Chapter 12.











「ほら、響の番だよ」


「うーん。ちょっ、ちょっと待って」


 二時間ほど前に食事を済ませ、加賀谷と皆川は夕方からのチェスの続きをしている。


「………加賀谷さん、全然弱くなんかないじゃないですかー!」


 白と黒の市松模様の盤面に同じ白と黒の駒が並ぶ。白は大理石で、黒は黒曜石を薄くカットされたものが樫の一枚板に貼られている。駒もそれぞれの石で作られていた。その駒の底には滑り止めとして赤いフェルトが貼られている。それでも置くたびにコトリと音を立てるのは、石の重みによるもの。

 それらはかなり高価なもので有ることは、素人のふたりにも判るほどであった。


 皆川が腕組みをして考え込む。そのときふいに船が大きく揺れた。


「おっと……」


 つつーっと駒が市松模様の盤面を滑り、ぱたりと倒れる。


「随分荒れてきたね」


「お、俺、ホント、苦手なんすよ……」


 皆川は頭を抱え込むようにしてテーブルに伏す。加賀谷は周りをゆっくりと見回した。


 壁には燭台の形に似せて作られたオイルランプが何本かと、テーブルのすぐ脇に厚い硝子のシェードのスタンドがある。とても充分な明かりとは言えず、船の揺れとは別にゆらゆらと揺れる炎が頼りなげに辺りを照らす。

 ふたりがチェスをしているテーブルは円形で、それを中央で支える三本の足はローマ字の『C』の形を円弧の部分で合わせた、優雅な曲線のデザインになっている。椅子も同じように曲線の美しいデザインで、それらは見かけの優美さには似合わず、ずっしりと重量があった。

 室内に窓は無く、内装の壁や床は木製で、大きくきしむ音が揺れるたびにギシギシとまるで締め上げる悲鳴の様にも聞こえる。

 時折激しく外壁を打ち付ける音は雨風によるものなのか、それとも波によるものなのか。雨と波の判別もつかない程の水しぶきが甲板に打ち付ける。大海原に浮かぶその船は、まるで木の葉の様に波に揉まれ嵐に翻弄され始めていた。


 狭くて薄明るい部屋の中でふたりはじっと息を潜めて様子を伺った。


「ちょっと無理しちゃったかな……」


 加賀谷はふっと微笑むと皆川の顔を見た。


「……いきなり帰ったら悠一、驚くだろうね」


「そりゃ、まあ……でも、多分、喜びの方が大きいですよ」


 皆川も加賀谷の笑顔に答えるように微笑み返した。


「ありがとう、響」


「いえ……その……」


「ん? 何?」


「……チェックメイト!」


「ええっ! そ、それは無いよ……ね、待った」


「ダメですよ、加賀谷さん。……えへへ、やっと俺の勝ち!」


「敵わないなー、もう」


「あははは」


 ふたりして笑いあう。

 穏やかな空気に包まれふと安心したその時、悲劇は起こった。

 突然、船室がぐらりと大きく揺れたと思うと目の前のテーブルがバランスを崩し皆川の方へ傾きだした。


「うわぁーーっ!!」


「響危ないっ!!」


 加賀谷の叫び声と同時に床がきしみ、悲鳴を上げた。

 思い切り胸倉を掴まれて思わぬ方向へ投げ飛ばされた皆川は背中に衝撃を感じそのまま気を失った。





「あいたた……」


 気付くと船内のいたるところから轟音が響き、何処からとも無くメリメリと木の裂ける音が聞こえてくる。

 辺りは薄暗くなって壁にあるランプが一つを残して全て割れていた。


「痛っ!? やべ……肩、やっちまったな……」


 身体を動かそうとして、右肩に強い痛みを感じた皆川は視界の効かない中、目を凝らして自分の周りの様子を確認した。

 背中から右肩にかけて、背にしていたチェストの取っ手の部分が当たっている。

 皆川がぶつかった衝撃でチェストは壊れていたが、取っ手の部分だけは金属で出来ており、皆川の肩の骨にひびを入れた。


「……うっ! 肩以外は……大丈夫みたいだな。あれ? 加賀谷さん?」


 視界の利かない中、皆川は手探りで必死に加賀谷を探した。


「……加賀谷さん、加賀谷さんっ!?」


 時折雷鳴が轟く。

 廊下で逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる他は、まだ何処かで木のきしむ音が薄暗い中不気味に響き渡る。

