Chapter 11.









『響、頼んだぞ、お前しかいないんだ。俺にとって加賀谷は、この世でたったひとりの大切な人なんだ……』


――俺は俯いてただ頷くしかなかった。あんな顔して……あんな眼差しで頼まれたら、イヤだなんて言える理由わけがないよ……



「響、どうかしたの? 気分でも悪いの? 船室に戻ろうか?」


「なんともないです。……俺なんかに気を遣わなくてもいいですよ、加賀谷さん」


 心配そうに覗き込む加賀谷に一応笑顔で答えるが内心は複雑だった。



 夏も盛りを過ぎた八月の終わり。

 皆川はドイツまで加賀谷を迎えに行き、連れ立って日本に向かう船内にいた。

 どうしても迎えに行って欲しいと氷川に頼み込まれ、渋々船旅に出たのである。

 氷川はついでに往復路と別にドイツで一週間の滞在を、休暇として楽しむよう皆川に命じていた。


 何も遮るものの無い太陽の日差しがきつく甲板に当たる、昼下がりの太平洋。

 その大海原から吹き寄せる風はとても心地よく、周りは海の青と空の青の一面青色のみ。

 時折空には白いかもめが群れを成し、船の上を飛び交う。

 それ以外は視界に入るものは波しぶきの眩しい白と海の深い青、空の澄んだ青。


 そんな単調な景色にも関わらず、加賀谷の表情は明るく楽しげであった。

 日本に着くまであと七日あまり。

 まだ暫くは大海原の上で変わらない景色を見続けることになるのだが。

 しかし加賀谷にとってそれは単に日本へ帰る、と言うだけでなく加賀谷自身が沢山の経験とその思い出を胸に抱いてるからであった。


――悠一に逢ったら先ず、何から話そう……


 加賀谷の胸の中はいつも氷川への想いでいっぱいだった。


 甲板のデッキに身を乗り出して海を眺めていた加賀谷は、隣で同じように海を見ていた皆川に視線を海に向けたまま、やさしく話し出した。


「日本からわざわざ迎えに来てくれてありがとう。疲れてるでしょ? その上僕のままで悠一を驚かせたくて……出発を一週間も早めてしまって。……休暇も兼ねてたのに本当にごめんね……?」


