第一節『探偵と吸血鬼、そして依頼』

第一節①


 都市国家『ルナヴィス』近郊に群生する森林。そこはルナヴィスの住人も滅多に近寄らない、木々が鬱蒼と生い茂った静寂が支配する領域である。

 人が近寄らず、人の手の加わっていないその場所は、生物の楽園であり、社交場でもある。

 しかし、それも太陽の昇る時だけ――月が昇り静寂が支配するこの時間は、日中は忙しなく活動していた野性動物達も体を休めて眠っている頃合いだ。

 葉の擦れ合う音を子守唄に、明日の糧を夢想して眠る――そんな時間。

 そう、この瞬間までは。

「うわああああああああ!」

 月明かりも射し込まぬような森の中に、あまりにも似つかわしくない青年の悲鳴が響き渡る。

 そして間髪入れずに地を揺らすような轟音が轟き、羽を休める鳥達や木陰で体を丸める動物達を叩き起こした。

 闖入者の登場に森全体がざわつき始める。騒ぎの元凶である青年は狭い獣道を必死になにかから逃げるように走っていた。

 ……逃げるように、というのは語弊があったか。

――事実、彼は逃げていた。

  愛玩動物を入れておく檻(ケージ)を小脇に抱えて。

「はあっ、はあ……」

 息を荒げて青年は走る。ひた走る。

 そしてそんな彼の隣をピッタリと並んで走る少女の姿があった。

 必死、という風体の青年の走りと比べて少女の走りには余裕があり、青年の速度に合わせているような印象さえ受ける。

 少女は呆れたような顔をしながら、青年へと口を開いた。

「ちょっとロウ、ボク今回あんな化け物居るなんて聞いてないんだけど?」

 暗がりで表情は見辛くはあるが、明らかに不満を抱えたような声音に、ロウと呼ばれた青年は呻いた。

「ごめ……ラン、ス……でも、ぼ、僕……だって……はッ、は……聞いて……無いんだけ、ど」


 途切れ途切れにそう口にするのは『ロウレニス=レンフィールド』。

 ルナヴィスで探偵業を営んでいる青年で、ロウレニスがランスと呼んだ少女は『ランステッド』という名の助手である。

「でも……あの、化物の、尻尾踏ん、だの……ラン――」

「あーあー聞こえなーい」

 精一杯のロウレニスの抗議も、ランステッドの声に掻き消されてしまう。

「ォォォォォォ!」

 二人の背後を雄叫びが襲う。

 ロウレニス達も必死に逃げてはいるが、その距離は縮んでいくばかりである。

 木々を薙ぎ倒しながらロウレニス達を猛追してくる化物の姿が、取り払われていく葉の天井から射し込む明かりによって鮮明になってくる。

 体躯の大きい犬、と言えば分かりやすいか。

 しかし、犬と言うには狂暴すぎる形相、異様に発達した四つ足は、何十年と生きたであろう森の木々達を容易くへし折っていく。

 そんな化物に追い付かれでもしたら……ロウレニスの背筋に冷たいものが走った。

(まだ障害物があるから何とか捕まってないけど……)

 これが障害物の無い拓けた場所となるとどうか。

 邪魔の無くなった化物はロウレニスに一息で追い付き、その爪を、その牙を突き立てるだろう。

 最悪の事態を回避するための策を頭に浮かべて行くが、悉く消えていく。

 もはや『自分ではどうにもならない』、と諦観に達したロウレニスの視線が並走するランステッドに向けられる。

 『自分では』どうにもならないのならば、彼女であれば――。

「む……」

 視線に気付いたランステッドはあからさまに嫌な表情を見せる。

「今回ボクは何もしなくて良いって話だったよね?」


「えと……それ、はごめんっ! でも、此処で……僕が、死んだら、困、るの……ランスだよっ」

 ロウレニスの精一杯の説得に、ランステッドは一度溜め息を吐くと、首肯して見せた。

「終わったらご褒美貰うからね……」

 そう言い残して、ランステッドの姿がロウレニスの視界から消える。

 ロウレニスその事実を不審がることなく、落ち着いた様子で立ち止まり、肩を上下させながら後ろを振り向いた。

 そこにはロウレニスと化物の間に仁王立ちするランステッドの姿があり、ロウレニスは酸素を無理矢理にでも摂取しようとする身体をなだめつつ、その行く末を見守ることにした。