 部屋の中にはもうひとりいる筈の人間の気配が感じられなくなっていた。


「加賀谷さーん! 何処! 返事して! 加賀谷さーん!!」


 薄暗く狭い部屋の中、皆川の声だけが空しく響いていた。













「薬師丸教授、実験の成功おめでとう御座います!」


「これで船の航海もより安全性が高まり、安心して任務に取り組む事が出来ます! これもひとえに薬師丸教授のお蔭です」


「……いや、みんなのおかげやで、ホント、ボクひとりの力やあらへんで」


 口々に乗組員が薬師丸に賛辞を送る。薬師丸と高柳は実験ポイントの海上にいた。

 実験は予定通り行われ、予想通りの結果を残し、大成功を収めた。

 艦内ではその成果を讃え、ささやかではあるが祝賀パーティーが開かれていた。


「やっくん、おめでとう御座います」


 ワイングラスを片手に高柳が薬師丸に歩み寄る。


「ありがと、高柳はん。でもな、もうひとり忘れたらあかんで。ここで本来なら一緒に成功を祝いたい人がおる事」


 薬師丸はにこりと笑うとワイングラスを掲げた。高柳は薬師丸と視線を合わせ、こくりと頷く。


「……氷川悠一くんに乾杯」


「ほな、乾杯」


 チン、と硝子がぶつかる音が小さく響く。ふたりはグラスのワインを一気に飲み干した。

 その時、突然けたたましく艦内に緊急警報が鳴り響いた。和やかなパーティー会場に一気に緊張が走る。


「……何が起こったん?」


 薬師丸と高柳のもとへ若い軍曹が駆けつけた。


「高柳大佐! 救難信号を捕らえました」


「海域は?」


「この先東へ約百二十海里です。……ちょうど台風の真っ只中に有るかと思われます」


「この船の最高速度で……四時間もあれば着くな」


「あの……ただ、かなりしけているので五時間はかかるかと思われます」


「よし、全員配置に着け! 救助に向かうぞ!」


 高柳はグラスをテーブルへ置くと小脇に抱えていた帽子を被りなおす。

 くるりと軍曹に背を向けたとき、後ろから申し訳なさそうにその若い軍曹が数枚の紙切れを差し出した。


「……申し訳有りません遅れました。これがその船の船名と規模の詳細……そしてこちらが乗組員と乗客の名簿になります」


「どれ。……行ってよし」


「はっ! 失礼致しました」


 敬礼をすると慌てて軍曹が駆け出す。高柳はゆっくりとそれらに目を通し始めた。


「規模はさほど大きくも無く、普通の客船だな」


 ふと横から薬師丸が覗き込む。


「にしたってぎょうさんお客さんが乗っとるんやけど?」


「これくらいが普通ですよ……」


 ふと高柳の目が止まった。


「これって……?」


 指を指さしたところを薬師丸が覗き込む。


「え? 皆川、響……? ってあの響はん?」


 薬師丸は皆川の名のすぐ隣の文字に目を丸くした。


「ええ!? 加賀谷さんまで……!? ふたりして……なんでこの船に乗っとるん!?」


「加賀谷さんって……?」


「あ、悠一の……例の恋人やねん」


 薬師丸は名簿に目を戻すと信じられないと言った風に叫んだ。


「一週間あとの船やなかったんか!!」


 呆然とする薬師丸に高柳は低く呟いた。


「……間に合うと良いのだか……」


 艦内は慌ただしく指示が飛び交う。高柳はもう一度名簿を見直してから操舵室へと向かった。










「か、加賀谷さんっ!? 大丈夫!?」


 そっと皆川が尋ねる。


「……ん、大丈夫、だよ」


 皆川を庇った加賀谷は、運悪く倒れたテーブルと背にしていた壁に身体を挟まれて身動きが取れなくなっていた。

