歩行訓練
枕元で鳴るけたたましいアラーム音で目が覚める。寝不足の目をこすってアラームを止める。
今日は初出社の日。緊張してうまく眠れなかった。危うく二度寝しそうになったが、頑張って身体を布団から脱出させた。今日から俺は会社員なんだ。冷たい水で顔を洗う。
カーテンを開けて6畳半のアパートの部屋に太陽の光を入れる。こんなに早く起きたのも久しぶりだ。まだ時刻は6時過ぎ、窓から見える景色は静寂に包まれていた。
業務用スーパーで買った1玉20円のうどんを茹でて食べる。今は具なしだが、初任給が入ったら油揚げを入れようと心に誓っている。
ネオタアリの本社ビルは俺の家から自転車で20分ほどのところにあった。JR五反田駅から少し離れたところ。大きな通りに並んでいる特徴のないビルのうちの1つだった。
春風と共に厄介な花粉も飛んでくるので、マスクとメガネを着けて完全防御体制で自転車をこぐ。早速初日から業務を行うということで、動きやすいパーカーとスニーカーを着てきた。スーツは慣れていないのでこっちの方が楽だ。
何だかいつもより青く見える空を眺めながら自転車で疾走する。今日から始まる新生活に
ビルの前に到着したが駐輪場がどこにあるのかも分からないので、とりあえず路地裏の方に隠すようにして停めておく。
影になっているところに完璧に自転車を
路地裏から出てきたところで、試験会場で会った金髪の青年と鉢合わせた。
「あ、おはようございます」
「ど、どうも」
微笑みかけてきた青年にぺこりと会釈する。
そうかこの人も合格していたのか。花村さんの言うところによると、最初の2人以外は諦めて帰ったらしいけれど……。
何を話そうかと考えていると向こうの方から話題を振ってきた。
「あなたも合格したんですね。じゃあ今日から同僚だ。ええと……」
「丸福です」
「丸福さん。私は富田ノーランです。ノーランって呼んでください。これからよろしくお願いします」
ハキハキとした口調で喋るノーラン。かなり若そうだが、コミュニケーション能力では遥かに俺を上回っている。
そもそもこの人はどうやって試験を突破したんだろう。中々降りてこないエレベーターを待っている時に質問してみると、ノーランは予想外の答えを返した。
「問題文が間違っていると気付いたんですよ。どれだけ探しても間違いは8つしか無かった。それをそのまま書いたら合格でした」
「……自分が探しきれていないとは思わなかったってこと?」
「それは有りえませんね」
当然のことだ、といった風にノーランは頷く。
恐ろしいほどの自信と判断力だ。きっと彼はその能力を買われたのかもしれない。
俺が3時間粘ったという話をすると、ノーランは信じられないというように目を丸くした。
「3時間も粘ったんですか……」
「褒められたもんじゃないよ」
「おかげで合格出来ているじゃないですか。フルダイブ型ゲーム、誰よりも早く体感できるんですから……!」
ノーランが興奮した口調で話す。真面目そうな外見に反して、その声は驚くほど弾んでいた。
全世界が度肝を抜くフルダイブ型ゲーム、試験会場で花村さんたちに聞いた以降は詳細は全く知らされていない。ネットで調べてもそれに関する情報は全く出てこなかった。本当に本当のトップシークレットということだ。
……それにしてもそんなスケールの大きいことをする会社にしては、建物もボロいし狭い気がする。エレベーターもガタガタ言っているし、大丈夫かこれ。出社してみたら倒産とかしていないかな。
そんな無駄な心配をよそにエレベーターはネオタアリがある3階のフロアに到着した。会社名が書かれたボロい看板と立て付けの悪そうな扉がある。薄暗い廊下の雰囲気も相まってやたら貧相に見える。
中の様子はうかがい知ることは出来ない。
「ここかな」
「でしょうね、開けてみましょう」
ためらいなく扉を開けるノーラン。
中に入ると花村さんがソファに座ってお茶を飲んでいた。雑然と散らかった室内には本やら紙やらが床に散らばっている。まるで台風でも通り過ぎたのかという散らかりっぷり。
向こうの部屋からはキーボードを叩く音が聞こえて来る。作業部屋はあっちということか。それにしてもこの散らかしようは……。
入ってくるなり目を点にしている俺たちに気づいて、花村さんは元気な声で挨拶した。
「おはようございます! 丸福さん、富田さん。もうすぐ研修を始めるのであちらの部屋で待っていてください!」
「は、はい! 今日からよろしくお願いします」
朝から百点満点のスマイルを浮かべる花村さん。可愛らしい。まるで砂漠に咲いた花のようだ。部屋の様相はサバンナだけど。
会議室と書かれた部屋には既に女性が1人座っていた。ノーランの後に試験を終えた女性だ。この前見た時と同じように髪を1つ結びにして、手元の文庫本に目を落としている。
「おはようございます」
「……おはようございます」
ボソリと呟いて俺たちを
「僕はノーランです。こちらの方は丸福さん。これからよろしくお願いします」
「……
「合格したということは、サクラさんも8つしか間違いがないことに気付いたんですね」
ノーランが質問すると、サクラさんは不思議そうな顔をした。
「8つ……? いえ、9つ見つけましたよ」
「へ?」
どういうことだ。
9つ目の間違いなんてあるはずがないのに。もしかして、サクラさんだけ違う問題が配られていたとか?