 華奢な体躯のランステッドに対して、向かってくる獣の大きさは四つの足を地に着けていても、体躯の差は倍近く開いている。

 そんな相手に臆すること無く立ち塞がるランステッドの、真紅のポニーテールが風に揺らめく。

「誰かの使い魔ってわけでもなさそうだけど……」

 刻一刻と迫る驚異を前に、ランステッドの顔に焦りの色はない。

 誰でもあの化物に、可憐な少女の命が散らされるのを思い描くであろう光景。

 ロウレニスが逃げる時間稼ぎに少女を突き出したと思われかねない状況である。

 獲物がようやく間合いに入ったことに、歓喜の雄叫びを上げる化物の前足がランステッドに向かって振るわれる。

 ランステッドの柔肌が無惨にも、化物の爪に引き裂かれる――。

「ま、相手が悪かったね」

 既の所で獣の一撃を避けたランステッドは、不敵な笑みを浮かべながら身体を捻り、獣の横っ面に回し蹴りを見舞う。

 か弱そうな少女の細足の一撃、本来であればそれは化物にとって驚異になり得ないはずで、獣を怯ませるような威力は無いはずだった。

 だが、それは彼女が『人間であれば』の話である。


 鈍器を叩きつけたかのような鈍い音が森に響き、化物の体がよろめいた。

 脳を揺らされ、身動きがとれない相手を、ランステッドが見逃す事は無い。回し蹴りの勢いを殺さずに軸足を入れ換え、逆の足で後ろ回し蹴りを放つ。

 それも、寸分違わず一撃目と同じ箇所を……。

 2度も頭部に衝撃を与えられ、化物の動きは完全に停止。立っていられる事も出来ず、泡を吹き出しながら突っ伏した。


 決着は一瞬だった。

 ロウレニスには殆ど見えなかったが、ランステッドの蹴り技が炸裂したのだろう、という事は理解出来た。

 皮のロングブーツに黒いニーソックスに包まれた細足が、あの大きな化物を気絶させたのかと思うと自分の正気を疑いそうになるロウレニス。

 あの足の何処にそんな凶器染みた威力が出るのか、疑問に思いながらランステッドという少女の脚を見つめていると。

 ロウレニスはふと何者かの視線に気付いた。

 疑うまでもなく、目の前のランステッドのものだ。

「…………たでしょ?」

「ん?どうしたのランス?」

 ランステッドは俯きながら何かを呟いているようだったが、ロウレニスには全容は聞こえない。

 何やら、短めなプリーツスカートを握り締めて、震えているようだが――。

「あっ……」

 ロウレニスは察した

 スカート姿で回し蹴り等すれば、どうなるのか……何が見えてしまうのか。

 身のこなしが速すぎて、まるで見えなかったが、蹴りを終えたその一瞬、スカートの奥の黒い布が、微かに……ロウレニスの目に映ったような気がした。

「だ、大丈夫だよランス! 見えてない見えてない無いよ!?」

 一生懸命手を振り、否定の意を表すロウレニスを疑いの眼差しを持って眺めるランステッド。

 しかし、次第に表情も柔らかくなっていき、嘆息してからロウレニスに向き直った。

「なら良いんだけどさ……今日明るい色だったから目立ったかなと思ったよ」

「え、黒だっ――」

 途中で気付き、慌ててロウレニスは言葉を止めたが……手遅れだった。

 ランステッドは頬を膨らませ、自身の髪の色と同じくらい顔を紅潮しながら、涙目で震えていた。

「あ、違っ……ランス、僕が見たのは多分影が――」

「やっぱ見えてるんじゃんロウのバカァー!」

 その時、自分の動体視力がもっと悪ければ、違う結果になったのだろう、と想いを馳せながら、顎に強烈な衝撃を受け意識を失うロウレニスであった。

 空中に投げ出され途絶えつつある意識の中、小脇に抱えていた籠の猫が、彼を憐れむように一声鳴いたのを聞き、哀愁を漂わせた後猫の無事を確認し安心して気絶するのであった。

           

  

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