 殆どトンボ帰りの皆川に加賀谷は申し訳なさそうに言った。

 皆川がひとつため息をつく。

 遥か水平線を眺めながらゆっくりと答え始めた。


「謝る必要なんて無いですよ。俺、休みなんて要らないって言ったのに無理矢理休めって。それに……」


 ふっと軽く笑うと、視線を落とし数メートル前の白く打ちあがる波しぶきに目をやった。


「俺には食事が合わなくてツライっすよ」


――第一これは悠一の……たっての頼み。俺は『秘書』としてちゃんと加賀谷さんを日本へ連れて帰らないといけないんだ。


 半ば俯いて苦笑いをする皆川に加賀谷はやさしい笑顔を向ける。


「……本当にありがとう。響みたいな人が悠一のそばにいてくれて、心強いよ」


 皆川にしてみれば氷川の頼みは断れる理由も無い。

 自分の意思でここにいる訳でもないのに加賀谷に礼を言われてなんとなくばつが悪く感じている。

 そのうえ、氷川に特別な感情を抱き始めていた皆川にとって、加賀谷の存在は素直に喜べないでいた。

 そんな加賀谷に自分がいい人だと思われている……皆川はますます胸の中が複雑な思いでいっぱいになっていた。


「俺なんか何のとりえもないし、何かに秀でてる訳でもないし。ただ、小さい頃から悠一と一緒にいただけで……」


 俯いて呟く皆川に加賀谷は笑顔を向けながら訪ねた。


「悠一と幼馴染なんでしょ? 僕の知らない悠一を沢山知ってるんだよね? 小さい頃の悠一ってどんなだったの?」


「それは……」


 皆川は当たり障りの無い、いかにも幼馴染がするような、子供の頃の遊びや悪戯をかいつまんで話した。


「そっか、悠一も子供らしい子供、だったんだ……。僕も早くに出逢えてたら、響とももっと仲良くなれたかな?」


――俺なんかと仲良く……? そんな事思わないで下さい、俺なんか……ほんとは貴方に嫉妬してるんですから……


 皆川はひどく真面目な顔をして加賀谷を見た。


「……加賀谷さん、悠一様の何処が良いんですか?」


 皆川は自分をいましめるつもりで敢えて訊いた。


「え? それはどういう……」


「その……恋人として、です」


 加賀谷は思いもしない質問に少しだけ驚いたが、すぐにあたたかな瞳とおだかやかな声で語り始めた。


「悠一は僕を見つけてくれた、そして僕を救ってくれた。人を信じる事を出来なくなっていた僕に、その大切さとあたたかいこころを教えてくれた……僕に愛を与えてくれた、そして支えてくれた、僕を信じてくれて……周りの事、全てに盲目だった僕の……悠一は僕の光だよ」


 大海原の水面が太陽の日を受けてきらきらと輝く。

 眩しそうに遠くを見つめるその眼差しは果てしなくやさしく穏やかだった。


「……もう、僕の半身だと、やっと出逢えた僕の魂の半身だと、そう思ってる」


――魂の半身。


 皆川はドイツへ旅立つ前に氷川から言われた言葉を思い出していた。


『俺にとって加賀谷はもう、無くてはならない存在なんだ、俺の魂の半身なんだ、やっと出逢えた俺の半身なんだよ。ふたりでひとつなんだ。互いに支え与え合う、もし、加賀谷がいなくなったら俺は、また彷徨さまよわなくちゃいけない。もう加賀谷なしの俺は有り得ないんだよ……』


――遠く離れていてもふたりの想いはひとつ……。


 加賀谷の事を語る氷川の熱い眼差しは皆川自身に向けられたものではなく、皆川を通して加賀谷に向けられたものだと、今更ながら気付かされる。そして今、同じ事を想っているふたりの強い絆を嫌と言うほど思い知らされた。


 暫く間の有った後、皆川は俯いて寂しげに言った。


「心底愛し合っているんですね……羨ましいですよ。俺なんか……俺なんかを想ってくれる人なんていやしない」


――俺の入る隙なんてこれっぽちもねえや……


 そんな皆川をあたたかく見つめる。加賀谷はやさしく言葉をかけた。


「……例え愛する人がいなくても信頼を得ている人は凄く近くにいるよ。悠一が響の事、凄く信じてるの、僕は知ってる」


 ゆっくりと顔を上げながら、思わず加賀谷の顔を見つめる。


「……悠一様が俺を信じてる……?」


――俺と悠一は信頼で結ばれている……? それは、友情……なのか? 愛情でないものの、望みさえすればずっと悠一の傍で見守っていられる。『友情と信頼』という絆を得て、悠一の傍にいられる……? 悠一にとっても俺にとってもその方がいい、のか……?

でも『愛情』は……俺の気持ちは……?


