになるのを必死に耐えていると、しばらくしてランステッドは首筋から牙を離した。

「ご馳走さま」

 そう言いながらランステッドは人差し指で口を拭うと、その指でロウレニスの首に出来た吸血痕を撫でた。

 みるみる内にランステッドの牙によって出来た傷は塞がっていき、跡形もなくなった。

「お粗末様でした」

 ドッと疲れた表情を見せながらロウレニスは自分の首筋を撫で、吸血痕が消えているかを確かめた。

 『昏きもの』の唾液には吸血の痛みを和らげる成分の他にも、簡単な傷……それこそ、吸血痕のような小さなものであれば、治療する事も可能で、ロウレニスが子供のときによく言われた『唾つけとけば治る』なんて言葉の語源なのではないかと考える時もあった。

「じゃあロウ、起きたところで昨日のごほうび作ってね!」

 満点をあげても良いくらいの笑顔を見せるランステッドに、ロウレニスは苦笑を浮かべながら頷き、台所へと向かうのであった。


              +


「ロウまだー?」

 テーブルに着き、ロウレニスの料理を今か今かと待つランステッドに、ロウレニスは手を止めずに答える。

「まだだよ。ていうか作り始めて間もないよ?」

「そっか」

 少し残念そうにするランステッドだが、別段落ち込んでいる様子はない。逆に期待感が高まったのか、笑みを濃くして、足を揺らしている。

 その様子料理の傍ら眺めていると、ロウレニスのモチベーションも上がってくる。誰かと一緒に食事を取ることの喜びをロウレニスは誰よりも知っているのだから。

(もうちょっと財政に余裕があったらなあ……)