サクラさんの返答に首を傾げていると、眠そうな顔をした湯川さんが会議室に入ってきた。
「それは印刷ミスだよ。遅れて悪かったな、みなさん入社おめでとう。デバッグ部部長の湯川だ。今日からよろしくな」
「おはようございます!」
立ち上がって礼をした俺たちに小さく頷いて、湯川さんは座るように促した。
「ここからは同じ船に乗った仲間だ。変に気を使わずどんどん意見を言って欲しい」
「じゃあ、印刷ミスというのは?」
早速、ノーランが手を挙げて質問する。その質問に湯川さんはおかしそうに笑って返答した。
「サクラの問題用紙だけ印刷ズレがあって、絵柄が歪んでいたところがあったんだ。そこを間違いと判断したから9つの間違いが発見できた。まぁ会社のコピー機がボロっちいからな、しょうがない」
「それって……」
たまたまか。
サクラさんはノーランのような判断力ではなく、たまたま間違いを見つけただけだった。印刷ずれで合格だなんて運が良いにもほどがある。
全員があっけにとられているのを見て、湯川さんは真面目な顔で言葉を続けた。
「運も立派な実力だ。バグを発見するというのは偶然も多いんだ。判断力、根気、それと運。完璧なチームじゃないか」
「え、3人しかいないんですか?」
「5人だよ。俺と花村、それと君たち。ネオタリアデバッグ部はこのメンバーでやっていく」
「少ない……ですね」
不安になってきた。
新しいゲームのデバッグをこんな少人数でやるのか。本当に大丈夫なんだろうか。
そんなことを漏らすと湯川さんは口に手を当てて、ため息をついた。
「俺も同じことを思ったが、社長の意向だからしょうがない。外注なしでうちの会社だけで完結させる。そう考えるとこの人数が限度だ」
「ちなみにその社長というのは私のお祖父ちゃんです。頑固な人なんで諦めてください!」
花村さんが扉から現れて、元気よく挨拶をした。
「社長臨時代理兼デバッグ部平社員、花村でーす! 改めてよろしくお願いしまーす!」
「社長臨時代理?」
「お祖父ちゃんが倒れてしまったので、私が今社長をやっていまーす!」
そう言うと花村さんは俺たちの前に1枚の紙を置いていった。
「会社の内情はこのくらいにしておいて、とりあえず誓約書にサインを書いてもらいます!」
誓約書と書かれた紙には就業規則が書かれていた。「迷惑行為をしない」「反社会的行為」をしないと当たり前のことが並べられている下に、赤い文字でデカデカと書かれている文章があった。
『当社の機密を漏らした場合、懲戒解雇処分、相応の賠償請求を行う』
「あのー……これって」
「書いてある通りだ」
「今ちょっとセンシティブなのでー」
笑いながら、俺たちにサインをするように促す2人。
つまり秘密をバラしたら退職&裁判か。酔った勢いでツイッターとかに書かないように気をつけよう……。
誓約書を書いた後、今度は会議室を出て奥の部屋に案内された。カタカタとキーボードの音が鳴っている広い部屋の中では、30人くらいの人が無言でパソコンと向き合っていた。
「ここが開発部だ。おい、みんな! 今日から入ったデバッガーの3人だ」
「本日付けで配属されました。よろしくお願いします!」
元気良く声を張り上げて挨拶をするが、墓から出たばかりのゾンビみたいな顔をした彼らは小さく会釈した後、再びカタカタとキーボードを打ち始めた。返事がない、ただのしかばねのようだ。
「……とまぁこんな感じだ。上の階にはデザイン部があるが、ここよりも修羅場だから見学は今度にしておこうか」