「これからも悠一を助けてあげてね、それが出来るのは響、君だけだから」


 太陽の日差しに負けないくらいの眩しい笑顔で加賀谷は微笑んだ。

 思わず目を細めて魅入ってしまう。


――これが……悠一の愛した人。悠一の選んだ人、だもんな。……しかたない、よな……。


 ふと空を仰ぐ。真っ白い雲が眩しくて思わず目を閉じた。

 加賀谷のいる方向の反対側の頬に一筋の涙が零れる。

 皆川は手の甲でその頬をぐいっと乱暴に拭うと、加賀谷の顔を真っ直ぐに見つめ直した。

 そして自分の思いを断ち切るようにはっきりと答えた。


「はい。俺、一生悠一様の為に尽くします。悠一様が社長として成功を収めてもずっとついていきます」


「……ありがとう。本当に響が傍にいてくれて良かった」


 おだやかな眼差しで皆川を見つめる。

 加賀谷はふと思い出したようにシャツの胸のポケットから懐中時計を取り出した。

 銀色に光るそれは黒いシャツに映えてより輝きを増している。

 大事そうにそれを胸に当てると目を閉じて俯きながら呟いた。


「……悠一、良かったね」


 目を閉じたまま懐中時計に軽く口づけるとすぐさまそれを胸のポケットに仕舞った。


「……それは?」


 一部始終を見ていた皆川が不思議そうに訊ねた。


「……お守り、みたいなもの、かな?」


 加賀谷は皆川に向かってにっこり笑うと嬉しそうに答えた。

 そのとき急に強い風を感じて空を見上げる。そのまま辺りを見渡して加賀谷が呟いた。


「なんだか風が強くなってきたね、心なしか船も揺れてるみたいだし」


「そういやいつの間にか雲ってきましたね……俺、揺れるの苦手なんですよ、もう船室に入りませんか」


「うん、もう夕方だしね。そうだ、チェスでもやろうか? 土産に持たされたのがあるんだよ」


 少しだけ考えて上目遣いで皆川が答える。


「……俺、弱いっすよ?」


 それを聞いた加賀谷も悪戯っぽく微笑むと、耳元で声を潜めて囁いた。


「僕もたいした事ないよ?」


 一瞬顔を見合わせた後、互いに堪えきれないといった感じで笑い出す。


「ぷっ、あははは! 加賀さんも?」


 笑いながら甲板を後にする。

 その明るい声とは裏腹に、空には何処からとも無く暗い雲が立ち込め始めていた。




















 氷川は紐で綴られた分厚い書類をめくりながら、時折下がってくる眼鏡の位置を指で直してそれに目を通していた。


「それでは無事帰還を祈ります……今一度、計画の内容を確認させて頂きます」


 その氷川の前には見慣れたゆるい和装の薬師丸と、対照的に濃紺に金の装飾が施され胸には勲章を付けた海軍の制服に身を包んだ高柳が立っている。


 まだ真夏の日差しと変わらぬ強い日の光が氷川の眼鏡に反射する。

 きらりと光るその瞬きと同じように、目の前の水面も光を反射しきらきらと眩しく光る。

 その光のきらめきを作るさわやかな風が、海から港へと心地よく吹いていた。


 ここは海軍の船が停泊している、横浜港の一角。

 薬師丸は高柳に同行して実験とその検証に今から船に乗り込むところだった。


「装置が正しく作動して予測をはじき出すとなると、三日後には予定ポイントの海洋上で台風と遭遇するはずですね。規模もこの軍艦にはさほど影響は無いと思われるくらいですが……でも、普通の客船や貨物船には充分危険な規模ですから、是非ともお気をつけ下さい」


「ホンマ、軍艦じゃないと無理な実験やさかいにね」


 腕組みをし、頷きながら言う薬師丸に高柳が続けた。


「現場に行ってみないと分からないかも知れないが、台風のコースを割り出せると言うのは大きな安全と今後の色々な軍事での発展に繋がる。是非この実験でその確実な予測方法を手中に収めたいものだ」