 と、自虐的な笑みを浮かべているロウレニスだった。

「いやー、血も美味しいし料理も美味しいし、ロウと契約して良かったよ」

 ロウレニスの内心を知ってか知らずか、朗かに言うランステッドに、ロウレニスは苦笑する。

 『契約』とは、一部の『昏きもの』が人間と交わす主従関係である。

 『昏きもの』にも個体によって味の好みがあり、気に入った血液を持つ人間を独占したくなるのは当たり前の思考だろう。

 人間に血液を提供してもらう代わりに、人間に付き従いその身の安全を保証する、というものだ。

 ロウレニスがランステッドと交わしている契約もそうであり、ロウレニスが契約主となりランステッドが従僕―契約鬼―という扱いである。


 で、あるのだが。


「ロウごはんまだー?」

「まだだよ、ランス」

 主に料理をねだり、本人はテーブルに座して待つ……そんな従僕がいるのだろうか。

 まさに主従が逆転しているような関係だが、ロウレニスは気にしている様子はない。

「もうちょっとだから、待ってて」

 額に汗を浮かばせながら、鍋で具材を炒めるロウレニスであった。

 そんな主を嬉しそうに見つめながら、ランステッドはふと思い出したように尋ねた。

「そういえば、午後は予定なかったよね?」

「…………そうだね」

 ランステッドの問いにロウレニスは少し間を開けて答えた。

 その間に、ロウレニスの哀愁が漂う。

 予定がない、ということは依頼がない、ということだ。つまりは、仕事がないのだ。

「じゃあさ! どっか出掛けても誰も文句言わないよね!」

 臆面もなく言い放つランステッドに、鍋を持つ手が滑りそうになるのをなんとか堪え、ロウレニスは苦笑いを向けた。

「えっと……ランス、僕らが居なくなったら事務所誰も居なくなっちゃうよ?」

「依頼無いんでしょ?」

 グサリとロウレニスの心の急所を的確に突いてくる。

「と、飛び込みで来るかもしれないし……」

 語尾が消え入るように萎んで行くのは、今までの経験を以て考えると、まず有り得ないということを、ロウレニス自身がよく分かっているからだ。

 だが、ロウレニスが休業でもないにも関わらず事務所を空けることは、意地でもしないというのはランステッドも知っている。

 故に、ランステッドの表情は自信に満ちていた。

「まー、そう言うだろうと思ったよ。 『エリク』」

 そう一人で納得しながらランステッドは指を弾く。乾いた音が事務所内に響くと、異変は起こった。

 年期を感じさせる塗装の剥げかかった木製の床から、泥の様なものがおびただしい程染み出し、人形を創る。

 泥は次第に色を帯び、老人の姿を象った。

「御呼びでしょうか姫様」

 黒の燕尾服に身を包み、シルクハットを被った白髪の男性だ。

 その瞳は紅く、老人が『昏きもの』であることを示しているが、彼はランステッドに仕える使い魔で、名をエリクライトと言う。

 落ち着いた物腰で、ランステッドの隣に佇んでいる。

「エリク、留守番よろしく」

「御意に」

 呼び出しておいて、要件が只の留守番という事に不満の色を見せること無くエリクライトは了承の意を示す。

「エ、エリクライトさん……嫌なら断っても……」

 無駄だと知りつつもロウレニスはおずおずと進言するが、エリクライトに睨まれ口をつぐむ。

「姫様の命令ならば断る必要性などございませぬ故」

「そう、ですか」

 肩を落とし落ち込みながら、炒めた米と野菜を皿に盛り付けていく。

「じゃー、事務所はエリクに任せて、午後はボクとお出かけってことで!」

「はいはい」

 外堀を埋められ、諦めの境地に達したロウレニスは、ランステッドの前に皿を置いて苦笑を見せたのだった。






「今日は何処行こっか?」

 食事が済むなり、期待の眼差しを向けてくるランステッド。

 特に自分では決めていなかったようだ。

「て言ってもなあ……」

 皿を片付けながら、首を傾げるロウレニス。

(家賃と水道、光熱費を払ってカツカツだからなあ……)

 そう、遊ぶお金はまるで無いのである。

 お金が無ければ遊ぶことすら儘ならない、現代社会の闇を一身に受け噛み締めているロウレニス。

「仕方ない……『いつもの』でいい?」

 ロウレニスが提案する。何も、ランステッドが出掛けると言い出すのは初めてではない。

 断りきれなかった場合は、大抵同じ場所へ行くのだ。

 ランステッドも予想は付いていたのか、頬を膨らませて言葉を返す。

「えー、またあ? 行っても古着見るだけじゃん! 古着屋でウィンドウショッピングってどうかと思うなあボク!」

 『いつもの』とは、ルナヴィスにある古着屋へ赴き見るだけ見て帰宅する、というものである。

 何をするにもお金がいる……お金を掛けずに楽しめるものと言えば、かなり限られてしまう。

 申し訳なさそうな表情を見せてロウレニスは口を開く。

「何度も言うけど、お金がないんだよ。嫌なら他に行けるとこないけど」

 困り果てた顔のロウレニスをしばらく見詰めていたランステッドだったが、深いため息を吐くと首肯する。

「じゃーそれでいいや……」

 ランステッドが妥協してくれたことに安堵しつつも、申し訳なさと不甲斐なさを感じるロウレニスであった。

 帰りに好きな食べ物でも買ってあげるべきか、と考えていると――。」

  事務所の呼び鈴がロウレニスの耳に届いた。

 予想だにしない出来事に、ロウレニスとランステッドは顔を見合わせた。

(ちょっと、ロウ! 家賃とか水道代とかちゃんと払った?)

 小声で責めるように言うランステッドに、ロウレニスは慌てて首を縦に振って応える。

(この前に払ったばかりだし、集金日もまだのはずだよ)

(じゃあ報道紙の勧誘かなあ?)

 何度もしつこく報道紙の定期購読を進めてくる女性を思いだし、げんなりとした顔を見せるロウレニス。

(そうかもしれない……ここは居留守を……)

 と、話し合っている探偵とその助手。 本来一番に出てくるであろう可能性が、全く出てこない様子を見れば、彼らの事務所の実態が測れるだろう。

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