 足の折れたテーブルが加賀谷の腹部にのしかかっている。その所為で暫く気を失っていた加賀谷に皆川はなかなか気付けずにいた。

 ふと壁のランプを手にして振り返ったとき、皆川は初めてその全てに気付いたのだった。


「加賀谷さん、ちょっと待ってて。今このテーブルどかすから」


 ランプのガラスの破片やチェスの駒が飛散する床を、這いつくばりながら加賀谷に近づく。

 外壁を叩きつける雨風の音は一向に弱まる気配が無い。それにかき消されるように、時折低くうめく加賀谷の声が薄暗い部屋の中に響いた。


「うっ……。響……怪我は無い?」


 右腕が肩の痛みでうまく動かせず、左腕だけで懸命にテーブルを押す。

 重いテーブルは少し浮くだけで加賀谷を助け出すには至らない。


「俺はなんとか大丈夫です……今、どかしますから、頑張って下さいっ!」


 皆川はランプをかざして周りを見回し、何か支えになるものは無いかと手探りで辺りの床をまさぐった。


「おっと……?」


 手が床を滑る。何か生あたたかい液体で辺りが濡れていた。

 バランスを崩しそうになった皆川は、濡れている辺りに明かりを近づけてみた。それは赤黒く、ふわっと鉄の臭いがする。


「……なんだ、コレ……?」


――どくんっ!


 急に心臓が大きく鳴り出し、得体の知れない焦燥感に全身が硬直する。

 ゆっくり流れの元を辿るとそれは加賀谷が座っている床の方へと続いていた。


――ま、まさか……!?


 皆川は慌てて加賀谷をランプで照らした。頼りない明かりの下、ぼうっと加賀谷の姿が照らし出される。

 よく見ないと分からないそれは、シャツの黒に紛れて皆川の目を曇らせた。壁にもたれ、俯く加賀谷の口元から喉を伝わり胸にかけて赤く血に染まっている。それだけでは収まらず、流れ出た血液は加賀谷の座っている床に赤い水たまりを作っていた。


「か、加賀谷さんっ!! 加賀谷さんっ!! どうして……! しっかりして!」


 慌てて加賀谷の肩を揺する。加賀谷は顔を起こすと殆ど聞き取れないほど微かな声で囁いた。


「僕は……いいから……響だけでも……逃げて」


「な! 何言ってるんですか!! 加賀谷さんも一緒に帰るんです! 今どかしますから!!」


 闇雲にあちこちを探る。皆川は手に触れた椅子の残骸をテーブルの下へ潜り込ませた。

 テーブルと加賀谷の間にかろうじてこぶしひとつくらいの隙間を作る。加賀谷の両脇の下へ手を入れると、渾身の力を振り絞ってテーブルの下から救い出した。


「加賀谷さん……しっかりして下さい!」


 力なく項垂れている。顔色は蒼白で呼吸も浅い。

 壁にもたれるように座っている加賀谷の肩をもう一度軽く揺すった。


「響だけでも……助かって」


「一緒に帰らないとダメだよ! 俺だけ帰ってもダメなんだよ! 加賀谷さん!!」


 皆川は興奮の余り大声を出した。もう自分でさえ、泣いているのか怒っているのか分からなくなっていた。


「悠一が待ってるんだよ!? 加賀谷さんの帰りを! 悠一の……悲しむ顔なんて見たくないんだ!! 諦めないで!!」


 ふっと加賀谷がやわらかく微笑んだ。


「……悠一の事、好きなんだね」


「え!?」


 唐突に言い当てられ一瞬たじろぎはするものの、すぐさま切り返す。


「好き……とか、そう言うんじゃなくて……ただ、悠一には加賀谷さんじゃないとダメなんです、俺じゃ……ダメなんです!!」


――彼は一生懸命頑張ってくれている……本当に僕の事、悠一の事を案じて……


「ごめん、分かった。僕も諦めないよ」


 口ではそう言ったものの、加賀谷は自分で気付いていた。


――ごめん響。僕は……もう帰れそうにない。せめて響だけでも……助からなきゃ!