「大丈夫ですよ、薬師丸教授の発明は素晴らしいものです、俺が、いや、私が保証します」


 高柳に対して姿勢を正す。そんな氷川に高柳は苦笑いをした。


「……悠一、今更そんな他人行儀な態度はやめてくれよ。大学の先輩後輩、と言うよりは悪友みたいなもんじゃないか」


 肩の力を抜いてさも親しげに高柳が氷川の肩をぽんぽんと叩く。

 そんな高柳に氷川は一瞬表情を緩めたが、すぐさま真面目な顔つきに戻る。


「それは昔の事です。……確かに先輩には悪い遊びを散々仕込まれましたが……いえ、失礼致しました、高久大佐」


「悠一も親父さんの後を継ぐって決めたら、本当に真面目になって。……でも、肩に力入りすぎだぞ、何がそんなにさせるんだ?」


 黙って聞いていた薬師丸が横を向いてぷっと笑った。


「……薬師丸教授、何が可笑しいんです?」


「あー! もう『やっくん』て言うてって言ってるやんかー!」


「何か知ってるんですか? 薬師丸教授」


「あー! もう、高柳はんまで!」


 多少ふてくされながらもすぐさま満面の笑顔になって答える。


「悠一が頑張る秘密は……恋人の為なんやで!」


「うぉあ!? いきなり何言い出すんですかー!? 止めて下さいよ……やっくん!」


 真っ赤になる氷川に高柳は驚きながらも笑顔で肩を叩きながら言った。


「隅に置けないヤツだな。でも誰かのために頑張れるってのは良い事だ」


 腕を組み、うんうんと頷く薬師丸。氷川は参ったな、と呟くと照れて俯いてしまった。

 そのとき出港の合図を告げる汽笛が港中に低く響き渡った。


「それじゃ俺は宿舎で待機しています。一週間後の無事帰港を祈って……」


 氷川は高柳に敬礼すると薬師丸に向かって言った。


「きょ……。やっくんもお気をつけて」


 最後にふたりが乗り込む。

 もう一度出港の汽笛を当たり一帯に響かせると、その大きな軍艦はゆっくりと港を離れて行った。


 暫くの間、その軍艦が波間を進むのを見送る。

 目を閉じ、静かに祈る。安全と成功を願って。

 ふと目を開くと氷川は港を背にして宿舎へと向かった。











「氷川様、お部屋はこちらになります」


「案内……ありがとう、ご苦労様」


「はっ! それでは失礼致します。室内の物は何なりとご自由にお使い下さい」


 氷川とそう変わらない若い海軍兵が姿勢を正し、敬礼をしてくるりと背を向ける。

 その後姿を見送ってから氷川はドアのノブに手をかけて中へと入った。


 そこは港に隣接された軍の宿舎内。

 外観は煉瓦で出来た頑丈な作りに、硝子の厚い窓がはめ込まれ、その重厚な作りはそれだけで見るものを圧倒させる。

 一階は緊急時用の作戦会議室などの施設があり、二階以降は宿泊施設を備えている。

 その建物自体が上官、若しくは政府要人専用の宿泊施設となっていて、一般人はおろか一兵卒もが許可なくしては入れない程の厳重な警備網が敷かれてる。


 部屋の中は要人専用らしく、そこそこのクラスの家具が並んでいる。

 床には厚い絨毯が敷かれ、部屋の中央にはテーブルとソファが並び、その突き当りの壁には天井まで届きそうなほど大きな観音開きの窓が薄いカーテンにさえぎられ柔らかな光を室内に入れている。その大きな窓の外にはバルコニーがあり、横には下へと続く階段がついていた。

 その窓の左側の角に大きくてシンプルな机と椅子があり、その机の上には小さなスタンドが置かれている。窓を挟んで右側にもうひとつ続きの部屋が有り、そこには大きめのベッドが、鏡台と並ぶようにして置かれていた。西洋式のトイレとバスルームがひとつなった部屋が入り口のすぐ右手にある。

 まるでホテル並みの環境を備えてはいたが、必要以上の装飾は施されていない。それが軍の施設である事を物語っていた。


 氷川はまっすぐ窓まで歩み寄ると、その大きな観音開きの窓を両手で開け放つ。

 海に面したその窓から潮の香りをまとった涼しい風が、ふわりと大きく薄いカーテンを揺らした。


 大きくひとつ深呼吸をする。ひといきついた後、すぐ横の机の上に書類かばんを置くと中から封筒を取り出した。

 大切に中から手紙を取り出すとそっと広げる。それはもう何度も何度も読み返されたらしく、手紙の折り目から破れそうになっていた。熱い眼差しで文面をなぞる。


「今頃何してるんだろう? ……ふふ、きっと歌ってるんだろうな」


 ふと隣の窓から覗く青い空に目を細める。


――逢いたい……とても……。こうして加賀谷の事を想うだけで胸が……熱くなる。 この手で触れたい……。あの声を……加賀谷の歌を聴きたい。


 視線を手紙に落としほんの暫くやさしい眼差しで見つめると、元通りにたたみそっとくちづけた。

 用意された部屋で実験の成功を収めた軍艦の帰りと、留学先からの加賀谷の帰りを仕事をしながら待つ。


 加賀谷が帰国する船便を一週間も早めた事を知らされていない氷川は、この先に待ち受ける運命の悪戯いたずらの前にただ加賀谷の帰りを信じて待つしかなかった。





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