Chapter 13.












 その日、紙袋を胸に抱いて長い廊下を歩く氷川の姿があった。

 白い壁と長い手すり。あまり大きくない窓がぽつんぽつんと続いている。歩く木製の廊下は掃除が行き届いていて、一歩踏み出すたびにきゅっきゅっと靴音を立てる。すれ違うのは消毒薬の匂いをさせた白衣の看護婦が数人。

 幾つも規則的に並ぶ部屋の、ある一室の前で立ち止まりその引き戸の扉を開けた。


「響、肩の具合はどうだ?」


 ベッドの横まで歩み寄りながら声を掛ける。


「……もう、大分良いです」


 右肩と右腕をギプスで固定され、小さな医療用のベッドから上半身を起こし皆川は答えた。

 そして左手でテーブルの上にあった新聞を取った。


「そっか」


 氷川はほっとしたように答えた後、遠くを見るような目をして呟いた。


「……あれから二週間か」



 ここは軍の医療施設。

 救命艇で大海原を彷徨さまよう皆川を高柳たちが救助して二週間になる。

 高柳たちが駆けつけた時にはもう客船は跡形も無く、荒れた海原に揉まれる様にして救命艇が浮かんでいた。

 実際は二十四時間も経ってはいなかったであろう。救命艇に乗り込んだ全員が生還した。

 だが、船に残された者の消息は誰一人として分かっていない。



 皆川は手にした新聞を広げた。

 開いた左側のページの真ん中より、やや下あたりに目をやる。

 見出しには客船の遭難のその後の進展がないことが、ほんの数行書かれていた。


「まだ加賀谷さん、見つからないんですか……?」


 新聞から目を離し、心配そうに氷川の顔を見る。


「ああ、高柳大佐が全面的に協力してくれているから、響は心配しなくていいよ」


 穏やかな眼差しで皆川の目を見ながら答える。

 ふっと視線を外し、氷川は手にしていた紙袋をそばのテーブルの上に置くと中から梨をひとつ取り出して言った。


「ひとつ剥いてやるから……食べるだろう?」


 氷川は備え付けの棚からナイフと小さなまな板を取り出し、テーブルの上に置くと椅子に座りゆっくりと梨を剥き始めた。


「……悠一様、ちゃんと寝てらっしゃるんですか? 顔色、良くないですよ?」


 あの日以来、氷川は寝る間を惜しんで高柳と連絡を取り合い、方々の港に客船の漂流物が上がってこないか調べまわっていた。

 そんな状況でも決して仕事をおろそかにせず、むしろ今まで以上に働いている。その姿は誰が見ても明らかに無理をしているのが見て取れた。

 しかしながら氷川の気丈に振る舞う姿と、その意志の強さに周りの人間は誰ひとりとして止める事が出来ずにいた。


「俺の事はいいから、響は自分の事だけ考えてろ」


 氷川は梨を向きながら、手元から目を離さずに答える。


「でも……悠一様、無理してるんじゃ……」


「……無理なんてしてないって」


 氷川は思い出していた。

 夜、床につくと瞼の裏に蘇る、あのやさしい笑顔。そして浅い眠りに入ると同じ夢を見る。

 あの最後に別れた桜並木の下での加賀谷の後姿。

 どんどん小さくなって行くその背中に手を伸ばして引き止めようとする、自分。


『待ってくれ! 行かないでくれ! 加賀谷!』


――笑顔で送り出したはずなのに……。


 何時も同じ言葉で目が覚める。

 その夢から逃れるために、氷川は殆ど睡眠を取らずに仕事に身を投じていた。



 ちょうどその時、扉の向こうには皆川を見舞いに花束を持った薬師丸が、まさに扉を開けようと引き戸に手をかけようとしていた。


「ん? 悠一も来てるんか……」


 ふと薬師丸は耳をそぱだてて中の様子を伺った。

 その時だった。


「俺が……俺が……」


「ん? 響、今何か言ったか?」


 ふと梨を剥く手を止めて皆川の顔を見る。

 俯き、辛そうに唇を噛んでいる。絞り出すように呟いた。


「……俺が、加賀谷さんの代わりに……死ねば良かったんだ」


 手にしていた新聞がきしっと音を立ててしわになる。

 その握りこぶしは力と後悔で震えていた。


「……っ!! なんて事言うんだ、響」


「……!!」


 取っ手にかけた手が硬直する。

 その開きかけた扉からそっと手を離し、壁に身を寄せる。

 そのまま中へは入らず、薬師丸は黙ってただ聞いていた。


「今、ここにいるのは本当は加賀谷さんだった筈なんだ! 加賀谷さんが、加賀谷さんが俺を庇って……俺なんかを庇ったばっかりに……」


 俯く皆川の目から大粒の涙が溢れ出す。

 それは新聞の上にぱたぱたと音を立てて落ちていった。


 氷川は手にしていた梨とナイフをそっとまな板の上に置くと、皆川が座っているベッドの背中の方へと座りなおした。

 後ろから肩に手をかけると、そっとやさしく諭すように話し出した。


「……いいか響、そんな事言うもんじゃない。俺は響がこうして無事帰ってきてくれて、嬉しかったんだよ、本当だ」


 流れる涙もそのままに皆川は叫んだ。


「加賀谷さんが、悠一には加賀谷さんが必要だった! 同じように加賀谷さんにも悠一が必要だった! なのに……俺は……」


 皆川は枕の下に手を入れると丸い光沢のある金属を取り出した。


「……この懐中時計、加賀谷さんのお守りだっていってた。……加賀谷さんを守らなきゃならなかったのに、俺を守ってくれて……」


 両手で包むように胸に当てる。

 目を閉じ、懐中時計に感謝した後、皆川はそれを氷川に差し出した。