 加賀谷は残り僅かな最後の体力を振り絞って、よろけながらも立ち上がった。


「さあ、俺の肩に掴まって! ……必ず帰りましょう!」


 皆川は激痛の走る右肩をかばいもせず、左肩で加賀谷を支え、僅かな明かりを頼りに部屋を出た。


「こ、これは……」


 なんとか甲板に上がるべく階段までたどり着いた二人の前に、瓦礫の山がその行くてを塞いでいた。


 加賀谷をそっと下ろした皆川は、左手で瓦礫をひとつずつどかし始めた。

 その間にも船はどんどん傾いている。

 皆川は懸命に、なんとか人ひとり通れる隙間を開けた。


「さ、加賀谷さん、先に……」


 座っていた加賀谷の方を振り向く。

 その瞬間、加賀谷の口から鮮烈な赤い血が流れだした。


「ぐふっ!」


「か、加賀谷さん!?」


「ご、ごめん、響、僕は自力じゃもう……」


 自分の右腕は使い物にならない。

 加賀谷の状態は一刻をも争う。

 一瞬考えた皆川は他の乗客や乗組員を探すことにした。


「加賀谷さん、俺、人を呼んできます」


――絶対助けを呼んできますから、ちょっとだけ我慢して下さい。


 皆川は加賀谷を励まそうと軽く抱きしめた。

 その時、加賀谷は皆川に気づかれないよう、そっとポケットに懐中時計を忍ばせた。


――響、あとは頼んだよ。悠一にそれを渡して……。


「ありがとう。響、気を付けて」


「はい。必ず戻ってきますから、ほんの少しだけ待ってて下さい」


 皆川はその瓦礫の隙間を這って進み、階段を上っていく。

 その姿を見送った加賀谷は一番近くの部屋の扉を開けて中へと入った。


 そこはかつては食後のひと時を楽しむ憩いの場。床には欧州風のティーカップの残骸が空しく散らかっている。

 中央にはグランドピアノが置かれてあった。かろうじて残っている壁の照明が辺りをぼんやりと照らし出す。そのグランドピアノは足を一本折って傾いてはいても、曲線の美しい形を保っていた。

 吸い寄せられるようにピアノへと近寄る。加賀谷は膝を付くと傾いているピアノの蓋へ手をかけた。そっと手を滑らせてやさしく撫でる。そのまま蓋に伏せるようにしてもたれかかる。

 それはまるでピアノを抱き締めている様だった。



――歌があったから僕は……悠一に出逢えた。悠一がいたから僕は……生きていられた。……なんておだやかなんだろう。悠一の事を想うだけで僕はこんなにも幸せになれる。



 次第に遠くなる意識。両目を閉じると全身の力が抜けていくのが感じられた。



――でも……最後に一言だけ……伝え……たい。……ゆう……いち……あ……



 かろうじて残っていた最後の灯りも崩れてきた家具でその役目を終えた。

 真っ暗な闇の中、加賀谷の気配も静かに闇の中へと消えていった。









「まだいたのか! さあ、早く! 救助艇に乗り込むんだ!」


 真っ暗な空には雷鳴が響き渡る。吹き付ける激しい雨風。立っているのがやっとの甲板で皆川は一目散に乗組員の元へと駆けていく。皆川を視界に入れた乗組員が救命艇へ避難するよう促した。