「それが良さそうですね」
開発部の人たち(しかばね)を横目で見ながら次の部屋に入る。その部屋には誰もいなかった。
20畳ほどの室内に置かれているのは椅子とモニターと、ゲームに使用すると思われる機材。パソコンと、VRゲームなどですっかりお馴染みになったヘッドマウントディスプレイが3台置いてある。
「ここが俺たちの仕事場であるデバッグルームだ。業務に関する詳しい説明は後にして、とりあえずテストプレイしてみようか」
「いよいよ……」
今までのゲームの歴史を塗り替えるほどの革新的なフルダイブゲーム。
隣に立っているノーランとサクラさんも、物珍らしそうに目線を部屋のあちこちに動かしている。
「そもそもどういったゲームなんですか?」
「やってみたら分かる。家庭用ハードとして発売予定の機体だ。販売予定価格は15万」
「15万!?」
「それだけの価値がある」
湯川さんはそう言ってヘットマウントディスプレイを持ち上げた。ずいぶんと挑戦的な値段だ。いよいよやりたくてたまらなくなってきた。
今回俺たちがテストプレイするゲームはアクションRPG『クエストドア』。剣と魔法でモンスターを倒す王道中の王道であり、フルダイブ最初のゲームとなる予定だ。
前方のモニターにはゲームのタイトル画面が表示されている。「QuestDoor」と英語の文字がキラリと光っていた。
「ではまず1番年長さんの丸福さんからやってみましょうか!」
「は、はい!」
花村さんに促されてパイプ椅子に座る。ヘッドマウントディスプレイにはコードが付いておらず、思っていたより軽かった。
目を覆う部分も既製品と比べて厚みがない。後頭部に当たる部分には大きなイボイボのようなものが沢山付いていた。例えるならパイナップルみたいな感じだ。
「あっ見えた見えた」
ヘッドマウントディスプレイが装着されると視界にタイトル画面が見えた。首を動かすとちゃんとテキストも立体に見える。ここまでは普通のVRゲームと同じだ。
「じゃあ手袋つけますねー」
「手袋?」
今度は両手に手袋がはめられた。
スイッチが付いている様子はない。少し厚手の手袋だ。これでどうやって操作するんだろうと疑問に思っていると、ノーランが何かに気付いてハッと声をあげた。
「もしかして、これってデータグローブですか……?」
顔は見えないが、声色からすると相当驚いている様だ。それを聞いた湯川さんは嬉しそうに説明し始めた。
「よく知ってるな。コントローラーとして使うのはこの手袋状のユーザーインターフェイス、データグローブだ。指の1本1本の動きを感知することができる」
「じゃああのイボイボは……?」
「もちろん、ただのヘッドマウントディスプレイではない。我が社が独自に開発したBMI、ブレインマシーンインターフェースだ」
「BMI?」
健康診断とかで聞く数値ではないよな、多分。
聞きなれない単語に混乱していると、今度はヘッドホンが装着されて聴覚が塞がれる。ヘッドホンからは花村さんの元気な声が聞こえてきた。
『丸福さん、聞こえますかー!』
「は、はい、大丈夫です」
『おけおけですねー。では私がナビゲートしますので初のフルダイブゲーム楽しんでください!』
ウィーンという起動音がヘッドホンから聞こえてきた。フルダイブというのはどういう理屈なんだろう? 今の所、普通のVRゲームと変わらないけど。
「あの、どうやって操作すれば?」
『説明が難しいんですが、有り体に言えば脳波を使います!』
「え?」
『脳波です!』
脳波?