「これは悠一が持ってなきゃ」


「うん……ありがとう」


 差し出されたそれをそっと手のひらに乗せる。しっくりと馴染む重さのそれを氷川は胸のポケットにしまった。


「……なぁ響、俺はまだ諦めた訳じゃないんだよ。きっと加賀谷は見つかるさ、だからお前は一日も早く回復するよう、無理するんじゃないぞ」


 微笑んで新聞を握りしめていた手を上からそっと包み込むように握った。


「悠一………」


 皆川は再び涙を零しむせび泣いた。そんな皆川の背中をそっとさする。

 氷川はほんのしばらくの間、穏やかな瞳で皆川を見た後再び梨を手に取り、剥き掛けのそれを丁寧に仕上げていった。






「もっと早くにシステムが完成してたら……防げたかもしれへんのに……」


 扉の向こうで薬師丸が低く呟く。

 下を向き唇を噛みしめ、手にしていた花束はその震える拳に握り潰されていた。


「……運命だったんだよ、逆らえなかったのさ」


「……えっ! 真野はんっ? 何時からそこに!?」


 驚いて振り向くとそこには真野が立っていた。

 ハンチングを被り、あごひげを触りながら真野は薬師丸を見た。


「いや、今来たところだよ……教授が扉の前で立っていたのでどうかしたのかと思ってな」


 真野を見て一瞬唖然とした薬師丸は再び思い出しように下を向いた。


「ボクがのんびり構えてて、あの研究を完成させんかったばっかりに……」


 自責の念で肩が震える。その口惜しさと後悔が握っている花束をさらにきつく握りつぶしてしまう。

 真野はふっと笑うと薬師丸の肩をぽんと叩いた。


「教授の所為じゃないですよ……加賀谷の……天命だったんでしょう」


「でも……それじゃ余りにも……」


 真野は薬師丸の言葉を遮るように声を掛ける。


「……俺の店でコーヒー、如何ですか。飛び切り良い豆入ったんですよ」


 真野は悔しそうに俯く薬師丸の肩に手を乗せ、そっと歩き出す。

 それに促され、薬師丸も重い足取りで歩き出した。


「……真野さん、おおきに」


「お安い御用ですよ」


 ふたりはそっと病室から離れ、その場を後にした。

 開け放たれた廊下の窓から射し込む日の光はまだ強く、夏の暑さを感じさせる。

 それでも時折吹く涼しい潮風は確実に時の流れを刻んでいて、もう夏が終わることを告げていた。


















 頬をなでる風が心地よく感じられる十月の初め。

 加賀谷の捜索も打ち切られ一ヶ月が経った。

 その日は大倉が取り仕切る加賀谷の葬儀が予定されていた。遺体の無い、形だけの葬儀。

 加賀谷の他に数人の行方不明者と共に海軍の管理する霊園に加賀谷の墓碑が置かれる事となった。

 

 よく晴れた日の午後。

 秋風が丘の斜面に満開に咲く秋桜コスモスを一斉にやさしく撫でて行く。その淡い色合いの薄紅色がさわさわとやさしく揺れている。風はそのまま丘のふもとから目の前に広がる真っ青な海へと一気に下っていく。

 海を見下ろす丘の頂に一本のおおきなけやきの古木があり、その下に加賀谷の墓碑があった。


 灰色の四角い御影石を囲むようにして立ち並ぶ、参列者たち。ひとりひとりが手にしていた菊の花をそれぞれが順番に墓碑に捧げる。白や黄色の菊の花であたりが埋め尽くされる。

 それぞれがそれぞれの思いを胸に加賀谷に別れを告げた。


「……みなさん俺の店へどうぞ。今日は貸切です。みんなで加賀谷を送ってやりましょう」


 真野がそう告げるとひとり、ふたりと墓碑に背を向け歩き出す。

 最後にひとり、氷川だけが残った。


「悠一様、行きましょう?」


 皆川が声を掛けようとした時、真野がそっとそれを止めた。


「……響、行くぞ」


「……え? ……あ……。……はい」


 墓碑の前で俯く氷川の背中を何度も振り返りながら皆川は真野に促されその場を後にした。

 大きく広がる欅の枝葉の下にただひとり、氷川だけが残される。その枝が風でさわさわと揺れる。俯き佇む氷川にも風はやさしく吹き抜ける。その風でさらりと前髪が揺れた。


「……加賀谷が俺を置いて行く訳ないよな? ……なぁ、今、何処にいるんだ?」


 穏やかな瞳で墓碑を見下ろす。淋しそうにふっと笑うとその前に跪き、灰色の冷たい御影石にそっと触れた。ローマ字で加賀谷の名が刻まれたその文字をそっと指で撫でる。


「……これ、返さなきゃな」


 氷川は黒い喪服の胸ポケットから銀色に輝く懐中時計を取り出した。改めて手に取ったそれはとても冷たく、ずっしりと重かった。

 ふと蓋を開く。その裏蓋には在りし日の加賀谷の笑顔があった。ふたりで撮ったあの写真。初めて思いが通じたあの日のもの。

 金属で出来た懐中時計のその冷たさがあらためて氷川に加賀谷の死を思い知らせる。


――もう、あのぬくもりは帰ってこない、あのやさしい声が聞けない……あの笑顔にもう……逢えないんだ。


 実感したその瞬間、両の目から止め処なく涙が溢れ出した。


「…かが……や。加賀谷……。かがやぁーーっ!!」


 肩は震え手は硬く握りこぶしを作る。墓碑にうつ伏せる様にして呻く。

 身体の奥から出てくる悲しみと悔しさに言葉にならない嗚咽を上げた。




 丘から海へ、さあっと風が駆け抜けていく。

 風に揺れる秋桜コスモスだけがやさしく氷川を見守っていた。





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