「待って! まだ、まだ中にいるんだ!」


 雷雨の轟音の中、精一杯の大声で皆川は叫んだ。


「何だって…!? 何処にいるんだ!」


「この下のきゃく……うわぁっ!!」


 答えようとしたその時、今までに無い大きさの揺れが起こる。それはゆっくりと確実に下がっている感覚を伴っていた。


「諦めろ! ……沈むぞ!」


「そんな! ダメだよ!」


「何言ってる! 今逃げないと君も助からないぞ!」


「加賀谷さんを置いていくくらいなら死んだ方がマシだ!」


「ばか者!」


その瞬間皆川の頬を激痛が襲う。


「君だけでも生きろ!」


 乗組員は皆川の腕を掴むと甲板の柵に横付けされていた救命艇へと押し込んだ。

 皆川を乗せたその小さな船は何人もの生存者を乗せて海面へと下ろされる。


 まるで皆川が乗り込むのを待っていたかのように、目の前の大きな船は轟音と共にゆっくりと波間へ飲み込まれていった。


「……そ、そんな……か、加賀谷さん…加賀谷さーん! かぁがやぁさぁーーん!!」


 雨と涙で顔を濡らしながら、喉が裂けんばかりに加賀谷の名を呼び続ける。

 その魂の叫びも嵐の轟音の中でかき消され、目の前には何も残らない。

 力尽きて両手をついた時、皆川は上着の裾が何かの重みで下がっているのに気が付いた。

 ポケットの中に何かある……手を入れてそれを取り出した皆川は驚いたのと同時に大事そうに胸に抱えた。


――加賀谷さん……。一緒に帰ろう。


 ただひとつ残されたその懐中時計を胸に皆川は救命艇の中で気を失った。

 皆川と生存者を乗せた小さな救命艇はやがて必ず来るであろう救助を信じて激しく荒れ狂う嵐にただひたすら堪え続けた。














「……ん、これでよし。……えと、次の書類は……あ、これか」


 宿舎で皆川はひとり、机の上に束になっている書類に順番に目を通し、処理していく。明け方近くになっているのにも気付かず、氷川は仕事に専念していた。

 海が近い所為か開け放たれた窓から潮騒の音がやさしく聞こえてくる。ふと風に煽られカーテンが大きく揺れた。


「……ん?」


 人の気配を感じて窓の方を見る。そこには……加賀谷が立っていた。


「えっ!? 加賀谷……? 何時の間に帰ってたんだ!?」


 戸惑いながらも思わず立ち上がる。手にしていた書類がばさりと音を立てて床に落ちた。

 驚く氷川のその問いには答えず、加賀谷はゆっくりと氷川の方を向いて両手を広げた。


「悠一……」


 やさしい声が響く。


「……加賀谷!!」


 疑問よりも先に身体が加賀谷へと駆け寄る。少し戸惑いながらも氷川は加賀谷の胸の中へ飛び込んだ。

 ゆっくりと確かめるように背中に腕を回す。


――あぁ、加賀谷だ! このぬくもり、この腕の強さ、ずっと待ってた……加賀谷だ……


 強く固く抱き締めあう。しっかりと、こころを身体ごと抱き締めあった。


「ねえ、悠一」


「ん、何?」


 何時も増してやさしい眼差しが、あたたかく氷川を見つめる。


「今度生まれ変わったら……って約束、覚えてる?」


「忘れるわけがないだろ! 俺の方から頼むって言ったんだし」


「うん」


 加賀谷は嬉しそうに頷いた。


「一緒に歌おう! だろ?」


「……約束だよ、忘れないでね」


 加賀谷は軽く氷川の顎をつまむと自分の唇を氷川の唇に重ねた。


「んんっ……」


 加賀谷以上に氷川が求める。深くなるそれは時の流れをひと時止めた。


 ゆっくり唇が離れる。

 加賀谷はあたたかく慈しむように氷川を見つめると、笑顔で伝えた。


「悠一、ありがとう」


 やさしい声が耳に響く。

 その瞬間、ふわっと風を感じて窓を振り返る。

 もう一度自分の目の前の加賀谷を確かめようと視線を戻した時には、その姿はもうそこには無かった。


「あれ……? 加賀谷……? 何処へ?」


 さっきまでの加賀谷のぬくもりや唇の感触がはっきりと残っている。

 部屋中の空気までもが、まるでついさっきまで加賀谷がそこにいたかのように、おだやかでやさしかった。



コンコン!



 そのとき不意にドアをノックする音が響いた。


「……え? こんな時間に何だろう」


 窓の方を気にしながらもドアへと向かう。


「明け方早くから申し訳ありません、高柳大佐から緊急のご連絡です」


 ドアを開けると先日部屋を案内してくれた若い海軍兵が立っていた。


「電報です」


 氷川へそれを渡すとすぐさま一礼して踵を返す。

 その後姿を見送った後、氷川は渡された電報を手にソファに腰掛けた。


「実験結果なら戻ってからで充分なんだけどなぁ」


 何気なく封を切る。

 そこには加賀谷と皆川の遭難の件が書かれていた。


「何かの……間違い……だろ……? なんで……だよ? そんな筈が………!?」


 全身がガタガタと震えだす。

 震えはどんどん酷くなり、身体を支えきれず、ついには力なくソファから床へとずり落ちる。

 言葉を失ってだただた呆然とする氷川だった。





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