そんなもの使ったことない、と言おうとした瞬間、身体が画面に引き込まれて、次第に視界がホワイトアウトしていった。動いていないのに身体が引っ張られる。なんだか気持ち悪い。視覚も聴覚も自分のものじゃなくなったみたいだ。
部屋のノイズとウィーンというヘッドホンの音が次第に遠ざかっていった……。
◇◇◇
目を開けるとそこは爽やかな風の吹く平原だった。草と土の匂いがして、風が肌をなでていく。太陽の光の眩しさやほのかな温かさを感じる。
室内にいるという感覚は全くない。ディスプレイ越しに画面を覗いているといった感覚もない。完全にゲームの中に入り込んでいる。
「す、すげえ……」
それ以上に何も言えない。
素直に感激しかなかった。ここは本当にゲームの中なのだろうか、と疑ってしまうような圧倒的な没入感があった。肌で感じる感触は現実世界と
『ようこそ! クエストドアの世界へ!』
周りの風景に見とれていると花村さんの元気な声が、頭の中に直接響くように聞こえてきた。
「本当にこれゲームなんだ……」
『フッフッフッ、想定通りの反応過ぎて私も驚きですよ。ここからはゲーム外から声でナビゲートしていきますね! では早速動いてみてください!』
「動くってどうやって?」
『念じるのです! 脳波なので!』
その脳波というのが良く分からないのだが。
とりあえず、右足を動かすということを考える。すると何もないのに、何かにつまづいてしまって俺は派手に転倒した。
「痛あぁー!」
『あー現実世界のパイプ椅子につまづいてしまいましたね。実際に動かすのではなく、「動くのを念じる」という感覚でやってみてください』
「難しくないですか、それ?」
『良いから良いから』
言われた通りに「動くのを念じる」という感覚でやってみたが、再びパイプ椅子にぶつけて
「痛あぁい!」
『パイプ椅子どかしておきましたから、もう1回!』
今度は立ち上がったままやってみせる。すると今度は10歩くらい進んだところで前方の何かにぶつかって頭をぶつけた。
「痛あ!」
『今ぶつかったのはこっちの世界の部屋の壁ですね! もう1回やってみましょう!』
天使のような花村さんの声に励まされて再びやってみたが、今度は膝をぶつけて同じ結果になった。
「痛ああ!」と『もう1回!』を何度か繰り返して、俺の身体はいたるところに打ち付けられた。ゲームというより相撲のぶつかり
花村さんが段々天使じゃなくて悪魔に思えてきたところで、早くもゲーム終了。BMIを外して今度はノーランに交代した。
こんなはずではなかった。派手にあちこちをぶつけて
「悪い悪い、ここまでぶつけるとは思わなくて。実はプレイスペースに関するデータが欲しかったんだ」
「プレイスペース?」
「ほら、家庭用で販売すると今よりずっと狭い部屋でやることになるだろう? ゲームに夢中になるあまりプレイヤーは現実世界でも実際に動いてしまうから、そのスペースがどれくらい適切かが知りたかったんだ」
湯川さんはそう言って湿布を渡してきた。
固定されたモニターでプレイするゲームとは違い、VRゲームではある程度の
このぶつかり稽古も新手の新人いじめではないということだった。
「開発部の奴らはBMIの扱いに慣れ過ぎていて、平均的なデータが分からなかったから助かったよ。リリース時には身体を固定する必要がありそうだな」
「じゃあノーランくんとサクラちゃんの様子も見て判断しましょうか」
小悪魔花村さんはそう言いながら、実験を続行し始めた。
今度はノーランがBMIを付けて、ゲームをプレイする。彼がプレイしているゲーム画面は正面のモニターに表示されている。これは湯川さんたちがプレイ状況を確認するためで、プレイヤーの視界がそのままモニターと直結しているらしい。
モニターに平原が表示されるとノーランは歓声をあげた。
「すごい! これ本当にゲームですか!?」
「フッフッフッ、あなたも想定通りの反応ですね」
花村さんは座りながらヘッドホンを通して、ノーランに声を送っている。再び歩くように指示するが、ノーランもパイプ椅子に足を引っ掛けて派手にすっ転んだ。
「痛あぁい!」
「もういっちょ!」
花村さんによる合いの手が入れられて、ノーランも俺と同じように室内を行ったり来たりして色んなところに当たっていく。再びぶつかり稽古が始まった。
大丈夫かこれ、と思ってきたところでノーランは次第に座りながらでもゲームの中で歩けるようになってきた。
「あーあー、こういう感覚ですか」
「あらー、飲み込みが早いですねー」
花村さんが感心して拍手する。しばらくすると、ノーランは動かなくてもジャンプができるようにまでなっていた。すごい、すごーい。
そこまで習得したところで今度はサクラさんと交代した。テンプレ通りに驚いた後、歩行の練習に入った。そして俺たちと同様パイプ椅子に突っ込んで派手に転んだ。
「……」
顔は痛みに歪んでいるが、無言だ。痛いときは痛いと言えば良いのに。
そのまま無言で何度もトライアンドエラーを繰り返した後、徐々に座りながらでも歩けるようになってきた。
「……なるほど、こういう感覚ですね。なるほど」
「サクラちゃんも慣れるの早かったですねー」
褒められて少し口角を上げるサクラさん。若いだけあってこういうのに、慣れるのは早いんだろう。
出来ていないのは自分だけになってしまった、と1人傷ついたところで午前中の研修兼歩行訓練は終了した。
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